桜の史跡NO.2

          
                                
    (所在地・四日市市桜町3060 乾谷(いんだに)公会所敷地内)
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【大谷社 通称弁天様】
山の神
乾谷(いんだに)公会所の敷地内、鳥居の正面奥が「大谷社・通称弁天様」です。
弁天様は、字大谷(あざおおたに)にあった溜池「大谷池(別名・弁天池)」の祭神です。
向かって左側に「山の神」が鎮座しています。
「山の神」は、乾谷(いんだに)公会所の弁天様の横(向かって左側)に鎮座しています。

乾谷の「山の神」の詳細は、「山の神」集へ。


『明治十八年伊勢国三重郡櫻村地誌附属六千分壹之圖』の一部に、乾谷地区の「大谷社(弁天様)と山の神」の遷移を編集加工しました。(加工・eitaki)
1986年(昭和61)以降、「弁天様と山の神」は乾谷公会所敷地に鎮座。 


    「大谷社(おおたにしゃ)」通称・弁天様について
  創立年: 1850年(嘉永3)
  祭 神: 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)別名弁才天。
  祭 日: 毎年7月14日  現在では7月14日前後の日曜日。

『大谷池』の歴史 (出典:『明治17年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』)
  1. 江戸時代末期の1849年(嘉永2)の春、村人は現・乾谷公会所から北西の山地の字(あざ)大谷に溜池を掘る事を領主に出願し、同年8月から工事に着手、2年余りの歳月をかけて完成させた溜池が「大谷池」です。
    【大谷池の面積・・・1010坪(約3333u)、東西:95m、南北:72m】
    【註1】桜一色村乾谷は津藩領に属し、この時期の藩主は藤堂高猷(たかゆき)
    【註2】溜池とは、農業用水を確保するため、降雨を貯水する人工池のこと。
    【註3】関連ページ・・・「大谷池(弁天池)のマンボ」へリンク

  2. 当時の出役官吏であった津藩司農・高橋省五郎が、水が干上がることなく永遠に満々と水を湛(たた)える溜池であるようにと、守り神として厳島神社の神を祀るように命じました。

  3. そこで村人は、1850年(嘉永3)、大谷池の北東に古くから鎮座していた「山の神」の傍に、神籬磐境(ひもろぎいわさか)の故事に倣(なら)って、すなわち神の降臨を願って榊や樹木で青柴垣を巡らし、岩石や巨石で境界を明確にして神域をしつらえて、一社を建立して市杵島姫命を祭祀し「大谷社」と名付けました。
    【大谷社の神域・・・54坪(178.5u)、境内に松樹あり。】

  4. その後、村人は市杵島姫命→弁才天→弁天様に因んで、「大谷池」を「弁天池」、「大谷社」を「弁天様」と呼び習わすようになりました。

    市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と弁才天(べんざいてん)
    市杵島姫命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)の際に生じた宗像三女神の一柱で、海の神・水の神として信仰される。
    (宗像三女神・・・田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たきつひめのみこと)、市杵島姫命)
    弁才天は、インドの河神で、日本では吉祥天と混同されて弁財天と称され、七福神の一つとして信仰される。
    中世以後の神仏習合思想によって、市杵島姫命と弁才天は習合した。
     (なお、厳島神社には宗像三女神が祀られている)

  5. 終戦後、村人は「弁天様」と「山の神」の御神体を、元の場所(弁天池の北東の高地)から、池から少し離れた南東の地に遷座しました。 これで以前よりは里から近くて参拝に便利になりましたが、それでも田んぼの畦道を歩かねばならず、特に年配者には困難でした。

  6. 昭和61年、乾谷公会所の新築に伴って、再度両御神体を当地に遷座しました。

  7. 「大谷池」通称・弁天池の現状
     平成初期に、弁天池のある字大谷とその周辺山間部の土地は、グレイスヒルズカントリー倶楽部株式会社へ売却が始まり、平成11年ゴルフ場になったため、弁天池は最早灌漑用溜池としての機能を失っています。 
    【弁天池の写真】 
    グレイスヒルズカントリー倶楽部(株)ゴルフ場内15番ホールにて 
    西方向撮影 合成写真 (写真提供:伊藤成利様(桜町) 2008年11月28日撮影)

  8. 現在、乾谷の人々は、江戸時代末期1850年(嘉永3)に苦労して弁天池を掘り、永久に水が干上がらないようにと願を込めて市杵島姫命を祭祀した初心とその恩恵を忘れず、今もなお年一回7月14日前後の日曜日を「弁天様の祭礼日」と決めて、公会所に寄り集まり、川島宮司による祝詞奏上(のりとそうじょう)とお祓(はら)い、組長による玉串奉奠(たまぐしほうてん)をして粛々と感謝の念を捧げてみえます。

大谷社の棟礼について
 「文久三癸亥年六月廿五日」付の大谷社の棟札から、下記3点の事柄が判ります。
  文久3年は1863年、下記の青字は棟札の原文を読み下し文にしたものです。
  1. 津の相の里の一色の村の山田直左エ門はこの池を掘り村の人々を使う役人にてありける
    津藩司農高橋省五郎とは別に、現地役人として桜一色村の山田直左エ門がいました。
    (註)1. 1636年(寛永13)から幕末まで、桜一色村と佐倉村は津藩領地でした。
       2. 江戸時代から1874年(明治7)まで、乾谷は桜一色村の一集落でした。
         (明治8年、桜一色村と佐倉村が合併して「桜村」となる)

  2. 池が成就して、山田(直左エ門)と村の長(おさ)佐野正路と里の人々が共に、いつまでも水をたたえて苗を養い給う様にとて弁財天をいわいおさめける

  3. 棟札の最後に「佐倉の里祠官佐野定道敬白」と記す。



    弁天様の祭礼について

平成23年度 弁天様祭礼
   日 時: 
平成23年(2011年)7月10日(日) 11時より催行
   場 所: 乾谷公会所
   主 催: 乾谷地区42軒


見学記録
  1. 弁天様祭礼の当日は朝から猛暑でした。10時頃乾谷公会所へお邪魔すると、世話役さんが5人おみえになっていて、既に祭壇が整えられ、御酒、野菜、農作物、その他御供物がたくさん奉納されていました。

  2. 午前11時から、川島宮司様によって粛々と祭礼が始められ、祝詞奏上、お祓い、玉串奉奠が粛々と斎行されました。

  3. その後、同宮司様から以下の貴重なお話を賜りました。
    祭神市杵島姫命が弁才天と習合して弁天様と呼ばれるようになった経緯
    乾谷地域の御先祖が脈々と毎年一回弁天祭を伝えてきた意義
    弁天様の祭事を通して、強めた地域住民の結束と住民相互の心の繋がりの重要性
    次世代への祭事継承とその意義の大切さについて

  4. 乾谷地区の「弁天様祭礼」 (写真撮影:2011年7月10日)

    川島宮司の祝詞奏上

    各組長の玉串奉奠


  5. 乾谷公会所に掲示されている「奉納額」2点 (撮影日・同上)
     
     
    【奉納 慶応三丁卯年六月豊日 小森與三右エ門】 
     (三頭の馬が水辺で喉の渇きを癒している様子が描かれています)


     
    【大谷社 祭神 市杵島姫神 明治十四年七月十四日 佐野美之謹書】


謝辞:
 乾谷地区の「弁天様祭礼」の当日には、桜郷土史研究会会員の見学をご許可下さいまして有難うございました。
 桜町の伊藤成利様には、ゴルフ場内の「弁天池」の現状を伝える貴重な御写真をご提供頂き有難うございました。
 ここに、皆々様に深く感謝申し上げます。

参考文献:『明治17年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』、大谷社棟礼「文久三癸亥年六月廿五日付」 (文責:永瀧洋子)