これは、昭和時代の戦争
(満州事変・日中戦争・太平洋戦争)
生き抜いた四日市市桜地区の女性の戦争体験記です。

三重県三重郡桜村国防婦人会役員一同
(現・三重県四日市市桜地区)

(撮影:昭和17年12月、 於:石川病院屋敷内)
たすき

 
 上記写真の前列右から三人目が、「桜村国防婦人会の会長」の石川まさを様です。 "女医"がたいへん珍しかった昭和初期、石川まさを様は「石川病院の女医さん」として、桜村の人々ばかりでなく近郷の人々にも有名で、殊に女性たちからは尊敬され慕われていました。
 写真の女性たちは、桜村内の各々の字(あざ)から選ばれた役員です。
この写真は、昭和17年12月、石川病院で「桜村国防婦人会の役員会議」が開催された際に記念撮影したものです。

 この写真の女性たちは、着物の上に全員白い割烹着(かっぽうぎ)を着て、「大日本國防婦人会(通称・国防婦人会)」の(たすき)を掛けています。これが国防婦人会の制服で、貧富の差無く、誰でもこの格好で公式の場に出ることができました。
 また、この白い割烹着は、国防婦人会の奉仕精神・活動姿勢の表れでもあり、兵営や陸軍病院での洗濯奉仕、地域に於いては軍人遺族の慰問や様々な奉仕活動を行い、多岐にわたった「銃後の守り」をする女性の優しさと甲斐甲斐しさを象徴するものでした。



 【目 次】 (全項目にリンクしています) 
  はじめに 
  1 桜村の女性の戦争体験記
  2.アンケート回答者の内訳
  3.戦前に所属していた女性団体名
  4.女性団体に入った事情・入らなかった事情
  5.敗戦までに実際に活動した内容
  6.出征兵士を送った時の気持ちについて
  7.出征兵士の留守家族や戦士兵士の遺族への援助
  8.銃後の護りとしての女性活動全般を振り返って
  9.戦時中の教育に関して
  おわりに


はじめに
 
 戦後53年経た1998年(平成10)の12月から1月にかけて、四日市市桜地区の女性の戦時体験の実態を把握するため、「アンケート」の調査を下記の手順で実施させていただきました。

 【戦後53年、1998年(平成10)に実施したアンケートの調査方法】
  • アンケート実施の趣旨・・・桜地区内居住する60歳以上の女性の「昭和の戦時体験」の実態把握
  • アンケートのタイトル・・・「女子青年団・国防婦人会などに関するアンケート」
  • アンケート対象者・・・・・桜地区の老人会「たのし会」の60歳以上の女性会員399人
  • アンケートの説明会・・・・1998年11月「たのし会役員月例会」で趣旨説明と協力依頼
  • アンケート実施年月・・・・1998年12月、たのし会役員にアンケート用紙の配布・回収を依頼
                 同年末〜翌年初旬にかけて回収
  • アンケート回答者数・・・・273人対象会員数399人の68.4%に当り、年齢層の割に高回収率
  • アンケート結果報告・・・・1999年3月度「たのし会役員月例会」にて結果報告と謝意を表す
  • 使用した「アンケート用紙」(PDFファイル)です。 

 聞き取り調査を実施
 上記「アンケート調査」に先立つ1998年の秋、桜地区内の60歳〜90歳代の女性たちに、直接御自宅へお伺いして、戦時中の苦労話や思い出話を、ゆっくり聞かせていただきました。
 戦前は、桜地区の大半の家庭に電気も水道も無く、どの家の嫁も、早朝薄暗いうちに起きて、竈(かまど)に薪(たきぎ)を入れ、火吹きで火を点けることから、朝食の準備が始まりました。『それに比べると、今の嫁さんは楽なもんですな。』と、誰もが戦後53年の歳月に思いを寄せました。

 ここに、桜地区の女性の戦争体験に関するアンケート調査結果と、聞き取り調査結果をまとめてご報告いたします。



1.桜村の女性の戦争体験記
 
  1. 昭和の戦争と女性に関係深い用語
    1. 「大日本国防婦人会」
      • 1931年(昭和6)、満州事変が勃発した直後の事、大阪港区で、二人の主婦の呼びかけに寄り集まった主婦たちが、白い割烹着(かっぽうぎ)を着て、出征する兵士に茶の接待をして見送っていました。兵士達はその接待をたいへん喜び、彼女たちの自発的で献身的な行動は、たちまち軍部の注目するところとなって、翌年の1932年から「大日本国防婦人会」として軍部の後援を得て華々しく発足しました。
      • 時流に沿った「国防婦人会」は、太平洋戦争の開戦でさらに活動が活発になり、戦没者の遺骨と傷病兵の送迎や、軍人遺族の慰問等を展開し、日本中の女性を糾合して最大の婦人会に発展しました。
        (この頃、千人針、慰問袋、工夫の料理講習、出征兵士の見送りなど盛んに行われました)
      • 1942年、「大日本国防婦人会」は並立していた「愛国婦人会」「大日本連合婦人会」と統合され、「大日本婦人会」となりました。
      • 戦況悪化と共に、竹槍訓練、消化訓練、看護訓練などの戦時訓練が盛んになると、「白い割烹着」は汚れが目立ちやすいため着なくてもよいとされ、また着物の上から「もんぺ」を履いて活動しやすく変化していきました。 (註:もんぺ【消火訓練】の写真を参照)

    2. 「国民精神総動員運動」の発令
      1937年(昭和12)、日中戦争が起こると、国は国民を日中戦争に動員するため「国民精神総動員運動」を展開し、「銃後活動の強化」もその一項に加え、「前線」に対して、当時日本が領有していた朝鮮、台湾、樺太を含む国内を「銃後」とし、女性も国民の一人として「銃後の務め」「銃後の護り」のため「御国の為」に尽くすべきであると要求しました。

    3. 「女子挺身勤労令」の発令
      太平洋戦争の末期になると、軍需産業の労働力不足は急を告げ、国家総動員法に基づき、1944年(昭和19)8月「女子挺身勤労令」が発令・施行されて、未婚女子が生産現場へ勤労動員されました。

  2. 戦前の桜村の様相
     村内の大半は専業農家でした。
     村の中心部には、役場、郵便局、小学校、医院3軒、酒造や味噌醤油の醸造所数箇所、数種の商店などがあり、その上、四日市の諏訪駅と湯の山駅を繋ぐ軽便鉄道とバスの便もよく、一見、たいへん恵まれた農村でした。
     村内の人々の生活状態は千差万別で、戦時中ならばこその苦労を抱えた女性たちもたくさんいました。


    次に、1998〜99年にかけて実施した聞き取り調査にご協力いただいた女性の実話の一部をお伝えします。

    1. 戦時中は夫と二人で朝から晩まで働き通しでも、舅姑と幼い子供三人と合わせて7人が食べていくのがやっとでした。
      ある時期から、政府へ米や麦を供出するよう指導があり、家内で食べる量以外は供出して、少額を受け取りました。そのうち今度は、”干し芋”(さつまいもを蒸して天日干しで乾燥させた芋)を供出すると多少は協力金が出ると言われて、早速作って供出しました。
      ウチは芋の生産量が少ないからすぐ終わったのですが、大家さんに頼まれて、大量の芋を蒸したり干したりと毎日ヘトヘトになって働きました。供出は戦争が終わっても何年か続きました。
      戦後のある日、大家さんの奥さんが供出の報奨金替わりに”毛布”を何枚かもらったと自慢していましたが、ウチは”石鹸2個”だけ、まあ、石鹸も当時は珍しかったですが・・・。
      (註1) 「供出制度」は、戦中戦後の1942年〜54年(昭和14〜29)にかけて食料管理制度の元で行われた。農家が保有する米穀を、自家消費用以外は全量を一定の価格で政府に売り渡す制度。政府は米穀配給通帳(米の配給を受けるために発行された通帳)に基づき、米を消費者へ配給した。
      (註2) この女性が「大家さん」と呼ぶ人は、実は「地主」のことをそう呼んだそうです。
      戦後、占領軍が封建制の基盤である地主制度解体を重視し、その指揮下で日本政府が農地改革を行い、1950年(昭和25)には農村での地主支配は完全に崩壊した。

    2. 戦時中、私は元々心臓が弱い上に、産後の肥立ちが悪くて病気がちでした。お灸をすえたりドクダミを煎じて飲んだりと、藁にもすがる思いで、良いと言わたことは何でもしました。当時は、肩身が狭くて息を殺すような気持ちで過ごしていました。
      「千人針」「慰問袋」は一生懸命たくさん作りましたが、炎天下での「竹槍訓練」や、水が入ったバケツをリレーをする「防火訓練」(5.の写真参照)は、直ぐに息切れがして苦しくなって倒れ、石川病院の女医さんに診てもらったことがありました。あの頃は、本当に辛かったです。
      (註1)「千人針」と「慰問袋」
      千人針

        (出典:『国史大辞典』
      (註1)「千人針(せんにんばり)」は、弾丸よけのお守りとして、1メートルほどの白木綿に、千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫い玉を作り、出征将兵の武運長久・安泰を祈願して持たせたもの。大抵は腹巻として使用された。
      慰問袋

      (大安町郷土資料館蔵、撮影:1999年3月)
      (註2)「慰問袋(いもんぶくろ)」は、戦地の将兵への慰問のために、小学校高学年の女子から一般女性が、横30cm、縦40cmくらいの木綿袋を作って、手拭い、歯ブラシ、石鹸、靴下、タバコ、缶詰、お守り、激励の手紙などを詰め込んだもので、村役場で取りまとめ陸軍経由で送られた。

    3. 当時、青春真っ只中でしたが、女子青年団員だった女性たちは、「軍事献金(国防献金)」のために、連日肩凝りに悩まされながら、人様の着物を縫って「賃金稼ぎ」に励みましたが、戦争が激しくなるに従って、そんな仕事は次第になくなりました。
      (註1) 「軍事献金」は強制ではなかったが、一生懸命に励むよう指導され、年若い女性たちは従順でした。

      青年団員が、日中戦争が始まった頃に、南の山(今の桜台)の一部を開墾し、田圃にして米作りをしていたので、女子青年団員も農繁期には皆で出かけて手伝いました。(これは結構楽しかったそうです)

    4. 女学校の一年生の時、軍需工場へ「女子挺身隊」(上記Tの3.を参照)として徴用され、ローソクの灯の下で夜遅くまで働かされる日が続きました。とても辛くて友人と慰め合って泣いたことが何度もありました。
      この女性の話によると、戦争が激化するにともない、三重郡日永村の東亜紡織四日市工場へ、女学校の上級生から順に徴用され、自分たち15歳の一年生が徴用されたのは秋が深まった頃だったそうです。
      (註1) 東亜紡織四日市工場は、1944年(昭和19)4月に名古屋陸軍造兵廠(しょう)となった。

    5. 「竹槍訓練」を始めた当初は、退役軍人の指導の下で皆が一生懸命練習しました。やがて米軍の本土爆撃が都市部で始まり「本土決戦」も間近と言われるようになると、私たち女性の関心事は、”身に迫る危険の噂話”でもちきりでした。
      • 「本土決戦」になれば、竹槍で身を守れるとは思っていなかったが、誰もが自分の身は自分で守らなければと考え、練習しないよりはしたほうが良いと話し合いました。
      • 「四日市港から米兵が上陸する可能性がある」という噂があり、いざとなれば、竹槍で突くことを考えるよりも、素早く山奥へ逃げて隠れる方がずっとよいとか、いろいろ女性同士で話し合いました。 結局、鈴鹿山脈に近いこの桜村は、一度も爆撃を受けなかったし、勿論アメリカ軍の上陸もなかったから良かったですが。
      • 四日市の町が、米軍機に徹底的に攻撃されて燃え上がる様子は、丘陵地のここから見ても恐ろしい光景でした。爆撃を終えた米軍飛行機が、ここの上空を、地鳴りがするほどの大きな爆音と、大きな飛行機雲を残し去って行きました。その様は、これまで見かけた日本の飛行機よりも、素人にも明らかに米軍機は圧倒的に強いと思いました。だから「やっぱり負けるんやなあ・・・」と、ひそひそ話したものです。
        (註1) 当時、四日市の町は三重県下最大の工業都市で、しかも第二海軍燃料廠(しょう)があったため、終戦間近の1945年(昭和20)6月18日〜8月8日迄の期間に計7回、アメリカ軍爆撃機B−29による焼夷弾攻撃で、四日市の中心部は焦土と化しました。



2.アンケート回答者の内訳 (昭和20年8月15日敗戦当日を基準とする)
  • 「はじめに」で触れましたが、1998年(平成10)、戦後53年経った時点で、桜地区の60歳以上の女性を対象にしたアンケート結果の調査結果です。回答者273人から得られた貴重な「戦時体験の記録」です。

     ◎1945(昭和20)年8月15日、267人の内訳
       ※既婚者は128人、未婚者は139人
       ※旧桜村に住んでいた人は、未・既婚者合わせて95人
       ※他所に住んでいた人は、未・既婚者合わせて172人

     【註】アンケート回答総数273のうち、この設問に関しては267を有効票とします。



3.戦前に所属していた女性団体名 (複数回答方式による)
  • 「複数回答方式」の設問であることにご注意ください。
    これ以降「8.銃後の守り・・・」の設問まで、複数回答方式です。明治・大正生まれの女性が、就職・結婚による人生の転換期に伴い入る団体が異なることを考慮したものです。
  • 既婚者の主な加入団体名
    「国防婦人会」31%、「愛国婦人会」6%、「仏教婦人会」3%、「新婦人会」2% 計42%


  • 未婚者の主な加入団体名
    「女子青年団」26%、 「女子挺身隊」7%、 「勤労動員学徒」3%、 「女子義勇隊」1%、
     「学徒挺身隊」1%、
    「処女会」1%、  計39%

  • 「入会せず」が17%あります。その理由は下記4.の設問の「入らなかった理由」をご参照下さい。





団体に入った事情 団体に入らなかった事情

  1. 「入った事情」のうち「規則だと思って入った」の回答数は、既婚者54、未婚者44あります。
    実際には、国防婦人会や女子青年団に入らなければならないという規則は無かったのです。
    しかし、上掲の(2「国家精神総動員運動」の発令)が展開され、「婦人は、国防の礎(いしずえ)となり、銃後の力となること」を求められた戦時下にあって、日本中の女性の大半が女性団体に入ることを規則の様にとらえていました。回答者の3人に一人が同様に感じていたのは至極当然です。

  2. 「入らなかった事情」の回答数は、未・既婚者各々25あり、総回答者273名の約18%が女性団体入っていなかったことになります。
    入らなければならないと思っていた人がいる反面、入らなかった人がいる、その理由を考えてみます。
    1. 回答者のうち、当時小学生17人がいて当然団体に入っていないから、あと8人の未婚者は、13歳以上で当時女学生であった可能性もある。
    2. 当時一般的に、婦人会には「一家庭に一人」(例えば嫁姑のうちどちらか)が入ればよいという暗黙の約束事があった。
    3. 病院勤め、教師をしていた人、外地居住者は入っていない人が多い。
    4. 特に目を引くことは、病弱の人は団体に入らずに済すんでいることです。
      ・・・当人は肩身が狭かったであろうと察せられますが、戦時下にあって、隣近所の人々の弱者への温かい思いやりが感じられます。



5.敗戦までに実際に活動した内容 (複数回答)


  1. 前項の質問で、団体に加入しなかったと答えた50名の方々も、大半が慰問袋、千人針、出征兵士見送り等いずれかの活動に参加しています。

  2. 「出征兵士の見送り」は、回答数が全項目のうち一番多いです。
    その理由は恐らく、身内や隣近所の人々が寄り集まる中、召集されて軍隊に入営する男性が、彼なりの一張羅の服か国民服を着て、緊張感・悲壮感を漂わせながら「皇国のために戦って参ります!」と挨拶する姿。「万歳!」を三唱して旗を振って見送った光景。誰にとってもその一つ一つが決して忘れられない情景だったのだと思います。
    (当時の桜村では、出征兵士を湯の山線電車の「桜駅」で、小学生も含めたくさんの人々が、線路沿いに並んで見送ったそうです)

  3. 当時、小学校の高等科になると、
    • 校庭に並んで先生の指導で「竹槍訓練」をした・・・とよく言われますが、実際に使用したのは「竹槍」ではなく、殆どの場合「先端を丸くした木刀」が使われたようです。
    • 「出征兵士の見送り」は全校生が先生の引率で参加しました。
    • 「千人針」は各家庭で個人的に協力しました。

  4. あらゆる物資が統制されたこの時期、国民の戦意を高揚するため「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの標語が巷に氾濫する中、窮乏に対処するために工夫と遣り繰りの料理や裁縫の講習会が小学校や公会所で開かれました。
    • 1940年(昭和15)に、男子の標準服として国防色(青みを帯びた茶褐色)の「国民服と帽子」が国民衣生活の合理化として出されました。(強制ではなかった) 
    • 女子には「和服にもんぺ」が奨励された時代でした。
      参考:「消火訓練の写真」 和服にもんぺを履き、頭に手ぬぐいを被っています。

  5. 昭和17年以降、婦人会活動として女性たちは、在郷軍人の指導で竹槍訓練、看護兵だった人には包帯の巻き方などの看護訓練を教わったり、隣組の組長の指導で消火訓練をしました。勿論、生計のため家業(農作業など)、家事(薪で煮炊きし、洗濯板で洗い物)、育児、老いた舅姑の世話等々、この頃の主婦の毎日は多忙を極めていました。

  6. 軍需原料供出
    • 家庭用の最低限の鍋釜を除いて、金属類は全部供出したそうです。
    • 松根油という油を取るため、古い松ノ木の根っこを掘り起こし、リヤカーに一杯積み四日市まで引いて運んで供出したそうです。(2、3人で約8kmの距離をリヤカーを引いて歩き、当時の諏訪駅の近くまで。片道約2時間ぐらいかかったそうです)
      (註1) 四日市の海軍第二燃料廠で、松根油を精製して航空ガソリンの利用が試みられたが、何度も爆撃を受け成功しなかったようです。


  7. 「身内以外の戦士兵士遺骨の出迎え」と「身内以外の戦死兵の葬儀出席」にも、既婚者・未婚者ともに多数出席していますが、双方とも未婚者の方が多いのは少し意外です。

【戦士兵の葬儀】
 昭和10年代半ば頃まで、戦死兵の葬儀は村葬として、桜尋常高等小学校で粛々と挙行されました。
【消火訓練】
 女性たちは「隣組」の組長さんなどの指導のもと、米軍の空襲に備えてバケツリレーで消火の訓練です。
霊前に弔辞を捧げる坂井兵吉村長
坂井兵吉村長就任期間:昭和13年4月〜昭和21年4月(8年1ヶ月)
(出典:『目で見る昭和史 四日市市制80周年記念』
著者:市民部地域振興課編、四日市市役所出版、昭和53年刊行)



6.出征兵士を見送ったときの気持ちについて (複数回答)


  1. 前項の4.で述べた通り、昭和17年以降は出征兵士見送り行事は禁止されていたにもかかわらず、この質問に対する回答数が711で非常に多いことが分かります。 
    これは一家庭の明暗を分かつ「男子の出征」に、当時強い関心が寄せられていた”証”と考えられます。
  2. 涙をこらえて「送る家族」の女性と、「次は自分の夫に赤紙が来るかも・・・」と内心震えながら旗を振る女性たち。
  3. 一方、兵隊さんが戦地で必死で戦うのだから、女性はしっかりと銃後の守りをせねばと心引き締める女性。
    ・・・女性として悲喜交々、その心境の複雑さがみてとれます。
  4. 「軍服姿が立派でりりしく感動した」・・・既婚者31、未婚者36ありました。素直で率直な回答でしょう。 戦時下、束の間ときめく女心を垣間見ます。



7.出征兵士の留守家族や戦死兵士の遺族への援助 (複数回答)


 この相互扶助は、国が兵士の向後の憂いを排除して安心して出征できるように、「銃後の務めとして出征兵士の家族を援護する」ように打ち出した政府指導の一つでした。
  • アンケート回答者273人のうち、「何もしなかった」の回答者は、おそらく戦時中は小学校低学年か、外地にいたか、病気療養中であったと考えられます。
  • それ以外の女性たちは、精一杯いろいろな形で温かい援助の手を差し伸べていることがグラフから伝わります。
  • 小学校では、「お国のために戦っている兵隊さんのご家族に、麦踏みや子守りなどをして助けましょう!」と先生が生徒によく話されたそうです。だから、友達同士で話し合って、兵隊さんの家を訪ねて、数日間通って麦踏みをしたという話をお聞きしました。


8.銃後の護りとしての女性活動全般を振り返って(複数回答)



 ここでは、アンケート回答者が何らかの形で関わらざるを得なかった女性の活動の全般を、戦後53年経って振り返る質問です。

  1. 延回答数の85%が活動全般を肯定的にみて、15%が否定的にみています。
  2. 国を守るため女性の活動は「必要だった」と肯定し、力を合わせると女性も「立派なことが出来た」のだと、53年経過した時点での感慨であり、自信と誇りが伝わるようです。
  3. その反面、回答数は少ないものの、「戦争に協力するのは間違い」、あの団体を「反戦運動」に利用すれば犠牲者が少なくて済んだ、と戦争に協力したことを積極的に反省する女性もいます。
  4. 戦前の農村の主婦は、夫と供に朝から晩まで働き通しの重労働でした。しかも女性が妊娠・出産・育児の真っ最中であれば、当時の粗末な栄養状態から考えても体力は限界で、婦人会活動はただ単に余分な労働でしかなかったと想像がつきます。 
    そういった女性が、「女の集まり」の弊害に傷つき、「婦人会が農作業・家事・育児より優先」で辛かったと回想するのは、至極自然な感情だと思われます。 
  5. 一方、婦人会活動を夫や姑に遠慮せず家を空けられて「嬉しかった」と受け止め、だからこそ辛い農家の仕事を頑張ることが出来た女性がいたことも確かなようです。
  6. また、婦人会などで指導的立場にあり、思いがけずも自分の力を社会の中で発揮でき、”生き甲斐を感じ輝いた時を持った”幸せな女性もいました。



9. 戦時中の教育に関して

1.
修身や道徳の教えは、あなたの考え方や物の見方の判断基準になったか?

2@
不徳の涵養
(婦人の守るべき徳義)や良妻賢母教育の教え通りにすれば幸せになれると思ったか?
2A
不徳の涵養や良妻賢母教育は正しかったと思うか?


3.現代の女子にも道徳教育・良妻賢母教育は必要と思うか?
【簡単な用語解説】

不徳の涵養・・・品行方正で穏やかでやさしく、人情に厚く、誠実で親切な婦人となるよう心がけること。

●良妻賢母教育・・男は仕事、女は家事・育児という性別役割分担に根ざし、”良き妻、賢い母であれ”との教え。



  • 1の問では、戦前の修身や道徳の教育は物事の判断基準になったと、多数の女性が回答しています。
    あの暗かった戦中戦後に、貧困・不安・恐怖・食糧難に晒されながらも、何とか生き抜いて来れたのは、「修身・道徳」の教えが、「考え方の判断基準」となり「心の支え」となっていたと考えるようです。

  • 2@の問では、不徳の涵養や良妻賢母の教え通りしていれば、「幸せになれると思った」と53%が答えています。
    しかし、2Aの問では、「どちらとも言えない」が51%で、実に意味深長です。 
    これは、女性ならおそらく誰しも、「良妻賢母の教え」とは裏腹に「何故女だけが?」と、幾度も抑圧感や理不尽さを強いられた経験があり、だから「正しい」とは言い切れない女性たちの心情とも捉えられます。

  • 3の問では、アンケート調査をした1998年(平成10)当時、「女子の援助交際」が社会問題化していていました。その影響も少なからずあるかもしれませんが、「良妻賢母教育」と「道徳教育」を「必要」または「どちらかと言えば必要」と肯定的な回答が圧倒的多数を占めています。また、戦中戦後の食料難の時代の中で、舅姑に仕えながら子育てを立派に終えた自信と経験に照らし合わせてのことで、決して懐古主義的回答ではないと思います。



おわりに
  •  戦時中の為政者は、女性たちが白い割烹着を着て出征兵士に茶の接待をした、という母性愛的発想で結成した「国防婦人会」を、「戦争協力団体」として巧みに利用し、「銃後の守り」を国民に徹底させることに成功しました。

  •  さらに為政者は、戦況が悪化して「食糧や物資不足」が長引き、それが原因で、国民が怒り反発して湧き起こった社会不安を、「ぜいたくは敵だ]、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」、「欲しがりません勝つまでは」などのスローガンを矢継ぎ早に「婦人会」を中心に国民に浸透させ、完全に封じ込め、見事に非難の矛先をかわしました。

  •  今、仮に為政者によって、母性本能に訴える巧妙な大きな網が仕掛けられたら、高度情報化時代に生きる私たち女性も、易々とその網に取り込まれてしまうのではないかと不安を覚えます。

  •  そうならないために、世の中の出来事を適確に把握し、その原因や問題点や仕組みを読み解く能力を持つ女性は、他の女性に「起こりつつあること事」を説得し続けて欲しいです。  
  •  そしてまた、桜地区の女性273人が残してくれたこの貴重な戦争体験記を決して風化させず、一人でも多くの方が根気よくその経験や実話を語り継いで欲しい、警鐘を鳴らし続けて欲しいと願って止みません。

                      − 完 −


  • 謝辞】桜地区の老人会「たのし会」の女性会員様には、アンケートと聞き取りの調査にご協力頂きまして心より御礼申し上げます。

    このページはブログ「はるのかんたんふ」で取り上げて頂きました。
2001年9月 永瀧 洋子 記 

主な参考資料:『国防婦人会』(藤井忠俊著 岩波新書)、『日本女性史』(吉川弘文館)、『続ふるさとの生活誌 大正時代を中心に』(桜郷土史研究会発行) 
2001年9月1日掲載、2004年10月14日桜村国防婦人会写真掲載2018年5月一部修正