昭和の戦争を生き抜いた四日市市桜地区の女性の記録

三重県三重郡桜村国防婦人会役員一同
(現・三重県四日市市桜地区)
(撮影:昭和17年12月、 於:石川病院屋敷内)
 前列右から三人目が、「桜村国防婦人会」会長の石川まさを様で、「桜村女子青年団」の団長を兼任していました。 "女医"がたいへん珍しい時代の昭和初期、彼女は「石川病院の女医さん」と村人のみならず近郷の人々からも親しみを込めて呼ばれ、ことに女性たちからは尊敬され慕われていました。

 全員、白い割烹着(かっぽうぎ)を着て、「日本国防婦人会(通称・国防婦人会)」の(たすき)を掛けています。 これが国防婦人会の制服で、貧富の差無く、誰でもこの格好で公式の場に出ることができました。
また白い割烹着は、国防婦人会の奉仕精神・活動姿勢の表れでもあり、兵営や陸軍病院で洗濯奉仕と、地域に於いては軍人遺族の慰問・奉仕等々、多岐にわたった「銃後の守り」をする女性の優しさと甲斐甲斐しさを象徴するものでもありました。

アンケート集計結果に基づく女性の戦争体験記録

 桜地区の女性の戦時体験を把握する目的で、1998年12月に「女子青年団・国防婦人会などに関するアンケート」を、桜老人会「たのし会」の多大なるご協力を得て実施することができました。
アンケート対象女性会員399名のうち、273名様から回答を頂くことができました。これは対象会員の68,4%に当り、年齢層の割には高回収率といえます。
この集計結果を基に、「桜地区の女性の戦時体験」を客観的に分析してみましたので、ここに感謝の意を込めてご報告致します。



 【目 次】  
 はじめに
 1. アンケート回答者273名の内訳
 2. 戦前に所属していた女性団体
 3. 女性団体に入った理由と入らなかった理由
 4. 敗戦までに実際に活動した内容
 5. 出征兵士を送った時の気持ちについて
 6. 出征兵士の留守家族や戦士兵士の遺族への援助
 7. 銃後の護りとしての女性活動全般を振り返って
 終りに

はじめに
戦争が桜の女性に落とした影
  戦時中、桜地区の女性・既婚者も未婚者も、それぞれ悲しく辛い生活を余儀なくされていました。
  • 愛する夫や兄弟が出征して一家の働き手を失い、幸せな生活から一転して極端な生活困窮に陥り絶望の淵を覗いた女性がいました。
  • 若くして戦争未亡人となり、涙の乾く間もなく死に物狂いで農作業に精を出し、子供や舅姑を養い健気に生活を支えた女性がいました。
  • 幼子をたくさん抱え農作業・家事・育児に忙殺されながらも、「国防婦人会」に半強制的に入会させられ、頻繁に「銃後の守り」と称して婦人会活動に参加させられ、家庭と婦人会の狭間で心身ともに限界まで疲労困憊して悩み苦しんだ女性がいました。
  • 当時、青春真っ只中であったのに、「女子青年団」の団員として、「軍事献金」を捻出するため、連日連夜肩凝りに悩まされながら他人の着物を縫って賃金を稼ぐのに一生懸命だった女子がいました。
  • 「女子挺身隊」として軍需工場に徴用され、ローソクの灯の下で夜遅くまで働かされる日が続き、友人と慰め合って涙にくれた女子がいました。
  次に、何故そのような状況に甘んじざるを得なかったのか、当時の時代背景を簡単にみます。

時代背景
  • 「大日本国防婦人会の発足」
    大阪港区で、二人の主婦の呼びかけに寄り集まった主婦たちが、白い割烹着(かっぽうぎ)(エプロン)を掛けて、出征する兵士に茶の接待をして見送っていました。 1931年(昭和6)、満州事変が勃発した直後の事で、出征する兵士達はその接待をたいへん喜びました。 彼女たちの自発的で献身的な行動は、たちまち軍部の注目するところとなり、翌年には「大日本国防婦人会」として、軍部の後援を得て華々しく発足したのでした。

  • 「国民精神総動員運動」の発令
    1937年(昭和12)、日中戦争が起こると、国は国民を日中戦争に動員するため「国民精神総動員運動」を展開し、「銃後活動の強化」もその一項に加え、「前線」に対して、当時日本が領有していた朝鮮、台湾、樺太を含む国内を「銃後」とし、女性も国民の一人として「銃後の務め」「銃後の護り」のため「御国の為」に尽くすべきであると要求しました。

  • こうして時流に沿った「国防婦人会」は、一段と、戦没者の遺骨と傷病兵の送迎、軍人遺族の慰問等を活発に展開し、日本中の女性を糾合して最大の婦人会に発展しました。

  • 「女子挺身勤労令」の発令
    太平洋戦争開始後は、軍需産業の労働力不足は急を告げ、1944(昭和19)年、12歳以上の未婚の女子に対して「女子挺身勤労令」が出され、生産現場へ勤労動員されました。
 かくして、現在桜地区在住の年配の女性たちも、戦時下には、「銃後の護り」の名の下に、既婚者は「国防婦人会」や「愛国婦人会」、未婚者は「女子青年団」や「女子挺身隊」として、活発な軍事援護活動を余儀なくされていたのでした。


1.アンケート回答者273名の内訳 (昭和20年8月15日敗戦当日を基準とする)


2.所属していた女性団体名 (複数回答方式による)
 既婚者の最多数加入団体は国防婦人会、次に多かったのは愛国婦人会、未婚者では女子青年団、女子挺身隊の順でした。



3.女性団体に入った事情と入らなかった事情 (複数回答)
団体に入った事情 団体に入らなかった事情

  1. 「入った事情」のうち「規則だと思って入った」の回答数は、既婚者54、未婚者44で、総回答者273名の約21%に上ります。
    実際には、国防婦人会や女子青年団に入らなければならないという規則は無かったのです。がしかし、「国家精神総動員運動」が展開され、「婦人は、国防の礎(いしずえ)となり、銃後の力となること」を求められた戦時下のこと、日本中の女性の大半が女性団体に入ることを規則の様にとらえていたので、桜の女性の5人に一人が同様に感じていたのは至極当然のことです。

  2. 「入らなかった事情」の回答数は、未・既婚者各々25あり、総回答者273名の約18%が女性団体に入っていなかったことになります。 
      入らなければならないと思っていた人がいる反面、入らなかった人がいる、その理由を考えてみます。

    • 回答者のうち、当時小学生17人がいて当然団体に入っていない。
    • 当時一般的に、婦人会には一家庭に一人(例えば嫁姑のうちどちらか)が入ればよいという暗黙の約束事があった。
    • 病院勤め、教師をしていた人、外地居住者は入っていない人が多い。
    • また特に目を引くのは、病弱の人が入らずにすんでいることです。
      当人は肩身の狭い思いをしたであろうと察せられますが、戦時下にあって、隣近所の人々の弱者への温かい思いやりが感じられます。


4.敗戦までに実際に活動した内容 (複数回答)



  1. 前項の質問で、団体に加入しなかったと答えた50名の方も、大半が慰問袋、千人針、出征兵士見送り等いずれかの活動に参加しています。

  2. 当時10歳から12歳くらいの少女達も、千人針(個人として)、竹槍訓練と出征兵士の見送り(小学校から団体で)に参加活動しています。

  3. あらゆる物資が統制され、「ぜいたくは敵だ」の標語が巷に氾濫し、窮乏に対処するため、工夫と遣り繰りの「料理と裁縫の講習会」が開かれました。 
    男の服装は「国民服」、女は「和服にもんぺ」が奨励された時代でした。

  4. 出征兵士の歓送迎行事は、昭和17年以降、軍事機密として禁止されたのですが、回答数が多いのは、戦争初期の印象が余程強かったとみられます。

  5. 昭和17年以降、婦人会活動として、在郷軍人の指導で竹槍訓練をしたり、看護兵だった人には包帯の巻き方等看護訓練を教わったり、また隣組の組長の指導で消火訓練をしました。その合間には千人針縫いなどして、この頃の主婦の毎日は多忙を極めていました。

5.出征兵士を見送ったときの気持ちについて (複数回答)
  • 前項の4.で述べた通り、昭和17年以降は出征兵士見送り行事は禁止されていたにもかかわらず、この質問に対する回答数が711と非常に多いことが分かります。 
    これは一家庭の明暗を分かつ「男子の出征」に、当時強い関心が寄せられていた証と捉えられます。・・・女性として、悲喜交々その心境の複雑さがみてとれます。

  • 「軍服姿が立派でりりしく感動した」は、既婚者31、未婚者36あり、素直で率直な回答とみられます。・・・戦時下、束の間ときめく女心を垣間見ます。




6.出征兵士の留守家族や戦死兵士の遺族への援助 (複数回答)

  • 何らかの援助をした延べ回答数は231で、「何もしなかった」の約6倍あり、アンケート回答者273人のうち、8割が何らかの手を差し伸べたことになります。

  • この相互扶助は、国が兵士の向後の憂いを排除して安心して出征できるように、「銃後の務めとして出征兵士の家族を援護する」ように打ち出した政府指導の一つですが、桜の女性たちも精一杯の温かい援助の手を差し伸べていることが分かります。


7.銃後の護りとしての女性活動全般を振り返って(複数回答)

 アンケート回答者が、何らかの形で関わらざるを得なかった「銃後の護り」を、戦後53年経って振り返る質問です。

  1. 延回答数の85%が活動全般を肯定的にみて、15%が否定的にみています。

  2. 国を守るため女性の活動は「必要だった」と肯定し、力を合わせると女性も「立派なことが出来た」のだと自信と誇りがみえる反面、数は多くは無いが、「戦争に協力するのは間違い」、あの団体を「反戦運動」に利用すれば、犠牲者が少なくて済んだ、と戦争に協力したことを積極的に反省する女性もいます。

  3. 戦前の農村の主婦は、夫と供に朝から晩まで働き通しでした。しかも妊娠・出産・育児の真っ最中であれば、当時の粗末な栄養状態からみても体力は限界で、婦人会活動はただ単に余分な労働でしかなかったと想像がつきます。 
    そういった女性が、「女の集まり」の弊害に傷つき、「婦人会が農作業・家事・育児より優先」で辛かったと回想するのは、至極自然な感情だと思われます。 

  4. 一方、夫や姑に遠慮せず家を空けられて「嬉しかった」と受け止め、だからこそ辛い農家の仕事を頑張ることが出来た女性がいたことも確かなようです。
     
  5. また、婦人会などで指導的立場にあり、思いがけずも自分の力を社会の中で発揮でき、「生き甲斐」を感じ輝いた時を持った幸せな女性もいました。
終りに
  • 私たちは、皆がただ一つの考えや行動に偏る事は危険であると知っています。 
    示唆に富むこの「桜の女性の戦争体験」から、私たちは謙虚に学びたいと思います。   以上  

このページはブログ「はるのかんたんふ」で取り上げて頂きました。

主な参考資料:『国防婦人会』(藤井忠俊著 岩波新書)、『日本女性史』(吉川弘文館)、『続ふるさとの生活誌 大正時代を中心に』(桜郷土史研究会発行)     2001年9月1日掲載、2004年10月14日桜村国防婦人会写真掲載  文責:永瀧洋子