「桜の史跡No.17」

(智積廃寺跡の石碑と説明板、背後は東名阪自動車道の土手)
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1章 智積廃寺(ちしゃくはいじ)壬申(じんしん)の乱
智積廃寺の遺構は、四日市市智積町字土丹(どうたん)、上記写真の右側の水田下にありました。
ここは、江戸時代の古文書や絵図にもみられる「智積養水」を灌漑用水とする耕作地で、郷土の先人があまたの苦渋を強いられた「水論(水争い)」から守り通し、汗と涙が浸み込んだ農地と言っても決して過言ではありません。 なお、智積養水は1985年(昭和60)に全国名水百選に選ばれています。(参考:「智積養水」のページへ
(1)寺院建立の潮流、中央から地方へ
仏教公伝は六世紀半ばの欽明天皇の時代とされますが、当初は渡来系氏族や曽我氏など限られた人々に信仰されていた仏教が、594年(推古天皇2)に「仏教興隆の詔(みことのり)」が出され、政治の基本にすえられて国家の保護を受けるようになると広く浸透しはじめました。
646年(大化2)、「薄葬令(はくそうれい。大規模な墳墓を規制する法令)」が定められると、大和飛鳥の豪族は古墳に代わって、“氏寺”を建立することでその権威を誇示するようになります。これに伴って瓦工人を含む造寺建築技術工人集団の育成が進められ、また、中央政府が推進しようとしていた律令体制を受け入れ側に理解させるため、知識階層としての活躍が期待できる僧侶の育成にも政府の努力があったと考えられます。
そして7世紀後半になると、地方の有力豪族の間でも氏寺建立の気運が高まり各地で造営が進められました。
この頃、壬申の乱(じんしんのらん)は起こりました。
(2)壬申の乱
壬申の乱は、天智天皇が亡くなった翌年の672年壬申の年、天智天皇の子の大友皇子(おおとものみこ)と、吉野の宮(奈良県吉野郡吉野町大字宮滝)に出家して隠棲していた天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)との間で、皇位継承をめぐって起こった古代最大の内乱です。
乱はおよそ一ヶ月後、敗北した大友皇子の自決で終息し、勝利した大海人皇子は都を近江から飛鳥へ移し、翌673年、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや。奈良県武市郡明日香村)で即位して天武天皇(てんむてんのう)となりました。(大友皇子は1870年(明治3)に弘文天皇と諡(おくりな)された)
  大海人皇子の美濃への脱出行にあたっては、北伊勢の豪族の深い関与・活躍が注目されます。
672年
6月22日
近江朝廷の動きを察知した大海人皇子は、直ちに私領の美濃国安八磨郡(あはちまぐん)湯沐邑(ゆのむら)へ使者を送り、兵を集め軍勢を発して「不破道」(岐阜県不破郡関ヶ原町)を塞ぐよう命じた。 
(安八磨郡は現・岐阜県大垣市、安八郡、揖斐郡池田町を含む)
24日 大海人皇子は妃と幼少の皇子2人と従者30余人を連れて吉野宮を発つ。
甘羅村(かんらのむら。奈良県宇陀市大宇陀付近)を過ぎる頃、猟師20人を従えた。
菟田郡家(うだのぐうけ。宇陀市榛原)付近で、湯沐の米を運ぶ伊勢国の荷役の馬50頭に遭遇、徒歩の者を馬に乗らせた。
隠駅家(なばりのうまや。名張市)を焼き人夫を徴発したが失敗。(士気を鼓舞するためか、狼煙(のろし)か)
横川(名張川か)で、大海人皇子占って曰く「天下は二分されるが、最後に自分が天下を取る」と。
更に急ぎ伊賀駅家を焼きつつ進むと、山中で伊賀の郡司が数百の兵を率いて従った。
25日 夜明けに柘植(つげ。伊賀市柘植町)で、近江から甲賀越えで来た高市皇子(大海人の子19歳)一行が合流してきた。 なおも急ぎ鈴鹿山脈の加太(かぶと)峠を越え、伊勢の鈴鹿に至る。
ここで伊勢国司らが兵を率いて参集してきた。 
兵士500人で「鈴鹿山道(鈴鹿関)」を塞ぎ止めた。
日暮れに川曲の坂本(かわわのさかもと。鈴鹿市木田町。亀山市川崎町堂坂一心院説もある)で休息。雨が降りそうなので出発したが雷雨に見舞われ、三重郡家(川曲から3㎞の四日市市采女町)で家一軒を焼いて暖をとり、吉野出立後初の泊。 三重郡家は采女町説以外に、川曲から直線距離で13㎞の四日市市坂部ヶ丘貝野遺跡付近、同西坂部町御館浄蓮寺、尾前神社跡説もある) 
26日 朝、朝明郡の迹太川(とほかわ。海蔵川、十四川など諸説あり)の辺で、大海人皇子は天照太神を望拝。
大津皇子(大海人の子10歳)一行が合流してきた。
「美濃の軍勢3000人で不破道を塞いだ」と報告が入る。
朝明郡家(四日市市大矢知町 久留倍官衙(くるべかんが)遺跡の「第Ⅰ期の遺構」か近辺の地)で、高市皇子を不破の監督として先発させる。
夜、桑名郡家(桑名市蛎塚新田付近)で宿泊。
27日 大海人皇子は、妃等を桑名郡家に留めて、急ぎ美濃の不破へ向かった。・・・以下省略。
(4)壬申の乱と川原寺式軒丸瓦(かわはらでらしきのきまるかわら)を用いた古代寺院跡
天武朝廷が定めた四大官寺のひとつの川原寺は、大ぶりで優美な軒丸瓦が特徴で、その瓦に類似するものを川原寺式軒丸瓦と呼び、大きさや文様別に細かく分類・系列化されています。(参考例:智積廃寺出土瓦【図-1】
壬申の乱で大海人皇子の一行が北伊勢を通過したルート上には、川原寺式軒丸瓦が出土した古代寺院跡があります。
    1. 伊勢国鈴鹿郡・・・大鹿(おおが)廃寺跡(鈴鹿市国分町)
    2.  〃  三重郡・・・智積(ちしゃく)廃寺跡(四日市市智積町)
    3.  〃  朝明郡・・・縄生(なお)廃寺跡(三重郡朝日町縄生)
    4.  〃  桑名郡・・・額田(ぬかだ)廃寺跡(桑名市額田)
なぜ、北伊勢に川原寺式軒丸瓦をもつ寺院跡があるのか?
 (主な参考文献:八賀晋著「天武天皇と白鳳寺院」『東海の神々をひらく』、『四日市市史第16巻』)
* 概して、古代寺院の造立年代は、屋根に葺かれていた軒丸瓦が決め手になります。
* 上記北伊勢の4ヶ寺に共通する川原寺式軒丸瓦の文様から、寺院の成立年または補修時期、及び歴史的な背景に共通性があったと想定されます。
* 一方、美濃や尾張地方にも川原寺式軒丸瓦をもつ寺院跡があり、その分布範囲が美濃中・西部と尾張西部に顕著に集中し、尚且つ『日本書紀』に名前が出る氏族との関連が強いことが大きな特徴です。
* そうしたことから壬申の乱で、北伊勢における各郡の諸豪族の働きや、美濃や尾張の直接挙兵に関わった地方豪族たちの存在が推定されます。
* ゆえに、これら川原寺式軒丸瓦をもつ寺院は、天武天皇が壬申の乱における論功行賞として、身分的には叙位の形がおこなわれる一方、既存の寺にはさらなる援助と、行賞によって一定の地位を得た地方豪族の新造寺計画と実行に対して、中央から多くの援助のなかで寺院の建立が成された結果であると考えられています。
* 四日市市内で最古の仏教寺院遺跡「智積廃寺」も、こうした歴史的背景のもとで、名前も貢献度も不明ながら当地の豪族が、乱の功績の証として天武新政権からの援助で川原寺式軒瓦を用いた氏寺建立を成して、当地域一帯に威厳を与えていたものと思われます。
しかもその数年後の補修に使用された瓦が、美濃各務原市の山田寺
(さんでんじ。(註1))の後補の瓦と同系の(【図-2】)である点も、壬申の乱を契機に功臣たちの共通の歩みの一環と考えられています。
壬申の乱の功臣への贈位や功田(功労者に与えた田)などの賜与は、子や孫の世代まで手厚い処遇がありました。(『日本書紀』、『続日本紀』)
(註1)
山田寺(さんでんじ)
所在地:岐阜県各務原市蘇原寺島町。大海人の舎人・村国男依の呼び掛けに応じた渡来人系の各務勝(かかむのすぐり)氏か同族の勝氏による建立と推定される。出土瓦は創建時の川原寺式複弁八弁蓮華文軒丸瓦、連子は1+5+8、外縁は幅の狭い面違鋸歯文。軒平瓦は四重弧文。後補瓦は智積廃寺と同系の単弁八弁蓮華文軒丸瓦。
   額田廃寺と縄生廃寺の詳細は、外部サイト「桑名歴史案内 北勢の考古学」へ
(5)智積廃寺の創建と廃絶の時期について
創建: 創建時期に用いられた瓦や塼仏(せんぶつ)の様式と、金堂が講堂に比べて小さい(面積で約1/2)ことから、700年前後(飛鳥時代末期から奈良時代前期)の創建と考えられています。
廃絶: 出土した瓦の大半が8世紀前後のもので、奈良時代後期の瓦は少量であること、掘立柱の僧房が3回造営されていることなどから、奈良時代を通じて約100年間存続し、ほどなく廃絶したものと推定されています。
(6)智積廃寺、ありし日の姿
発掘調査で条里制の遺構が発見されていることから、この辺りは口分田(水田)が広がる実り豊かな土地柄であったと推定されますが、人々の住まいは茅葺き(かやぶき)の竪穴住居か板葺き屋根の掘立柱建物が普通でした。
そのような住居が散在する時代にあって、優美な瓦葺き屋根の智積廃寺はひときわ大きく、高く、きらきら光ってそびえ建ち、この地方一帯のランドマークになっていたことでしょう。
各地の古代寺院の発掘調査によって得られるデータによると、金堂や塔といった伽藍中枢部が整えられる一方で、僧侶の生活空間である僧房などの施設の発見例が乏しいこと、そのほかにも寺院の中には金堂だけのものや、短命に終わるものが多いことなども明らかなようです。(菱田哲郎著『古代日本国家形成の考古学』)
そうした視点で「智積廃寺」をみると、「塔は発見されませんでしたが、金堂と講堂、そして僧房を備え、しかも100年間存続した」のであるから、地方古代寺院の中でも優秀なクラスに入るようです。
『続日本紀』の716年(霊亀2)、「粗末な寺を建て寺田(寺院の運営にあてる田)を賜るよう訴えるが、寺内には牛馬が群れイバラが繁茂し、仏像は埃をかぶり、経巻が風雨に曝されている。そこで数寺を合併して一つとすべきである」という概要の「詔(みことのり)」が出されました。つまり、税が免除される耕地を得る目的で寺院を建立した豪族もいれば、寺院を建立して最先端の文化の摂取に積極的な豪族もいたと推察されます。 智積廃寺を建立した豪族は、おそらく隣接する「土丹(どうたん)遺跡」か「武佐(むさ)遺跡」の一角に居を構え、孫や曾孫の代の8世紀末まで“仏教の法灯”を守り続けたことは実に天晴れでした。 (註:「土丹遺跡」・・・次章(1)地図、3章(3)へ。  「武佐遺跡」・・・桜町字武佐、近鉄桜駅北裏から東周辺。古墳時代末葉から室町時代の集落跡。土師器、須恵器、灰釉陶器、山茶碗、土錐等出土)

2章 智積廃寺の位置と発掘状況
(1)位置
三重県四日市市智積町字土丹(ちしゃくちょうあざどうたん)。  当時の地名・伊勢国三重郡葦田郷(あしみたごう)
標高30mの沖積地ですが、地下3mに安定した第三紀の地盤上にあたり、たとえ冠水しても被害が少なく、寺建立の条件に適っています。
智積廃寺・土丹遺跡周辺地図
金堂・講堂・僧房の中心軸が南北一直線上に並ぶ(四天王寺式)伽藍配置
智積廃寺・土丹遺跡周辺地図
(『智積廃寺・土丹遺跡』四日市市遺跡調査会(1991年発行)をもとに作成)
(2)発掘状況
  伝承されていた智積廃寺
  • ここには古くから村人が畏敬する「高塚さん」と呼ばれる塚(高さ約1.5m、径約5m)があり、ここの雑木を伐ったり土を掘ったりすると、後で必ず祟りがあると言い伝えられ、村人は誰も寄り付かないようにしていました。
  • 1833年(天保4)に著された『勢陽五鈴遺響』に、「智積ノ名義ハ往時智積寺アリ、故ニ名ヲ廃ストイエドモ村名ハ存セリ 旧ハ知積寺村ト称ス 後ニ一字ヲ約シテ知積ト云ヘリ」と記し、智積寺という寺があったことと智積村の由来が記されています。
  • 1885年(明治18)、桑名浄土寺で「交友社博物会」が開催された時、小林兎酉次郎(とねじろう)が「三重郡智積村所掘得古瓦」を出展しています。(「交友会博物会広告」朝日町教育委員会蔵)
    この古瓦はまさしく智積廃寺の瓦です。小林兎酉次郎は三重郡宿野村の人で、明治17年刊行の桜村と智積村の両地誌の編集・測量者であったため、当廃寺の古瓦の入手が可能でした。
  • 1953年(昭和28)、ここに農道を付けた時、「高塚」が取り壊され多数の瓦や塼仏(せんぶつ。次項(2)参照)二体が発見され、この周辺の水田下に寺院の遺跡があると確信されました。
  発掘調査の経緯
  • 1965年(昭和40年)頃東名阪自動車道路建設事業計画と、更に1967年(昭和42)3月にはこの付近一帯の圃場(ほじょう)整備事業が発表され、両事業が実施されれば、地下に埋もれているとみられる寺院遺構は永久に消滅する事が予測されました。
  • 残念なことに、諸般の事情によって「遺跡保存」の道は閉ざされ、上記両事業に伴う事前発掘調査が、1967年(昭和42)と1968年(昭和43)の冬季に各々約2ケ月間行われました。
  • 次に1989年(平成元)末から翌年の冬季期間に、この地域の上水道管埋設工事に伴って未調査部分の発掘調査が行われました。

3章 発掘調査結果
(1)遺構について
  • 金堂講堂の跡を示す基壇(きだん)僧房の跡を示す掘立柱建物、砂利敷きの参道、講堂の東西に回廊を示す柱穴、寺域を示す側溝などが検出されました。
    金堂講堂僧房跡の中心軸が真南北線上にあることが分かりました。高度な建築技術者の携わりが考えられ、当時この寺を創建した豪族と中央政権との繋がりが推定されます。
    地方の古代寺院では、
    (註・・・基壇とは、瓦葺寺院など重い建物の基礎部分を堅固にするため、土や粘土を少しずつ盛って突き固めた壇のことで、この工法を「版築(はんちく)」という)
  • を推定して調査しましたが遺構は未発見でした。
    (もしも、塔が金堂と講堂の南北線上にあったならば、四天王寺式伽藍配置といえるのですが・・・)
  • 智積廃寺の規模は南北約120m、東西もほぼ同規模であったと想定され、壮大な伽藍であったと推定されています。
  • この辺りは、三滝川沿い条里制の最も奥にあたり、発掘調査においても一部畦畔に条理の遺構の残存が認められました。 (参考・・・智積町に「八ノ坪」という条里制の坪の地名が“小字名”として残っています)
(2)遺物・・・主に鬼瓦、塼仏(せんぶつ)軒丸瓦(のきまるかわら)軒平瓦(のきひらがわら)について

相当量の瓦が出土。軒丸瓦(のきまるがわら)軒平瓦(のきひらがわら)、丸瓦と平瓦、熨斗瓦(のしがわら)鬼瓦鴟尾(しび)片等。(鴟尾(しび)は古代の瓦葺宮殿や仏殿の大棟に取り付けた装飾)
(せんぶつ)
塼仏
塼仏大形(三尊形式)と小形(独尊形式)各一点。
塼仏とは・・・・凹の型に粘土を押し当て、高熱で焼いて作られた仏像。
* 智積廃寺の金堂の壁の一部は、この金箔の塼仏で覆いめぐらして荘厳(しょうごん)(美しく厳かに飾ること)されていたと推定されます。
* この塼仏は、昭和28年田地拡張のため「高塚」を削平した際発見された遺物で、発掘品ではない。
土器 土師器(はじき)須恵器(すえき)がほぼ同量出土。(杯、高坏、壷、鉢、甕など)
鉄製品 鉄釘、鉄鏃(てつぞく)

鬼瓦   塼仏せんぶつ)  四日市市指定文化財

(出典:『三重県の古瓦』)
三尊形式(写真左)     独尊形式(写真右)

(出典:『よみがえる大津京』大津歴史博物館編より)
目が顔より4cm位突き出し、頬も出っ張り怪異な容貌をもつ。
三尊形式(左) 三尊塼仏
椅子に腰掛けた半跏踏下(はんかふみさげ)の形姿は如来形。
左右脇侍は菩薩形立像の三尊形式。
塼仏としては類例が無く珍しい。
仏の身体の部分に金箔が残る。
現高8㎝、幅8.7㎝、厚さ1.9㎝
独尊形式(右) 独尊塼仏
三重の蓮華座にのり、両手を腹前にて組み合わせ足を組んで座る。
表面全体に金箔が残る。
現高3.5㎝、幅2.2㎝、厚さ1.0㎝
額田廃寺から類似例が出土。
四日市市立博物館に常設展示されています。  
軒丸瓦(のきまるかわら)
  • 軒先に葺かれる軒丸瓦は、蓮華文(れんげもん)などの文様が彫られた「木型」((はん))に粘土を押しつけて作るので、その文様から同じ木型(氾)で作られたものかどうかが分かり、作製年代もほぼ推定できます。
  • 蓮華文は、蓮の花を真上から見た形をデザインしたものです。
    瓦の中央に「中房(ちゅうぼう)」があり、そこに蓮の実をデザインした「蓮子(れんし)」が配置されています。 
 川原寺式の軒丸瓦
川原寺式軒丸瓦の複弁八弁蓮華文(ふくべんはちべんれんげもん)軒丸瓦は、「Ⅲ類―A」と「Ⅲ類―B」の二種類が出土し、二種合わせて全出土軒丸瓦の62.3%を占めました。
【図-1】 智積廃寺の川原寺式複弁八弁蓮華文軒丸瓦 Ⅲ類―A 

(出典:『三重県の古瓦』)

(『智積廃寺発掘調査報告書』より作成)
四日市市立博物館に常設展示されています。
1. 複弁八弁蓮華文軒丸瓦 Ⅲ類―Aの特徴 (上記【図-1】
* 大和飛鳥寺の修理時に用いられた川原寺式軒丸瓦に近似する。(註: 飛鳥寺の修理時期は、飛鳥寺が国の大寺としての扱いを受けるようになった680年以降、710年平城遷都以前と考えられています)
* 智積廃寺の創建時の瓦と考えられている。
* 軒丸瓦の中で出土点数が最多の36%
* 中房(ちゅうぼう)蓮子(れんし)は1+4+8
* 外縁は素縁。形,焼成ともに良質。
2. 複弁八弁蓮華文軒丸瓦 Ⅲ類―Bの特徴 (図は省略)
* Ⅲ類―Aよりもやや大ぶりで、中房の連子が1+5+8
* 軒丸瓦出土数の26%

 その他に単弁六弁蓮華文軒丸瓦と単弁八弁蓮華文軒丸瓦等が出土しました。
【図-2】 智積廃寺の単弁八弁蓮華文軒丸瓦
    
     (出典:『三重県の古瓦』)
 *中房が大きく、24の連子を雑然と配す。
 *弁は幅広く、その中央に隆起線がある。
 *外縁は素縁。
 *間弁を単純な一つの線で表現する。


【注目!】
この軒丸瓦が、美濃各務原市の山田寺跡出土のものと同系です。

四日市市立博物館に常設展示されています。

【参考資料】     大和の川原寺創建時の軒瓦 (現・奈良県高市郡明日香村川原)

(『飛鳥・藤原京展』(奈良文化財研究所)より作成)
 川原寺の軒丸瓦は複弁八弁蓮華文で、外縁部に鋸歯文(きょしもん。三角様のギザギザの文様)があり、“中房”(瓦の中央)蓮子に周円が付いています。 
一方、智積廃寺の瓦は同じ「複弁八弁軒丸瓦」ですが、
鋸歯文も蓮子の周円もありません。 このように川原寺の瓦に類似するが同一ではない瓦は「川原寺式」と冠して呼ばれます。

軒平瓦(のきひらがわら)
 川原寺式の軒平瓦
智積廃寺の軒平瓦  四重弧文軒平瓦(よんじゅうこもんのきひらがわら)


(出典:『三重県の古瓦』)


         (出典:『智積廃寺発掘調査報告書』)
* 出土した軒平瓦の中で圧倒的に多く、95%を占めます。
* 四重弧文で段顎(だんあご)がついています。
* この軒平瓦が、川原寺式軒丸瓦と組み合わされて葺かれたと考えられています。
* 四重弧文軒平瓦は、七世紀中頃の川原寺創建時に初めて用いられました。
 その他に、箆(へら)描き文軒平瓦が2種類も検出されました。(図は省略) 

【参考写真】    瓦の葺(ふ)き方・・・本瓦葺   
本瓦葺
(写真:摩訶耶寺山門(静岡県引佐郡三ヶ日町摩訶耶421)、 撮影:2010年2月27日)

(3)土丹遺跡(どうたんいせき)について   四日市市智積町字土丹
智積廃寺と土丹遺跡は三滝川と矢合川に挟まれた標高30mほどの沖積低地に位置します。
  • 昭和43年~44年にかけて、智積廃寺の北に続く部分が発掘調査され、縄文時代及び平安時代から室町時代にかけての集落跡と分かりました。とりわけ、沖積低地に立地する縄文遺跡としては四日市市内唯一のもので、「縄文人の低地部への進出」という点で重要な遺跡と考えられています。
  • 遺構は、竪穴住居跡7棟(平安時代6棟、鎌倉時代1棟)、掘立柱建物跡(平安時代1棟)、土坑、溝跡、柵列が検出され、集落が営まれていたことが判明しています。
  • 遺物は、縄文土器(縄文晩期後半の突帯文土器)、智積廃寺に伴うと思われる瓦片、そして寺院廃絶以降集落が営まれたことを示す平安時代以降の土師器(はじき)、灰釉陶器(かいゆうとうき)、山茶椀、木製品が検出されました。
  • 智積廃寺を含むこの辺りは、「土丹遺跡」として市の埋蔵文化財に登録されています。
(4)智積廃寺の瓦を焼いた場所について
 智積廃寺の瓦を焼いた場所は、廃寺跡から北東約1.3kmの三滝川対岸の生桑(いくわ)山丘陵の西斜面に位置する「北浦古窯(きたうらこよう)跡群」(四日市市寺方町字若宮)であると、以下の理由で推定されています。
智積廃寺や土丹遺跡の周辺にある奈良時代の窯跡は、北浦古窯跡群だけである。
1970年(昭和45)に発掘調査された際、窯跡は2基存在したがそのうち2号窯の灰原から、智積廃寺跡から検出された重弧文軒平瓦・平瓦・丸瓦や塼、および7世紀末の須恵器が出土した瓦陶兼業窯である。但し、軒丸瓦は全く出土しなかった。
 ゆえに、地理的・時代的観点から智積廃寺の瓦は「北浦古窯跡群」で生産された可能性が高いと考えられています。


参考資料:『智積廃寺発掘調査報告書』(四日市市教育委員会1968年発行) 、『智積廃寺・土丹遺跡』(四日市市遺跡調査会1991年発行)、『三重県の古瓦』(三重県の古瓦刊行会)、『四日市市史第3巻、第16巻』、『よみがえる大津京』(大津歴史博物館)、仏像東漸』(四日市市立博物館)『飛鳥・藤原京展』(奈良文化財研究所)『縄生廃寺跡発掘調査報告』、『縄生廃寺跡範囲確認調査報告Ⅰ』(朝日町教育委員会)、「天武天皇と白鳳寺院」『東海の神々をひらく』・「壬申の乱と古代寺院」『日本古代史新講』(八賀晋著)、『古代日本国家形成の考古学』(菱田哲雄著)、『壬申の乱』(倉本一宏著)、『日本書紀(下)』・『続日本紀(上)』(宇治谷孟著)  文責:永瀧 洋子
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