| 3章 発掘調査結果 |
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- 金堂と講堂の跡を示す基壇(きだん)、僧房の跡を示す掘立柱建物、砂利敷きの参道、講堂の東西に回廊を示す柱穴、寺域を示す側溝などが検出されました。
金堂と講堂と僧房跡の中心軸が真南北線上にあることが分かりました。高度な建築技術者の携わりが考えられ、当時この寺を創建した豪族と中央政権との繋がりが推定されます。
地方の古代寺院では、
(註・・・基壇とは、瓦葺寺院など重い建物の基礎部分を堅固にするため、土や粘土を少しずつ盛って突き固めた壇のことで、この工法を「版築(はんちく)」という)
- 塔を推定して調査しましたが遺構は未発見でした。
(もしも、塔が金堂と講堂の南北線上にあったならば、四天王寺式伽藍配置といえるのですが・・・)
- 智積廃寺の規模は南北約120m、東西もほぼ同規模であったと想定され、壮大な伽藍であったと推定されています。
- この辺りは、三滝川沿い条里制の最も奥にあたり、発掘調査においても一部畦畔に条理の遺構の残存が認められました。 (参考・・・智積町に「八ノ坪」という条里制の坪の地名が“小字名”として残っています)
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| (2)遺物・・・主に鬼瓦、塼仏、軒丸瓦、軒平瓦について |
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瓦
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相当量の瓦が出土。軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦と平瓦、熨斗瓦、鬼瓦、鴟尾片等。(鴟尾は古代の瓦葺宮殿や仏殿の大棟に取り付けた装飾) |
(せんぶつ)
塼仏
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塼仏大形(三尊形式)と小形(独尊形式)各一点。
塼仏とは・・・・凹の型に粘土を押し当て、高熱で焼いて作られた仏像。
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智積廃寺の金堂の壁の一部は、この金箔の塼仏で覆いめぐらして荘厳(美しく厳かに飾ること)されていたと推定されます。 |
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この塼仏は、昭和28年田地拡張のため「高塚」を削平した際発見された遺物で、発掘品ではない。 |
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| 土器 |
土師器と須恵器がほぼ同量出土。(杯、高坏、壷、鉢、甕など) |
| 鉄製品 |
鉄釘、鉄鏃。 |
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鬼瓦 |
塼仏(せんぶつ) 四日市市指定文化財
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(出典:『三重県の古瓦』)
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三尊形式(写真左) 独尊形式(写真右)

(出典:『よみがえる大津京』大津歴史博物館編より) |
目が顔より4cm位突き出し、頬も出っ張り怪異な容貌をもつ。
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三尊形式(左) 三尊塼仏
椅子に腰掛けた半跏踏下(はんかふみさげ)の形姿は如来形。
左右脇侍は菩薩形立像の三尊形式。
塼仏としては類例が無く珍しい。
仏の身体の部分に金箔が残る。
現高8㎝、幅8.7㎝、厚さ1.9㎝ |
独尊形式(右) 独尊塼仏
三重の蓮華座にのり、両手を腹前にて組み合わせ足を組んで座る。
表面全体に金箔が残る。
現高3.5㎝、幅2.2㎝、厚さ1.0㎝
額田廃寺から類似例が出土。 |
| 四日市市立博物館に常設展示されています。 |
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軒丸瓦(のきまるかわら) |
- 軒先に葺かれる軒丸瓦は、蓮華文などの文様が彫られた「木型」(氾)に粘土を押しつけて作るので、その文様から同じ木型(氾)で作られたものかどうかが分かり、作製年代もほぼ推定できます。
- 蓮華文は、蓮の花を真上から見た形をデザインしたものです。
瓦の中央に「中房(ちゅうぼう)」があり、そこに蓮の実をデザインした「蓮子(れんし)」が配置されています。
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| ①川原寺式の軒丸瓦 |
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川原寺式軒丸瓦の複弁八弁蓮華文軒丸瓦は、「Ⅲ類―A」と「Ⅲ類―B」の二種類が出土し、二種合わせて全出土軒丸瓦の62.3%を占めました。
| 【図-1】 智積廃寺の川原寺式複弁八弁蓮華文軒丸瓦 Ⅲ類―A |

(出典:『三重県の古瓦』) |

(『智積廃寺発掘調査報告書』より作成) |
| 四日市市立博物館に常設展示されています。 |
| 1. 複弁八弁蓮華文軒丸瓦 Ⅲ類―Aの特徴 (上記【図-1】) |
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大和飛鳥寺の修理時に用いられた川原寺式軒丸瓦に近似する。(註: 飛鳥寺の修理時期は、飛鳥寺が国の大寺としての扱いを受けるようになった680年以降、710年平城遷都以前と考えられています) |
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智積廃寺の創建時の瓦と考えられている。 |
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軒丸瓦の中で出土点数が最多の36% |
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中房の蓮子は1+4+8 |
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外縁は素縁。形,焼成ともに良質。 |
| 2. 複弁八弁蓮華文軒丸瓦 Ⅲ類―Bの特徴 (図は省略) |
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Ⅲ類―Aよりもやや大ぶりで、中房の連子が1+5+8 |
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軒丸瓦出土数の26% |
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| ②その他に単弁六弁蓮華文軒丸瓦と単弁八弁蓮華文軒丸瓦等が出土しました。
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| 【図-2】 智積廃寺の単弁八弁蓮華文軒丸瓦 |
(出典:『三重県の古瓦』) |
*中房が大きく、24の連子を雑然と配す。
*弁は幅広く、その中央に隆起線がある。
*外縁は素縁。
*間弁を単純な一つの線で表現する。
【注目!】
この軒丸瓦が、美濃各務原市の山田寺跡出土のものと同系です。
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| 四日市市立博物館に常設展示されています。 |
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| 【参考資料】 大和の川原寺創建時の軒瓦 (現・奈良県高市郡明日香村川原) |

(『飛鳥・藤原京展』(奈良文化財研究所)より作成) |
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川原寺の軒丸瓦は複弁八弁蓮華文で、外縁部に鋸歯文(きょしもん。三角様のギザギザの文様)があり、“中房”(瓦の中央)の蓮子に周円が付いています。
一方、智積廃寺の瓦は同じ「複弁八弁軒丸瓦」ですが、鋸歯文も蓮子の周円もありません。 このように川原寺の瓦に類似するが同一ではない瓦は「川原寺式」と冠して呼ばれます。 |
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軒平瓦(のきひらがわら) |
| ①川原寺式の軒平瓦
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| 智積廃寺の軒平瓦 四重弧文軒平瓦(よんじゅうこもんのきひらがわら) |

(出典:『三重県の古瓦』) |

(出典:『智積廃寺発掘調査報告書』) |
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出土した軒平瓦の中で圧倒的に多く、95%を占めます。 |
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四重弧文で段顎(だんあご)がついています。 |
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この軒平瓦が、川原寺式軒丸瓦と組み合わされて葺かれたと考えられています。
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四重弧文軒平瓦は、七世紀中頃の川原寺創建時に初めて用いられました。 |
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| ②その他に、箆(へら)描き文軒平瓦が2種類も検出されました。(図は省略) |
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| 【参考写真】 瓦の葺(ふ)き方・・・本瓦葺 |

(写真:摩訶耶寺山門(静岡県引佐郡三ヶ日町摩訶耶421)、 撮影:2010年2月27日) |
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智積廃寺と土丹遺跡は三滝川と矢合川に挟まれた標高30mほどの沖積低地に位置します。 |
- 昭和43年~44年にかけて、智積廃寺の北に続く部分が発掘調査され、縄文時代及び平安時代から室町時代にかけての集落跡と分かりました。とりわけ、沖積低地に立地する縄文遺跡としては四日市市内唯一のもので、「縄文人の低地部への進出」という点で重要な遺跡と考えられています。
- 遺構は、竪穴住居跡7棟(平安時代6棟、鎌倉時代1棟)、掘立柱建物跡(平安時代1棟)、土坑、溝跡、柵列が検出され、集落が営まれていたことが判明しています。
- 遺物は、縄文土器(縄文晩期後半の突帯文土器)、智積廃寺に伴うと思われる瓦片、そして寺院廃絶以降集落が営まれたことを示す平安時代以降の土師器(はじき)、灰釉陶器(かいゆうとうき)、山茶椀、木製品が検出されました。
- 智積廃寺を含むこの辺りは、「土丹遺跡」として市の埋蔵文化財に登録されています。
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| 智積廃寺の瓦を焼いた場所は、廃寺跡から北東約1.3kmの三滝川対岸の生桑(いくわ)山丘陵の西斜面に位置する「北浦古窯(きたうらこよう)跡群」(四日市市寺方町字若宮)であると、以下の理由で推定されています。 |
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智積廃寺や土丹遺跡の周辺にある奈良時代の窯跡は、北浦古窯跡群だけである。 |
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1970年(昭和45)に発掘調査された際、窯跡は2基存在したがそのうち2号窯の灰原から、智積廃寺跡から検出された重弧文軒平瓦・平瓦・丸瓦や塼、および7世紀末の須恵器が出土した瓦陶兼業窯である。但し、軒丸瓦は全く出土しなかった。 |
ゆえに、地理的・時代的観点から智積廃寺の瓦は「北浦古窯跡群」で生産された可能性が高いと考えられています。 |