4.奉納相撲の「巡業番付」発見!  

 椿岸神社の社殿落成を祝して、奉納大相撲が明治9年(1869)10月1日から3日までの3日間、西勝寺境内で開催されたことは、「2.郷土で相撲興行」で述べたとおりですが、その時の「巡業番付」が発見されました!! 
 謝辞:この巡業番付のコピーと情報は、「相撲史跡研究会」の森國弘様と杉浦弘様からご提供いただきました)

 これまで、「西勝寺の文書(「2.郷土で相撲興行」)」の情報から、明治9年の奉納相撲のため来村した力士名の中に、肝心の郷土出身の力士「君が嶽重五郎」と「勢イ力八」の両名の四股名が見当らず非常に残念に思っていたところ、「巡業番付」をお送りいただいたお陰で、両名の活躍振りが判明して歓喜しました。



新たに発見された「巡業番付」で分かったこと
明治9年10月の椿岸神社の社殿落成奉納大相撲には、
 一行の中に「君ケ嶽重五郎」と「勢力八」の両名の四股名が明記されていました。
    (番付表・中段の印)
 力士92名と行司・年寄等あわせて総勢107名の大所帯での巡業でした!
 【明治9年6月、東京で発行された巡業番付】

(「明治9年巡業番付」ご提供:「相撲史跡研究会」の杉浦弘様。赤マーク等は当会)
この巡業番付は、
  1. 明治9年6月に開かれる予定であった「大阪相撲本場所」に向けて東京で発行されました。
  2. 大阪相撲本場所は何らかの事情によって延引して、同年の10月に開かれた事が判っています。
  3. この番付通り、力士92名と行司・年寄等を含め総勢107名の大所帯で、桜に巡業に来たものと考えられます。
  4. 境川浪右衛門、雷電震右エ門の東西両大関はじめ、力士92名の四股名が見られます。
    ●境川は横綱免許力士
    ●雷電は明治の強豪大関で、江戸時代の有名な雷電ではありません。
  5. 「番付」の★印は、
    「君ケ嶽重蔵」・・・「君ケ嶽重五郎」です。この時「君ケ嶽重蔵」と名乗っていた。
    「勢力八」・・・・・「勢イ力八」です。 
    両名の四股名の変遷については、こちらのページをご参照ください。
    この巡業番付によって、明治9年10月1日から3日までの「椿岸神社奉納大相撲」に、わが郷土の力士も出場して故郷に錦を飾っていた事が判明しました。
  6. 「番付」の●印は、西勝寺「止宿人員記」に名が残る22名の力士で、全員が載っています。
    総勢107名のうち、西勝寺に泊まった力士22名の四股名だけが「止宿人員記」に残りましたが、あとは分宿して民家に泊まったり、隣村にも応援を請うたりして、宿泊先を確保したものと思われます。
    一部力士名は、「止宿人員記」の文字とは多少違いが見られます。
    例えば、小西川然蔵照蔵、一ノ戸大助大介、越川彦太郎彦三郎稲勝周三がいな嵜となっています。
  7. 「番付」の●印は、菰野の力士「勢海浪五郎(増位山浪五郎)」です。東方・「君ケ嶽重蔵」の後ろ5人目に見られます。
  8. 番付中央の年寄欄の筆頭でひときわ太字で記されている「中立庄太郎」にご注目ください!
    「中立庄太郎」は、元「木村庄太郎」といって三役格の行司で、いわば境川部屋一門の総帥的人物です。 彼は三重県桑名市出身で北伊勢に地盤がありました。
    そういう訳で、「君ケ嶽重五郎」、「勢力八」、「勢海浪五郎」の3人は、この親方のつてで境川部屋に入門したものと考えられ、そして、大阪相撲本場所入りを前に、親方ともども来村したものと思われます。           




「勢イ力八」と「増位山浪五郎」
●両名は、『角觝金剛伝』(明治18年刊)に以下のように掲載されています。


東京 勢イ力八
伊勢の国三重郡
 智積村の産にして
境川浪右衛門門人なり 
はじめより、勢イと云う
  前より取り登る
東京 増位山浪五郎
伊勢の国三重郡
菰野村の産にして
境川浪右衛門の門人なり 
はじめ勢海 今増位山と改め 
前より取登る
(出典:角觝金剛伝(明治18年刊) 
(提供:「相撲史跡研究会」の森國弘様)

【謝辞】
 「番付」の解説は、「相撲史跡研究会」の森國弘様にご教示賜りました。
 「明治9年6月東京で発行された番付」は、「相撲史跡研究会」の杉浦弘様にご提供いただきました。 ここに、ご両人様に心より御礼申し上げます。

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