桜の史跡NO.10
        
       (ずいこう の せきひ)     桜の史跡説明板集NO.10

「瑞光(ずいこう)の碑」は、四日市市桜町「一色公会所」の敷地内にあります。

「四日市市地図情報GIS」を加工・作成(eitaki)


下記の地図は、『明治十八年伊勢國三重郡櫻村地誌付属六千分壱之圖』
の一部に、「一色公会所」と付近の河川名等を黒文字で加工・挿入したものです。

(加工・eitaki)

「一色公会所」
四日市市桜町8737「一色公会所」全景
「瑞光の石碑」の説明版は、
金網フェンスの道路側角に建てられています。
「瑞光の石碑」・・・瑞光庵主大兄位
「一色公会所」に向かって右手、
自転車置き場の背後に、
写真のように祀られています。
(2002年4月撮影)

上記写真2枚は2002年4月に撮影しましたが、1998年4月に撮影された「瑞光の石碑の写真」を是非ご覧ください。「石碑いろいろ」のページへリンク 寂しげにポツンと建つ「瑞光の石碑」は、昔、洪水に悩まされた村人たちの心理状態を表すかのようです。


 

  • 伝説・・・その1


    昔から伝えられている話だが、
    この辺は、度々の洪水で、百姓は難儀していた。
    苦行している尼僧が、
    「私が人柱(ひとばしら)になって洪水を防ぎましょう」と言って、
    生き埋めになり
    何日かリーン、リーンと鈴の音が聞こえていた。


  • 伝説・・・その2

     瑞光(ずいこう)とよぶこの石塔についての伝説を知る古老のお話によると、
     昔、この近くの所で、臨済宗の尼僧が苦行し、入定された。(入定・・・高僧・聖者が死ぬこと)
     しかし、入定された場所が悪いので、高地になっていた所へ移したそうです。
     すると、朝、昼、晩に鈴の音が、「ちりーん、ちり〜ん」と聞こえたのだそうです。
     やがて、懇(ねんご)ろに法要し、「瑞光庵主大兄位」と諡(おくりな)をして、
     供養塔を建てたのがこの石塔だそうです 。

     ここは三十三間筒右岸堤の続きで、昔は河川敷だったとも話した。



 
  • さて、時が経ち、村人の中に、「何ゆえに、ここにポツンと石碑が建てられているのか?」と、あれこれ考えたり、調べたりせずにはおれない「物知り」と言われる人物がおったそうです。
     
     確かにの、この辺は金溪川(かんだにがわ)の河川敷で、昔は大雨が降るとたちまち氾濫原になった所じゃった・・・、しかし・・・
     その物知りの疑問は、言い伝えられた「瑞光の石碑」伝説では「尼僧」ということだが、「瑞光庵主大兄位」から察して、禅宗に関係のある男子と考えられることもあって、いろいろと考えたそうです。

    (1)多分、丁寧に埋葬したかったが、宗派が違うので「安正寺」には埋葬できなかったのだろう。

    (2)「瑞光庵主大兄位」という碑名から察して「禅宗の僧」だろう。
    全福寺(現・地蔵堂)は曹洞宗ではあるが、「北畠満雅卿の霊場である」ということで、ここにも葬れなかったのだろう。

    (3)佐倉城主小林家が、当時「「六組堂(むくみどう)」を墓地にしていた関係で、知人をつてに「千種家系図」を熱心に調べたそうです。
    すると、千種家の家系図に「千種治庸従五位下 式部小輔瑞光院殿、大永二年八月朔日卒」というのを探し当てました。(註・・・大永二年は1522年)

    そこで、「千種氏」「瑞光」の文字と関係が深いとみて、さらに調べてみると、
     後醍醐天皇に仕えた忠臣千種忠顕は、建武新政の功績で莫大な恩賞を与えられた。
      その際、伊勢の千草の地を得たと考えられていること。
     千草氏の完全な系図は伝わっていないこと。
     千種忠顕から5代目の千種治庸ちぐさちよう)は「千種城主」であった。
      彼は、文亀3年(1503)に「禅林寺を千種家の菩提寺」とした・・・とあった。

    しかし、結局、「瑞光庵主大兄位」については何も分からなかったそうです。


  • 金溪川の現状
    山上地区〜桜町一色にかけての金溪川は、川底の岩盤が露呈している箇所が見えるので、昭和37年(1962)の「智積用水路改修工事」の後で、この辺りも浚渫(しゅんせつ)されたと推察されます。(同工事は1962〜66年までの長期工事。浚渫とは、河川などの底面を低くするため、川底などの土砂等を取り去る土木工事のこと)
                 
                    ― 終 ―

(参考文献:『明治十七年調伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』、『明治十七年調伊勢国三重郡智積村地誌』、『『ふるさと散歩』桜地区地域社会づくり推進委員会発行、桜郷土史研究会会長・小関俊郎著)  2005年5月初稿、2019年9月更新、 (文責・永瀧洋子)