「桜の史跡NO.15」

      
         ちしゃくみくりや   と   たほうざんちしゃくじ

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 現・四日市市桜町南区にあった「多宝山智積寺(たほうざんちしゃくじ)は、1876年(明治9)12月21日午後5時前、伊勢暴動で焼き討ちに遭いました。
 この時、地元民の必死の努力で無事搬出された薬師如来坐像十二神将閻魔像は、現在下記の様に桜町南区公民館に安置されています。
 (薬師如来、十二神将、閻魔像については、「付録・簡単な仏教用語解説」をご参照ください


薬師如来坐像の全高(光輪と台座を含む)
約210cm、像高:約150cm
多宝山智積寺が建っていた場所
  • 「多宝山智積寺」は、今の桜南区公民館の西側、桜町66番地(マンション・サンライズ桜、元・林酒造)の地・字南垣内(あざみなみかいと)にあり、南は大門(だいもん)という旧字に接していました。境内には巨大な石柱が建ち、また現・南区公民館前の道は「参道」と呼ばれていたそうです。
薬師如来坐像の鑑定結果
  • 鑑定日:2001年(平成13)6月18日
    鑑定者:四日市市立博物館:赤川一博氏(主担当)、堀越光信氏
         三重県史編纂室:瀧川和也氏
        (文化財取り扱い専門業者1名)
    鑑定結果:
    • 内部から構造や作り方を詳細に調べた結果、製作年代は江戸時代初期のものと推定する。(300〜400年前)
    • 材質は桧(ひのき)で、本格的な寄木造(よせぎづくり)である。
    • 桧には太いもの(30p×40p)が使われており、建築部材を転用した可能性がある。この様な作例は珍しい。
    • 塗装は明治に入ってから塗り直されている。
    • 江戸時代の作ながら、頭部の造形や着衣の様子が平安時代の「定朝様(じょうちょうよう)」の穏やかで優美なスタイルの様式を引き継いでおり、おそらくその系統をひく名のある仏師の作と思われる。
      (定朝様については、「付録・簡単な仏教用語解説 定朝様」へリンク
    • 彫刻技術がたいへん高い。
    • 文字や体内物(巻物や小仏像)など、本体と台座の内外には無かった。

“多宝山智積寺は「智積」の地名の元になった寺”であると推測されています。
  • 『勢陽五鈴遺響』(天保4年(1833)編)に、「智積ノ名義ハ往昔知積寺アリ故ニ名ク 今ハ廃ストイヘトモ村名ハ存セリ 旧ハ知積寺村ト称ス 後ニ一字ヲ約シテ知積ト云ヘリ」と記されています。
    (往古、「智積寺」があったので「智積寺村」と名付けられたが、寺が廃れたので一字を略して「智積村」と呼ぶ・・・と智積村の由来が述べられています)
薬師さんの報恩講
  • 多宝山智積寺の薬師如来坐像が安置されている南区公民館では、毎年1月15日に、「薬師さんの報恩講」が営まれ、安正寺住職の読経と説教があります。


            目     次
 1.多宝山智積寺(たほうざんちしゃくじ)の由来
  (1)「多宝山智積寺の半鐘の銘文」から由来をみる
  (2)『明治十七年調 伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』から由来をみる
  (3)半鐘の銘文と地誌の記述の相違点
 2.智積御厨(ちしゃくみくりや)
  (1)智積御厨の成立と経過
  (2)智積御厨内の多宝山智積寺の役割
  (3)賀宝寺(かほうじ)の鰐口(わにぐち・・・15世紀の智積御厨を伝える
  (4)智積御厨と多宝山智積寺の年表
 3.源頼家寄進の鐘について
 4.伊勢暴動
 付録 簡単な仏教用語解説


 1.多宝山智積寺(たほうざんちしゃくじ)の由来

(1)「多宝山智積寺の半鐘の銘文」から由来をみる
    (参考文献:『伊勢の智積郷 』山田教雄著)

 1982年(昭和57)、多宝山智積寺の半鐘が、慶雲寺(愛知県あま市森山道上55)にあることが確認されました。 また、この半鐘の銘文には、多宝山智積寺の由来、及び1729年(享保14)年改鋳されたと刻字されていました。
多宝山智積寺の半鐘の銘文 (写真撮影:2007年3月15日)
 勢州三重郡佐倉村多宝 
 山智積寺者正治年中開
 基之本尊者薬師如来行 
 基菩薩之御作也七郷之
 氏寺而七堂伽藍霊地  
 也鳴呼永享之年逢於乱
 而破却而来草庵之結而 
 尊財之奉安置寺号日衰
 為不呼号而自村童喚  
 於與七郷許矣而時寛
 文之頃沙門宗信佛殿   
 之修造同懸於半鐘而
 日刻二時敲之而近来  
 鐘声少也因茲村中之
 壮士等請勧進之而    
 新此佛具之鋳改奉寄
 附之者也
   
 享保十四己酉年
   十一月艮辰
     智積寺入信代

   安 濃 津
    大 鋳 師
     辻越後藤原種茂

慶雲寺 観音堂 尾張西国十九番札所
本尊・十一面観世音菩薩

本堂軒下に釣下げられた多宝山智積寺の
半鐘 
(口径39.5cm、高さ59cm)

半鐘に刻まれた多宝山智積寺の由来

(半鐘の銘文を全て撮影・解明して掲載。『伊勢の智積郷 』とは僅かに異なります)

 下記に、上掲の“半鐘の銘文”を箇条書きして、西暦年や註書き等を適宜挿入しました。
  1. 伊勢国三重郡佐倉村の多宝山智積寺は、正治年中(1199〜1200)に造立され、御本尊は行基菩薩の御作とされる薬師如来である。
    【註1】
     
    現存の薬師如来坐像は、冒頭で既述したように江戸時代初期から中期の作と判明している。
    【註2】
     
    行基(668〜749年)は奈良時代の高僧で、正治年間建立の多宝山智積寺と時代が全く違う。
    行基は薬師寺で道昭、義淵らに師事する。諸国を遊歴し、民衆教化や、造寺、池堤築造、橋梁架設など社会事業に専念したことから「行基菩薩」と称されたが、717年にこうした行為が僧尼令違反として禁圧された。その後聖武天皇の尊崇を受け、743年東大寺大仏造営の勧進に起用され、2年後には大僧正位を授けられる。

  2. 七郷の氏寺として、七堂伽藍(しちどうがらん)仏教用語解説へリンク)が備わった霊地であった。
     【註】・・・七郷とは、智積・桜・一色・森・平尾・赤水・海老原を指す。

  3. 鳴呼(ああ)永享年間(1429〜40)の戦乱に遭い破却された。
    「永享年間の戦乱」と言えば、当地では、永享元年(1429)12月21日、北畠満雅が足利将軍義教に反乱を起こし幕府軍に敗れて戦死した事例があり、この際に多宝山智積寺が破却されたと考えられます。

  4. その後は、草庵を建て尊財(什器類などのこと)を安置したが、寺号は日に日に忘れ去られ、寺の名を呼ぶのは七郷の者ばかりとなった。

  5. 寛文年間(1661〜72)に沙門(僧)宗信が仏殿を修造して、半鐘を懸けて日に二回之を敲(たた)いて時を告げた。

  6. 近来その鐘声が小さくなったので、村中の壮士等の勧進を請い、新たに此の仏具を改鋳して寄附奉る也。

  7. 享保14(1729)年11月  安濃津 大鋳師 辻越後藤原種茂

(2)『明治十七年調伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』から由来をみる

 下記に、地誌本文を箇条書きして、西暦年や註書き等を適宜挿入しました。
  1. 浄土宗鎮西派。本尊木佛薬師如来。

  2. 天平13年(741)、行基僧正が聖武天皇の奉勅によって建立した。

  3. 七堂伽藍、椿七郷の精舎たり。

  4. 鐘銘に正治二年(1200)鎌倉将軍源頼家(みなもとよりいえ)の寄附と刻印されていた。
    【要注意】
     『古屋草紙』
    (嘉永4(1851)年編)の「智積寺」の項にも、「正治二年金吾将軍源頼家卿寄附鐘在、銘之有」とあり、『勢陽五鈴遺響』(天保4(1833)年編)の「智積廃寺跡」の項に、「同処(智積)ニアリ 正治二年所造ノ古鐘鎌倉二代将軍頼家寄附銘文アリト云」と記されていますが、両文献ともに「多宝山智積寺の解説」とは断定できないため要注意です。
    「源頼家(みなもとよりいえ)の寄進の鐘について」へリンク

  5. 永享年中(1429〜40)兵火のため灰燼となったが、再び再建して村民崇敬するところとなる。

  6. 寛文9年(1669)まで、境内及び田一反歩除地であった。

  7. 当寺の南は大門(だいもん)という旧字に接し、巨大な柱石等存在した。

  8. 明治7年(1874)、無住のため政府の方針で廃寺となったので村民は仮小学校の校舎とした。

  9. 明治9年(1876)12月伊勢暴動の際、建物と鎌倉将軍源頼家寄附の鐘は焼失した。  

(3)「半鐘の銘文」と「地誌の記述」の相違点
  1. 1729年(享保14)作の半鐘は、1884年(明治17)作の『桜村地誌』より、155年前に改鋳されました。
    この時点での”多宝山智積寺に伝承されている事柄”を、半鐘に刻字されたものと考えます。
    しかし、「源頼家寄附の鐘」について全く触れられていないことに、大きな違和感を覚えます。
    考えられることは、この155年間に、上記(2)の4で既述した『古屋草紙』1851年編、『勢陽五鈴遺響』1833年編が発刊され、それには「源頼家が寄付した鐘」について記述があり、『桜村地誌』作成時に、大きな影響を与えたという感が否めません。

  2. 半鐘には、寛文年間(1661〜72)に僧宗信が仏殿を修造し、享保14年(1729)に半鐘が作り直されたと記しますが、地誌には記載がありません。

  3. 上記A.B.以外では、多宝山智積寺の建立年、行基作の薬師如来本尊、七堂伽藍の霊地であったこと、永享年中に兵火で破却したこと等々、ほぼ同内容です。



 2.智積御厨(ちしゃくみくりや)について

(1)智積御厨の成立と経過
 (主な参考文献『四日市市第7、16巻』)
 
 御厨(みくりや)とは
  • 古代〜中世における皇室や伊勢神宮や加茂大社などに、神へのお供物(神饌(しんせん))を献納する土地を御厨(みくりや)という。平安時代末期以降はその殆どが荘園化したが、伊勢神宮の神領は御厨といい、主に東海・東国を中心にほぼ全国的に分布した。
 伊勢国三重郡は伊勢神宮の神郡(しんぐん)であった
  • 三重郡(およそ現四日市市と三重郡菰野町)は、962年(応和2)に村上天皇によって伊勢神宮に寄進された神郡でした。(伊勢神宮の神郡とは、律令制下で郡全体が伊勢神宮の所領と決められ、郡からの収入は伊勢神宮に収められました)

  • 郡自体が神領地であったために、その中の未開発地や荒廃地を開発・再開発して荘園とするには、神宮の祭主や禰宜(ねぎ)と関わりを持たなければ成立し得ませんでした。

  • 平安時代の中期以降、有力貴族や寺社の私有地の荘園が増大するなかで、伊勢神宮でも御厨・御園と呼ばれる荘園が全国に増加していきました。
    これは、神宮の禰宜や権禰宜(ごんねぎ)たちが、貴族や豪族たちに伊勢神宮の御神威を説いて荘園の寄進を進め、特に神郡においては活発に寄進を仲介したことによります。
    この仲介者を口入神主(くちいれかんぬし)と呼び、神宮に納める年貢の一部を口入料(仲介料)として受け取りました。

 智積御厨の成立
  • 平安時代末期1160年〜67年代(永暦元〜仁安2)、貴族(西園寺家と考えられている)が智積を中心とする三重郡内の開墾地を、伊勢神宮内宮の権禰宜荒木田公俊神主に口入(媒介)を依頼し、同神主は祭主大中臣氏と交渉して、内宮領として「智積御厨」が成立しました。
    内宮を本所(ほんじょ)とし、貴族(西園寺家)は領家(りょうけ)として御厨を実質支配しました。

    このときの土地は、貴族が自らの財力と労働力を調達して開墾したのか、あるいは地元の有力農民が開墾に協力したのか、又はこれらの混合地なのか何もはっきりしていません。
    しかし、中央の貴族が土壌の良し悪しや農業用水利など、諸事情に詳しい地元有力農民を頼みとするのは自然であり、こうした協力者は後日、貴族から下司(げし)や公文(くもん)などの荘官に任命され、現地管理者としての地位を確保していきます。

 智積御厨の所有者の推移と領域 
  (参考文献:「荒木田章氏等申状」、「藤原公行譲状案」、「あくり御前消息案」『四日市市史第7巻』
智積御厨の所有者変遷の概略
  西園寺家分家の室町家室町家の娘の婚家中御門家(後の松木家)消滅
  1. 1160年代成立時の領家も領域も不明。(西園寺家と考えられている)
  2. 鎌倉時代、西園寺公経から分家の室町家室町実藤へ移る。
  3. 1262〜75年(文永年間)、室町実藤の夫人冷泉局から以下の郷が室町公行に譲与される。
    瓜生郷(うりゅうごう)(現菰野町神森西、江戸期の神田村)、「森郷」(現菰野町神森東、江戸期の森村)「小林郷」(現智積町)、「庭田郷」(現・平尾町)衣比原(えびはら)上・下二郷」(現・上・下海老原(えびはら)町)
  4. 1320年(元応2)、室町公行の子供3人に分割譲与される。
    「瓜生郷と森郷」は娘あくり御前へ、「衣比原上・下二郷」は室町季行へ、「小林郷・庭田郷」は了覚へ。
  5. 1328年(嘉暦3)、室町季行の所領「衣比原上・下二郷」を除き、本御厨の大部分「瓜生郷・森郷・小林郷・庭田郷」は、あくり御前の婚家・中御門家(後の松木家)の領地となる。
  6. 南北朝期、「衣比原上・下二郷」も中御門家の所領となる。
    すなわち領域は現在の智積町・桜町を中心に北方へ伸び、菰野町神森、平尾町、上海老町、下海老町と推定される。
    1360年(延文5)頃、智積御厨の面積は180町、内宮が毎年上分米(年貢米)として10石、口入神主が加地子米(かじしまい)として20石を収める。(『神鳳鈔(じんぽうしょう)(註2)
    (註2) 『神鳳鈔(じんぽうしょう)』は、鎌倉時代における伊勢神宮の所領である神戸・御厨・御薗・神田・名田などを国別に分類集成した記録。ここでは1360年(延文5)編さんによる。

  7. 1583年(天正11)、織田信雄の所領となり、智積御厨は消滅する。

  • このような智積御厨を、面積からも残された資料の豊富さからも県下有数の御厨であると『四日市市史第16巻』は記す。

  
(2)智積御厨内の多宝山智積寺の役割
  •  1160年〜67年頃、神郡である三重郡内に成立した智積御厨の領内に、当時の慣例にしたがって、「神明社(または神明神社)」が建立され、伊勢神宮天照大御神の分霊が祭祀されたと推測されます。
    (『勢陽五鈴遺響』や『伊勢国三重郡智積村地誌』の「椿岸神社」の項に、「方俗神明と称す」、「土俗大宮と称す」と、御厨時代の呼称が地元民によって継承されたことを示す記載があります)

     それから約40年後、半鐘の銘文にあるように、正治年中(1199〜1200)、中世の神仏習合思想を背景として、「神明社」と相隣り合う又は近接する場所に、智積御厨を守護する寺として「多宝山智積寺」が造立されたと考えられます。
     多宝山智積寺は、長禄2年(1458)と延徳2年(1490)の二冊の『伊勢国智積御厨年貢帳』に記載されていません。
     しかし、智積御厨の領家松木宗綱の息子の醍醐寺理性院厳助僧正が残した日記『厳助往年記』に、「享禄3年、正月九日、伊勢智積寺本所、依夜盗之儀、炎上云々」と記録があります。(享禄3年は1530年)

    厳助が事件を重要視して日記に書き残した「伊勢智積寺本所」とは?
     伊勢国の智積寺は、智積御厨の領家の氏寺と考えられます。本堂に薬師如来坐像(勿論、現存仏ではない)を祀り、その寺域には、智積御厨を管理運営する役所機能を持つ本所と領主の居館があったと推量できます。しからば、自ずから長禄と延徳の二冊の年貢帳に、「智積寺」という寺名の記載が無い理由も説明できます。更に、智積御厨の領家の氏寺であれば、「智積御厨を守護する寺」と言っても決して過言ではないと考えられます。


(3)賀保寺(かほうじ)の鰐口(わにぐち)・・・15世紀の智積御厨を伝える
  • 「賀保寺の鰐口」は、15世紀の智積御厨の存在、及び賀保寺(菰野町大字神森)とその周辺地が智積御厨に所属したことを伝える貴重な歴史的遺物資料です。 (鰐口は、社殿・仏堂正面の軒下につるす金属製の音響具で、参詣者は布で編んだ綱を振り動かして打ち鳴らします)
賀保寺の鰐口   (写真撮影:2011.11.13) 賀保寺鰐口の銘文
 
 賀保寺について
  • 「神宮山賀保寺」は三重郡菰野町大字神森(かもり)に在ります。
  • 「神森」は明治8年(1875)神田(こうだ)村と森村が合併して神森村となり、明治22年(1889)菰野村へ合併した。
  • 賀保寺は嘉保年間(1094〜96年)に創建されたので「嘉保寺」と称した。(森村の「春日社棟札」による)
  • 永禄11年(1568)信長の兵火で焼失、寛永11年(1634)に再興され、明治初期の神仏分離令で廃寺となる。
    現在、神森地区の集会所兼仏像・仏具保管所となっています。

(賀保寺の山門)
 賀保寺の鰐口から分かること
  • 賀保寺の鰐口は、昭和50年(1975)に菰野町指定有形文化財となりました。
     【永享2年(1430)製作、直径38p、厚さ6.5p、青銅製】
       鰐口の銘文・・・伊勢國三重郡智積御厨内賀保寺鰐口之事
                 性乗
                 永享二年十一月八日願主敬白大工藤助信
    永享2年は1430年。 製作者は大工の藤助信。 鰐口の願主は性乗。
    (願主とは、仏像や経典などを奉納して善根功徳を積もうという願いを起こした人のことで、主に在家信徒)
  • 1458年(長禄2)に作成された『伊勢国智積御厨年貢帳』には、
    「郷名がない智積御厨の中心地(近世の智積村)」、「中村郷」、「桜郷」、「一色郷」、「森郷」、「平尾郷」、「上衣比原郷」の各郷の年貢状況や寺社名等々が詳しく記されています。
    ゆえに現三重郡菰野町神森にある賀保寺の周辺一帯は、中世には「森郷」として智積御厨に属していたことが分かります。 (『四日市市史第7巻』)

(4)智積御厨と多宝山智積寺の年表 (印は多宝山智積寺関係です)
962年
(応和2) 
伊勢国三重郡、神郡となる。(村上天皇が三重郡を伊勢神宮に寄進)
1160〜67年
(永暦元〜仁安2)
智積御厨成立。(『荒木田章氏等申状』) 
伊勢神宮内宮を本所とし、領家(御厨の所有者)は西園寺(さいおんじ)家と考えられている。
1200年
(正治2)
正治年間(1199〜1200)、多宝山智積寺創建。本尊・薬師如来坐像
正治
2年、将軍源頼家が鐘を寄進。(『桜村地誌』では、この鐘は明治9年の伊勢暴動で焼失したとされる)
文永年間
(1264〜75年)
この頃、智積御厨の領域は「瓜生(うりゅう)郷」(現・菰野町神森西、江戸期の神田村)、「森郷」(現・菰野町神森東、江戸期の森村)、「小林郷」(現・智積町)、「庭田郷」(現・平尾町)、「衣比原(えびはら)上・下二郷」(現・上・下海老原町)に広がり、所有権(領家職)は西園寺家が相伝した。(『藤原公行譲状案』)
1328年
(嘉暦3)  
智積御厨の領家は西園寺家から中御門家(なかみかどけ。後の松木家)に移る。
1389年
(康応元年)
大日寺(四日市市寺方町)、智積御厨の代官となる。
(この頃、荘園領主が現地の有力者と契約して、一定額の年貢を払う替わりに、荘園の実質支配権を委譲するようになる。そうした荘園を請所(うけしょ)、契約相手を代官と称した)
永享年間
1429〜41
多宝山智積寺、兵火による堂宇焼失のため草庵を建て什器類を安置する。
1430年
(永享2)
菰野町大字神森の賀保寺の鰐口が作られる。賀保寺の周辺地「森郷」が智積御厨の内に属していたことを伝える貴重な菰野町の有形文化財。
1456年頃
(康正2)
この頃、中御門家の所有権は智積御厨の三分の一となり、あとの三分の二は嵯峨大慈庵(相国寺塔頭慶雲院の末寺)に移っていた。
(その原因は、半済(はんぜい。室町幕府が軍費調達のために荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めた制度)に因るものか、あるいは中御門家が大慈庵に売却または寄進したのか不明)
1458年
(長禄2)
『伊勢国智積御厨年貢帳』に、近世の智積村と推定される一区画のほかに、「中村郷」、「桜郷」、「一色郷」、「森郷」、「平尾郷」、「上衣比原郷」の郷名がみられる。
1486年
(文明18)
松木家、峯弾正忠(みねだんじょうのちゅう)が去年に続き今年も押領すると室町幕府に訴える。
(15世紀中葉、鈴鹿郡関氏の一族峯氏が智積御厨の代官を務めた時期もあるが、この頃はその地位を失っていたらしい。峯氏の不法は天文8年(1539)佐倉城襲撃として再現する)
これ以前にも、武士の押領、代官の大日寺(四日市市寺方町)や公文(くもん。荘内の田畠を調査し年貢帳など文書作成する者)竹腰氏の非法、大慈庵との訴訟等が度々起こっていた。
こうした智積御厨の領主間の訴訟や武士の侵略に加え、戦乱による京の治安悪化や生活困窮も重なって、松木家の当主は智積に移住して(1499年)、御厨を直接支配(直務支配(じきむしはい))するようになる。
1499年  
(明応8)
 11月、松木家三代目当主・宗綱は、京の戦乱を避けて、子・宗籐らを伴い智積に移り住む。
(『嚴助往年記』に、「明応八己未十一月、里女房衆、予兄弟以下悉伊勢下國始也」と記す。注:厳助は宗藤の弟、醍醐寺理性院僧侶 )
以後、宗綱、宗籐、宗房の三代にわたって80余年あまり智積に在住するが、度々京と当地を往来している。
1530年
(享禄3)
「正月九日、伊勢智積寺本所、依夜盗之儀、炎上云々」(『嚴助往年記』)  
智積御厨を管理運営する役所(多宝山智積寺)が夜盗によって炎上。
1583年
(天正11)
当地は、織田信雄(のぶかつ)の所領となる。
荘園制の崩壊。智積御厨の消滅。
1587年
 (天正15)
当主・松木宗房、残務整理を終えて上洛。
  江戸期に入り、多宝山智積寺は境内の他田一反歩免税の恩典を受ける。
寛文年間
(1661〜71)
僧宗信、仏殿を修造して、半鐘を懸け日に二回これを敲いて時を告げた。
1677年
(延宝5)
多宝山智積寺中興の祖・宗信の願により御堂建立。
半鐘を鋳造して一日二回撞いて住民に時を知らせた。時の庄屋は坂井三郎左衛門。
1729年
(享保14)
多宝山智積寺の半鐘を新替え。
(この半鐘は現在愛知県海部郡美和町森山の慶雲寺に現存する)
1751年
(寛延4)
佐倉村民の願により御堂瓦屋根建立。時の庄屋は伊藤儀左衛門。
1777年
(安永6年)
多宝山智積寺最後の住職信来、「釈迦涅槃像の掛軸」寄進。(現存)
天明年間
(1781
   〜88年)
多宝山智積寺無住のため、浄土宗鎮西派伊勢中本山の六呂見観音寺(現・四日市市六呂見町)の末寺として存続を許される。
現存の「南無阿弥陀仏の掛軸」(増上寺大僧正祐天書)はこの時観音寺より寄贈されたと思われる。(祐天は正徳二年(1712)鎌倉に大仏殿を勧請した高僧)
1874年
(明治7)
多宝山智積寺無住のため、政府の方針で廃寺となり、小学校(人民共立仮小学校)の校舎に利用される。(佐倉村、桜一色村、智積村の児童120人を収容)
1876年
(明治9)
多宝山智積寺、伊勢暴動の際暴徒の手で建物焼失、山門は残る。
御本尊その他の仏像は地元民の必死の努力で救出されるが、将軍源頼家寄進の鐘を失う。



 3.源頼家(みなもとのよりいえ)寄進の鐘について

  • 源頼家の概略
    源頼家は鎌倉幕府第二代征夷大将軍(在任1202〜1203年)。父は源頼朝、母は北条政子。
    1199年(正治元) 源頼朝が53歳で世を去り、源頼家(18歳)が家督を継ぐ。
    1202年(建仁2) 源頼家、征夷大将軍に宣下される。
    1203年(建仁3) 頼家が病に倒れると、家督相続をめぐって、嫡子一幡(いちまん。6歳)の外祖父比企能員(ひきよしかず)とその一族が、北条時政に討たれ、一幡も殺される。頼家は伊豆修褝寺に幽閉され、弟(12歳)が将軍となって源実朝を名乗る。
    1204年(元久元)7月 頼家(23歳)、北条氏の兵によって殺害される。

  • 源頼家はほんとうに多宝山智積寺に鐘を寄進したか?
    • 1160−67年頃、智積御厨は西園寺家の御厨として成立。

    • 1199〜1200年(正治年間)頃、多宝山智積寺創建。

    • 1200年(正治2年)、源頼家、多宝山智積寺に鐘を寄進。
      この頃、 源頼朝の同母妹(または姉)坊門姫と夫の一条能保(よしやす)との間にできた娘全子は、智積御厨の所有者西園寺家の西園寺公経(きんつね)の妻となっていました。つまり、頼家と公経は義理の従兄弟関係にありました。
      源頼家と西園寺公経の関係家系図
      (括弧内の数字は死亡年)

    • 上記のような姻戚関係から推測すれば、1200年(正治2年)、西園寺家の智積御厨の領内に創建された多宝山智積寺に、源頼家が善根功徳を積むために、願主となって鐘を奉納した可能性は有ると考えられます。
      しかし、慶雲寺にある智積寺の半鐘はその件について何も語らず、また智積御厨時代の古文書や遺物等で実証できない現段階では伝承の域を出ず、今後の研究が待たれます。



 4.伊勢暴動(いせぼうどう)
 明治政府は、国家財政の基盤を固めるため、1873年(明治6)地租改正条例を公布しました。

【地租改正の内容】

  1. 個人に対する土地の私的所有を認めた。(日本ではじめて土地が個人の財産として売買・担保の対象となる)
  2. 収穫力に応じて決められた地価を課税の標準にした。(従来は収穫高)
  3. 税率を地価の100分の3とし、原則として豊凶によって増減しない。
  4. 納入は金納とした。(従来は米による物納)
 しかし、当時の米相場は下落していたので、安い米を売って高い税金を払わねばならない状況に農民の不満は増幅し、地租改正反対の暴動につながりました。

(1) 伊勢暴動の経過
  • 明治9年(1876)12月18日午後、飯野郡魚見村(現・三重県松阪市魚見町)とその周辺の農民は、折からの米価の暴落と、9月に櫛田川が決壊して稲に大打撃を受けたので、戸長を通して、「金納ではなく米納で、しかもその年の相場で納税」という要求を認めてもらうため川原に結集しました。(当初は、農民の嘆願という合法手段であり、武力闘争を目的としていなかった)
  • しかし、話がつかないまま翌19日午後、竹槍を持つ農民と警官隊との小競り合いが発端となって、松坂町内の打ちこわし・放火と騒動に発展、やがて三重県下ばかりでなく愛知・岐阜両県の一部にまで波及しました。
  • この暴動の報がひとたび中勢・北勢地方に伝わるや否や、農民の不満が爆発して一揆勢に加わる者も多く、とりわけ北勢における暴動は熾烈を極め、区戸長をはじめとする役人宅、巡査屯所、郵便局、学校など「官」と名のつく諸施設がことごとく毀焼被害に遭いました。
  • 三重郡では主として21日と22日に襲撃を受け、当地では人民共立仮小学校の校舎として使用されていた多宝山智積寺が、21日の午後5時前、焼け打ちに遭いました。
(2) 伊勢暴動の結末
  • 12月23日、政府は軍隊(大阪鎮台と名古屋鎮台)を出動させてこの暴動を鎮圧。
    翌年の明治10年1月4日、詔勅が出され、地租は地価の3%から2.5%へと軽減されるにいたりました。
    世人はこれを「竹槍デドント突キ出ス二分五厘」と揶揄(やゆ)しました。
  • 三重・朝明両郡で暴動に参加して呵責(かせき)以上の処罰者数は7,840人、両郡戸数の43%に上りました。


 付録・簡単な仏教用語解説

七堂伽藍(しちどうがらん)
 「七堂伽藍」とは、寺の主要な七つの建物。もともとインドの精舎でお寺は本堂だけでしたが、仏教が伝播した先々の国の文化と混じり合い、本堂以外の建物が必要に応じて建てられました。
 *一般には、「七堂伽藍」は以下を指します。
  1. 塔  (仏舎利(仏の遺骨)を安置する為の建物。木造や石造の多層塔)
  2. 金堂 (こんどう。本尊を祀るお堂)
  3. 講堂 (仏法の講義や法会(ほうえ)を行うお堂)
  4. 鐘楼 (時刻を告げるための鐘を吊るす建物)
  5. 経蔵 (経典を収納する建物)
  6. 僧房 (僧侶が住む建物)
  7. 食堂 (じきどう。僧侶たちが食事を摂る堂舎)
定朝様(じょうちょうよう)
  • 平安時代の仏師「定朝(じょうちょう)」の作風の影響下にある様式を「定朝様」と呼ぶ。
     定朝は寄木造りの
    技法を用いて,整った穏やかな作風で、後世の仏像彫刻に大きな影響をあたえた。 まるい椀を伏せたような肉髻(にっけい)、整然と並ぶ小粒の螺髪(らほつ)、丸顔の温和な表情、量感を抑えた扁平な胸、優美な衣文線などが特徴です。
仏像の種類
  • 如来 如来とは長い苦行の末悟りに到達した仏陀のことです。釈迦が出家して悟りを開いた姿が基本形で、装身具などは着けず袈裟をまとうのみ。但し、大日如来のみ装身具をまとう。
    釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来。
    薬師如来・・・正式名は薬師瑠璃光如来。病の苦しみを除いてくれる仏さまで、左手に薬壷を持つのが一般的。単独で祀られることは少なく、脇侍として日光菩薩、月光菩薩を、あるいは眷属として十二神将を従える。
    菩薩 悟りを求める人の意で、出家前の釈迦を指す。衆生救済をする。古代インド王族の姿を表し豪華な宝冠や装身具を着けている。
    観音菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩。
    明王 如来の心を奉持して悪を打ち破る使者で、密教仏教特有で、主に日本で登場する仏さま。不動明王に代表されるように多くは剣・弓矢などの武具を持ち甲冑(かっちゅう)姿で、激しい忿怒の表情をしている。
    不動明王。愛染明王。孔雀明王など。
    バラモン教やインドの民間信仰の神々を仏教に取り入れ、仏法や世を護るとされる仏さま。梵天、帝釈天、四天王(自国天、増長天、広目天、多聞天=毘沙門天)、吉祥天、弁財天、大黒天など。
十二神将(じゅうにしんしょう)
  • 薬師如来の眷属(けんぞく。従うもの)で、薬師如来の12の大願を成就すると いわれています。武器を持ち甲冑を着け、十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)の動物を頭に乗せ、薬師如来を囲んで八方方位、十二支方位に配置される。功徳は薬師如来を信仰するものを守る。
閻魔王(桜の閻魔さまのページへリンク)
   このページトップの写真では分かりにくいですが、向かって左最前列、黒い台座に座しています。

 如来像の身体名称など

(この図は、薬壷を持つ薬師如来像を想定しています)
肉髻
(にっけい)
頭の肉(脳)が隆起したもので、その形は髻(もとどり)のように表されます。
如来は智慧が多く脳みそが多く詰まっていることを象徴しています。
肉髻珠
(にっけいじゅ)
肉髻部と地髪部の境の正面に肉髻珠という玉が挿入される。普通は水晶が用いられるが、嵌め込む時にその穴に朱を入れ、赤色に光る玉にしている作例もある。 知恵の光明を表すといわれている。
螺髪
(らほつ)
頭髪の形で右旋した巻貝のようなぶつぶつを指し全て同形で大きさも同じ。今のパンチパーマのような髪型。剃髪したのちに毛が少し伸びてきた様子を表したものとされています。
白毫
(びゃくごう)
仏像の額に左巻きに固まっている一丈五尺(4.5m)もの長い一本の毛のこと。通常は水晶を嵌めて表現します。 全世界のすみずみ何処まででも慈悲の光が届き、悩む人、苦しむ人を見通すことができる仏の知恵を表します。
三道
(さんどう)
首にある三本のくびれ。
円満な人格で優しさを表します。
耳垂(耳朶)
(じだ)
 
 耳朶(みみたぶ)は穴が開いていて肩まで届きそうに長い。
 耳が大きく全世界の衆生の声を聞く能力があることを表します。
       
(文責:永瀧 洋子)

参考資料:『伊勢の智積郷 様相と史料』(山田教雄著)、『勢陽五鈴遺響』(安岡親毅著 三重県郷土資料刊行会 )、『四日市市史第7、16、18巻』、『多宝山智積寺薬師如来縁起』(1862年(文久2)佐野貞光著)、『多宝山智積寺由来』(1996年(平成8)佐野師光著)『御霊さん百年のあしあと』(佐野師光著))、『泗水11 地名に偲ぶ中世の佐倉(桜)』(小関俊郎著)、『三重県警察史第三巻』(三重県警察本部)、『菰野町史上巻』(三重郡菰野町)、『こものの文化財』(菰野町教育委員会)、『詳説日本史』(山川出版社)