「桜の史跡No.17」

(智積廃寺跡の石碑と説明板、その背後は東名阪自動車道の土手)


「桜郷土史研究会」の
 説明板集⑰へ



「智積廃寺跡」への
アクセス

1章 智積廃寺(ちしゃくはいじ)壬申(じんしん)の乱
・・・智積廃寺 残照・・・ 
智積廃寺(ちしゃくはいじ)の遺構は、四日市市智積町(ちしゃくちょう)(あざ)土丹(どうたん)、上記写真の右側の水田下にありました。
1968年に発行された『智積廃寺発掘調査報告書』に、智積廃寺は飛鳥時代後半から奈良時代初頭に創建され、約100年間存続して廃絶したと記されています。一連の調査で、平安時代から鎌倉時代後半頃までこの地域で集落が営まれたことを示す住居跡や、多数の尾張の猿投窯や知多古窯の製品や宋磁も2点出土したことから、鎌倉時代の文献にみられる「智積御厨(みくりや)(伊勢神宮領荘園)」の成立と、その「流通機構の形成」が考古学的に裏付けられました。
江戸時代になると、この地域一帯は「智積用水」を農業水とする水田となり、水源地のある隣村との「水争い」が繰り返し起こりました。しかし、その都度私たちの先人は知恵と工夫と忍耐力で乗り切りました。(『智積町有文書』)
こうして智積廃寺の栄華から約1200年、郷土の先人のたゆまぬ営みは、今この美しい田園風景に静かに深く溶け込んでいます。 

(1)寺院建立の潮流、中央から地方へ 
仏教公伝は六世紀半ばの欽明天皇の時代とされますが、当初渡来系氏族や蘇我氏など限られた人々に信仰されていた仏教は、594年(推古天皇2)に「仏教興隆の(みことのり)」が出され、政治の基本にすえられて国家の保護を受けるようになると徐々に浸透しはじめました。
646年(大化2)、「薄葬令(身分地位に応じて墓の規模や役民の動員数などを規定)」が定められると、大和飛鳥の豪族は古墳に代わって、徐々に“氏寺”を建立することでその権威を誇示するようになります。
これに伴って瓦工人を含む造寺建築技術工人集団の育成が進められ、また僧侶の育成にも政府の努力があったと考えられています。
そして7世紀後半になると、地方の有力豪族の間でも氏寺建立の気運が高まり各地で造営が進められました。
この頃、壬申の乱は起こりました。
(2)壬申の乱           
壬申の乱は、天智天皇が近江宮で亡くなった翌年の672年壬申の年の6月に、天智天皇の子の大友皇子(おおとものみこ)と、吉野の宮(奈良県吉野郡吉野町大字宮滝)に出家して隠棲していた天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)との間で、皇位継承をめぐって起こった古代最大の内乱です。
乱はおよそ一ヶ月後、敗北した大友皇子の自決で終息し、勝利した大海人皇子は都を近江から飛鳥へ移し、翌673年、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)(奈良県武市郡明日香村)で即位して天武天皇(てんむてんのう)となりました。(『日本書紀』は即位を記さないが、大友皇子は1870年(明治3)弘文天皇とおくり名された)
(3)壬申の乱と“北伊勢の豪族”
  大海人皇子の美濃への脱出行にあたっては、北伊勢の豪族の深い関与・活躍が注目されます。
                               (主な参考文献:『全現代語訳 日本書紀(下)』宇治谷孟著、『壬申の乱』倉本一宏著)
672年6月22日 近江朝廷の動きを察知した大海人皇子は、直ちに私領の美濃国安八磨郡(あはちまぐん)湯沐邑(ゆのむら)舎人(とねり)村国男依(むらくにのおより)らを使者として送り、兵を集め国司らに触れて軍勢を発し速やかに「不破道」(岐阜県不破郡関ヶ原町)を塞ぐよう命じた。 (安八磨郡は現・岐阜県大垣市、安八郡、揖斐郡池田町を含む)
24日 大海人皇子は妃と幼少の皇子2人と従者30余人を連れて吉野宮を発つ。
甘羅村(かんらのむら)(奈良県宇陀市大宇陀付近)を過ぎる頃、猟師20人を従えた。
菟田郡家(うだのぐうけ)(宇陀市榛原)付近で、湯沐の米を運ぶ伊勢国の荷役の馬50頭に遭遇、徒歩の者をこの馬に乗せた。
隠駅家(なばりのうまや)(名張市)を焼き人夫を徴発したが失敗。
横川(名張川か)で、大海人皇子占って曰く「天下は二分されるが、最後に自分が天下を取る」と。
更に急ぎ伊賀駅家を焼きつつ進むと、山中で伊賀の郡司が数百の兵を率いて従った。
25日 夜明けに柘植(つげ)(伊賀市柘植町)で、近江から甲賀越えで来た高市皇子(たけちのみこ)(大海人の子19歳)一行が合流してきた。 なおも急ぎ鈴鹿山脈の加太(かぶと)峠を越え、伊勢の鈴鹿に至る。
鈴鹿郡で伊勢国司三宅石床(みやけのいわとこ)等が兵を率いて一行を迎えた。
兵士500人で「鈴鹿山道(鈴鹿関)」を塞ぎ止めた。
日暮れに川曲(かわわ)坂本(さかもと)(鈴鹿市木田町。亀山市川崎町堂坂一心院説もある)で休息。夜、雨が降りそうなので出発したが雷雨に見舞われ、三重郡家(川曲から3㎞の四日市市采女(うねめ)町)で家一軒を焼いて暖をとり、吉野出立後初の泊。 三重郡家は采女町説以外に、川曲から直線距離で13㎞の四日市市坂部ヶ丘貝野遺跡付近、同西坂部町御館浄蓮寺、尾前神社跡説もある) 
26日 朝、朝明(あさけ)郡の迹太川(とほがわ)(海蔵川、十四川など諸説あり)の辺で、大海人皇子は天照太神を望拝。
大津皇子(大海人の子10歳)一行が合流してきた。
「美濃の軍勢3000人で不破道を塞いだ」と報告に来た村国男依の手柄を大海人皇子は褒めた。
(朝明)郡家(四日市市大矢知町の 久留倍(くるべ)官衙(かんが)遺跡:第Ⅰ-①期の遺構「郡家の前身となる豪族居館または評衙」、もしくは近辺の地)で、高市皇子を不破の監督として先発させる。
夜、桑名郡家(桑名市蛎塚新田付近)で宿泊。
27日 大海人皇子は、妃等を桑名郡家に留めて、急ぎ美濃の不破へ向かった。 
(4) 壬申の乱と“複弁八弁蓮華文軒丸瓦(ふくべんはちべんれんげもんのきまるかわら)”が出土した古代寺院跡
壬申の乱で大海人皇子の一行が北伊勢を通過したルート上には、川原寺式直系の複弁八弁蓮華文軒丸瓦が出土した古代寺院跡があります。(複弁八弁蓮華文軒丸瓦→参照:智積廃寺の軒丸瓦
    1. 伊勢国河曲(かわわ)郡・・・大鹿(おおが)廃寺跡(鈴鹿市国分町)
    2.  〃  三重郡・・・智積(ちしゃく)廃寺跡(四日市市智積町)
    3.  〃  朝明(あさけ)郡・・・縄生(なお)廃寺跡(三重郡朝日町縄生)
    4.  〃  桑名郡・・・額田(ぬかだ)廃寺跡(桑名市額田)

なぜ、北伊勢に川原寺式直系の複弁八弁蓮華文軒丸瓦をもつ寺院跡があるのか?
           (主な参考文献:八賀晋著「天武天皇と白鳳寺院」『東海の神々をひらく』、『四日市市史第16巻』)
  • 概して、古代寺院の造立年代は、屋根に葺かれていた軒丸瓦が決め手になります。
  • 上記北伊勢の4ヶ寺に共通する川原寺式直系の複弁八弁蓮華文軒丸瓦から、寺院の成立年または補修時期、及び歴史的な背景に共通性があったと想定されます。
  • 一方、美濃や尾張地方にも同軒丸瓦をもつ寺院跡があり、その分布範囲が美濃中・西部と尾張西部に顕著に集中し、尚且つ『日本書紀』巻第28(「壬申記」)に名前が出る氏族との関連が強いことが大きな特徴です。
  • そうしたことから壬申の乱で、北伊勢における各郡の諸豪族の働きや、美濃や尾張の直接挙兵に関わった地方豪族たちの存在が推定されます。
  • ゆえにこれらの寺院は、天武天皇が壬申の乱における論功行賞として、身分的には叙位の形がおこなわれる一方、既存の寺にはさらなる援助と、行賞によって一定の地位を得た地方豪族の新造寺計画と実行に対して、中央から多くの援助のなかで、川原寺直系の複弁八弁蓮華文軒丸瓦を用いた寺院の建立が成された結果であると考えられています。
  • このように乱における北伊勢の三重・朝明・桑名の各郡家の置かれた状況は、天武天皇と郡司や豪族との密接な在り方を示唆しています。
    四日市市内で最古の仏教寺院遺跡である「智積廃寺」も、こうした歴史的背景のもとで、三重郡の智積地方を支配する豪族が、出自も名前も貢献度も不明ながら、乱の功績の証として天武政権からの援助で複弁八弁蓮華文軒瓦を用いて氏寺を完成させ、周辺地域に威厳を与えていたものと思われます。
  • 『日本書紀』や『続日本紀』に、天武・持統・文武朝廷から、壬申の乱の功臣への贈位や功田(功労者に与えた田)などが子や孫の世代まで賜与され、手厚い処遇があったことが記されています。(『続日本紀』大宝元年(701)七月二十一日の条 など)
  • 「壬申の乱と白鳳寺院」の関係については、1973年に三重大学八賀晋教授(当時)が論文発表される以前にも考古学者によって指摘されていました。(簡単な内容ですが、ご興味のある方はこちらへどうぞ
  • 額田廃寺と縄生廃寺の詳細は、外部相互リンクサイト 「桑名歴史案内 北勢の考古学」へどうぞ
(5)智積廃寺の“創建”と“廃絶”の時期
創建: 創建時期に用いられた瓦や塼仏(せんぶつ)参照:塼仏写真)の様式と、金堂が講堂に比べて小さい(面積で約1/2)ことから、700年前後(飛鳥時代末期から奈良時代前期)の創建と考えられています。
廃絶: 出土した瓦の大半が8世紀前後のもので、奈良時代後期の瓦は少量であることと、掘立柱の僧房が3回造営されていることなどから、奈良時代を通じて約100年間存続し、ほどなく廃絶したと推定されています。
(6)智積廃寺、ありし日の面影
発掘調査で条里制の遺構が発見されていることから、この辺りは口分田(水田)が広がる実り豊かな土地柄であったと推定されますが、当時の人々の住まいは茅葺きの竪穴住居が普通で、良くても茅か樹皮か板で葺いた掘立柱建物でした。智積の豪族は、おそらく近くの「土丹(どうたん)遺跡」(3章(3)参照)か 「武佐(むさ)遺跡」(註1)の一角に掘立柱住居を構え、ひときわ大きく高い行基葺の瓦屋根と、朱塗りの柱(3章(2)③参照)が美しい寺院を誇らしい気分で飽かず眺め、そしてムラの人々と共に、僧侶たちの読経の声や、朝夕鳴り響く妙なる半鐘の音に耳を傾けたことでしょう。 
【註1】 武佐遺跡は、近鉄桜駅北裏から東周辺の桜町字武佐に在った古墳時代末葉から室町時代の集落跡で、土師器、須恵器、灰釉陶器、山茶碗、土錐等が出土しました。
各地の古代寺院の発掘調査によって得られるデータによると、金堂や塔といった伽藍中枢部が整えられる一方で、僧侶の生活空間である僧房などの施設の発見例が乏しいこと、そのほかにも寺院の中には金堂だけのものや、短命に終わるものが多いことなども明らかなようです。(参考文献:菱田哲郎著『古代日本国家形成の考古学』)
そうした視点で「智積廃寺」をみると、「塔」は不明ですが、金堂、講堂、僧房を備え、しかも100年間存続したという発掘調査結果から、地方古代寺院の中でも優秀なクラスに入るようです。
『続日本紀』の716年(霊亀2)5月元正天皇の(みことのり)に、「粗末な寺を建て寺田(寺院の運営にあてる田)を賜るよう訴えるが、寺内には牛馬が群れ、イバラが繁茂し、仏像は埃をかぶり、経巻が風雨に曝されている。そこで数寺を合併して一つとすべきである」という意味の記述があることから、当時、税が免除される耕地を得る目的で寺院を建立した豪族がたくさんいたことが窺われます。 壬申の乱の行賞による援助で建立された智積廃寺はこうした寺とは一線を画しますが、それでも金箔の塼仏(せんぶつ)(3章(2)①参照)を張った壁が厳かで美しい金堂に仏像を安置して、孫や曾孫の代の8世紀末まで “仏教の法灯” を大切に守り続けたことは実に天晴れでした。

2章 智積廃寺の位置と発掘状況
(1)位置
三重県四日市市智積町字土丹(ちしゃくちょうあざどうたん)。 
三滝川と矢合川に挟まれた標高30mの沖積地ですが、地下3~4.7mのところに安定した第三紀の地盤があり、大氾濫の痕跡はみとめられず、たとえ冠水しても被害が少なく、寺院建立の条件に適っていました。 (『智積廃寺発掘調査報告書』)
智積廃寺・土丹遺跡周辺地図
金堂・講堂・僧房の中心軸が南北一直線上に並ぶ伽藍配置

(『智積廃寺・土丹遺跡』四日市市遺跡調査会(1991年発行)をもとに作成) 縮尺1/5,000
(2)伝承されていた智積廃寺
  • 往古からここには村人が「高塚さん」と呼んで畏敬する塚があり、ここの立木を伐ったり土を掘りったりすると必ず後で祟りがあると信じて、誰も寄り付かないようにしていました。
  • 1833年(天保4)に著された『勢陽五鈴遺響』に、「智積ノ名義ハ往時智積寺アリ、故ニ名ヲ廃ストイエドモ村名ハ存セリ 旧ハ知積寺村ト称ス 後ニ一字ヲ約シテ知積ト云ヘリ」と記し、智積寺という寺があったこと、そして智積村の名称の由来が記されています。
  • 1885年(明治18)、桑名浄土寺で「交友社博物会」が開催された時、小林兎酉次郎(とねじろう)氏が「三重郡智積村所掘得古瓦」を出展しています。(「交友会博物会広告」朝日町教育委員会蔵) この古瓦はまさしく智積廃寺の瓦です。(小林兎酉次郎氏は三重郡宿野村の人で、明治17年刊行の桜村と智積村の両地誌の測量・編集者であったため、当廃寺の古瓦の入手が可能でした)
  • 1953年(昭和28)、農道の敷土にするために「高塚」を掘ると、たくさんの瓦、塼仏二片、鬼瓦が出土し、付近に寺院跡があると確信されました。(参考:「中部日本新聞記事 昭和28年3月7日付」、「櫻村高塚發掘後記」『三重郷土会会誌1952-53』)
    昭和28年3月当時、智積土丹地内にある通称「高塚」は、高さ1間半(2.7m)、面積約1畝歩(約99㎡、30坪)のまんじゅう型の塚で、そこに拝殿が建てられ、樹齢約150年の椋の木が生え、周辺には土丹(ダン)(壇、昭和28年頃の呼称)明寺(みょうじ)、寺井、骨堂、弘法川、阿弥陀湯など仏教に関係する小字の地名がありました。
    「高塚」は元々村有地でしたが、1909年(明治42)「神社合祀」の際、民間に払下げられました。ちょうどその頃、智積村では若者が突然死したり、ある人は精神を病んだり、ある人は高塚の木を伐った後自宅が火事に遭うなど、村人の不幸が重なりました。偶然起った不幸でしたが、やがて“高塚さんの祟り”として語り伝えられました。
    そのためこの度の高塚の取壊しには、多くの村人が反対し、中には村八分にされても作業に加わりたくないという人もいました。

    (中部日本新聞記事 昭和28年3月7日付」
    しかし3月2日から取壊しが開始されると、塚の中央部分から塼仏二片、鬼瓦、多数の瓦が発見され、「大伽藍の跡か」と大きな反響が巻き起こりました。 そして高塚の土は農道の敷土に、原形をとどめない瓦片は敷石として利用され農道が造られました。(この農道は昭和42年11月以降実施された土地改良事業によって消滅)
(3) 発掘調査の経緯
  • 1966年(昭和41)頃、東名阪道路計画が具体的になり、路線が智積町を通過し、かつインターチェンジも造られると伝えられたため、三重大学歴史研究会OBと県立四日市中央工業高校考古学研究会OBが、「高塚」を中心に瓦片の散布状況を調べて寺域の範囲を確かめ、寺跡地を路線から除外されるべく要求文書を作成して四日市市教育委員会へ提出。 翌年、日本道路公団名古屋支社から路線が提示され、寺域の一部は路線にかかるが、寺跡は残ると判明。
  • 1967年(昭和42)年3月、桜地区土地改良事業組合より、圃場(ほじょう)整備事業計画が発表される。
    この事業が実施されると、地下に埋もれているとみられる智積廃寺の遺構は永久消滅すると予測されるも、諸般の事情で「遺跡保存」への道は閉ざされ、止む無く発掘調査をせざるを得なくなる。
  • 「智積廃寺第Ⅰ次調査」は、同年11月から翌年1月まで約40日間、四日市市教育委員会が主体となり、発掘責任者は三重大学教授服部貞蔵氏、指導員として奈良文化財研究所、調査は三重大学歴史研究会、四日市中央工高考古学研究会等によって実施。 
    その結果、金堂、講堂、僧房が南北一列に並ぶ伽藍配置の古代寺院と判明。しかし遺構の削平と攪乱がひどかったことと時間的制限もあり、塔跡は未発見で、かつ寺域の確定には至らず。
  • 「智積廃寺第Ⅱ次調査」は、1968年(昭和43)12月から翌年1月まで約40日間、日本道路公団名古屋支所の委託で三重県教育委員会が主体となり、調査指導者は南山大学人類学研究所・名古屋大学考古学研究室・三重大学歴史教室の各教授と奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査室部長、調査担当は三重県教育委員会社会教育課等によって、寺域の北西隅にあたる東名阪国道の道路敷地内で実施。 
    この調査で、寺域の北限と想定される溝跡一条が発見され、ほぼ寺域が判明。
    また、縄文時代晩期の土坑と土器、および寺院廃絶後の村落の建物跡、土坑、瓦類、土師器、須恵器などが多数検出されたため、後日、ここを「智積廃寺遺跡」と別けて「土丹遺跡」と名付けられる。
  • 1989年(平成元)、智積町地内の上水道管埋設工事に伴い、四日市教育委員会が主体となって、水道管を埋設する未舗装の市道内の幅1m、延長36mで細長いトレンチによる調査を、1期調査(7月に2週間)と2期調査(11月に4日間)に分けて実施。
    遺物は1期調査(東名阪道路の側道部分)においてのみ瓦類、土師器、灰釉陶器などが検出される。
3章 発掘調査結果   (参考文献:『智積廃寺発掘調査報告書』、『智積廃寺・土丹遺跡』)

(1)遺構
  1. 金堂講堂の跡を示す基壇の上面は削平され、礎石は残存せず、基壇化粧などは不明です。 
    金堂(本尊を安置する堂)・・・東西13.6m、南北11.4m、面積155㎡(47坪)
    講堂(僧侶が経典の講義や説教をする堂)・・・東西21.8m、南北15.8m、面積344㎡(104坪) 
    金堂が講堂に比べてかなり小さい。
    【註】 基壇とは、瓦葺寺院など重い建物の基礎部分を堅固にするため、土や粘土を少しずつ盛って突き固めた壇のことで、この工法を「版築」という。
  2. 僧房(僧侶が起居する家屋)の跡を示す掘立柱建物は、後年に同規模で北へ位置をずらして2度建替えられています。
  3. 講堂の基壇の東西両端から左右に伸びる柱穴は、回廊の足場穴と考えられています。
  4. 金堂から南へ砂礫敷きの参道と、寺域を示す側溝などが検出されましたが、中門は確認されませんでした。
  5. 南から北へ向かって、参道、金堂、講堂、僧房の中心軸が一直線に並び、講堂から門まで回廊で囲む形式の寺院が想定されますが、南を限る道から金堂への参道に、「(釈迦の遺骨(仏舎利)を安置する聖なる建築物)」の遺構が発見されませんでした。したがって伽藍配置は四天王寺式ではなく、 「塔」を右か左に備える川原寺式か法隆寺式、もしくは左右に2塔を備える薬師寺式などが推測されています。
  6. 寺域の規模は南北約120m、東西もほぼ同規模であったと想定され、壮大な伽藍が推定されます。
  7. この辺りは、三滝川沿い条里制の最も奥にあたり、発掘調査でも一部畦畔に条理の遺構の残存が認められました。(参考:智積町の矢合橋近くに「八ノ坪」という条里制の坪の地名が小字名として残っている)
(2)遺物
  • 遺跡が著しく破壊されている割には、大量の軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦が出土しました。
         (特に、金堂の基壇の周囲と、講堂の北側の土壙から多量の瓦が出土)
  • 熨斗瓦(のしがわら)、鬼瓦片、鴟尾(しび)片、塼仏(せんぶつ)、須恵器、土師器、鉄鏃(てつぞく)、鉄釘なども出土。
塼仏(せんぶつ)
  • 塼仏とは、凹の型に粘土を押し当て、高熱で焼いて作られた仏像のことで、おもに7世紀中頃から8世紀前半にかけて多数製作され、その用途は、壁一面に釘で固定して荘厳用とする場合と、厨子などに納めて礼拝用にする場合が考えられています。
  • 1953年(昭和28)、「高塚さん」を農道建設のため削平した際、塼仏の三尊形式と小形の独尊形式の塼仏がそれぞれ一点ずつ発見されました。
      塼仏(せんぶつ)                                (画像出典:『よみがえる大津京』大津歴史博物館編)
    三尊形式 三尊塼仏
    独尊形式(右) 独尊塼仏
    椅子に腰掛けた半跏踏下(はんかふみさげ)の形姿は如来形。
    左右脇侍は菩薩形立像の三尊形式。
    塼仏としては類例が無く珍しい。奈良薬師寺金堂薬師如来の台座の意匠に近い。
    仏の身体の部分に金箔が残る。
    現高8㎝、幅8.7㎝、厚さ1.9㎝。
    胎土は緻密で焼成も良好。色調は灰黒色。
    円形の頭光を負い、三重の蓮華座にのり、両手を腹前にて組み合わせ足を組んで座る形で、衣文を省略している。
    金箔は表面全体に施されている。
    現高3.5㎝、幅2.2㎝、厚さ1.0㎝。
    胎土、焼成ともに良好。色調は灰黒色。
    小形でもあるので、千体仏形の一体と考えられる。
    之よりもやや大きいが、額田廃寺から類似例が出土しています。
    (四日市市立博物館に常設展示されています)
古代寺院の屋根は、「丸瓦」と「平瓦」を主とした瓦葺で、特に
軒先だけに置かれる瓦を「軒丸瓦」と「軒平瓦」と呼ばれます。

     
(軒丸瓦)               (軒平瓦)

「古代瓦の葺き方」(写真撮影:2012年11月8日)
(A) 軒丸瓦(のきまるがわら)
  1. 軒丸瓦の文様は、瓦の年代や、同じ瓦が使われた寺院間の文化的・政治的なつながりを決定するための手がかりになることが極めて多いといえます。
  2. 軒先に葺かれる軒丸瓦は、蓮華文(れんげもん)などの文様が彫られた「木型」((はん))に粘土を押しつけて作るので、その文様から同じ木型(范)で作られたものかどうかが分かり、作製年代もほぼ推定できます。
  3. 蓮華文は、蓮の花を真上から見た形をデザインしたもので、瓦の中央に「中房(ちゅうぼう)」があり、そこに蓮の実をデザインした「蓮子(れんし)」が配置されています。
    飛鳥の川原寺に用いられた軒丸瓦は、外縁は面違鋸歯文(めんたがいきょしもん)で、中房の各々の蓮子に外周がある複弁八弁蓮華文の軒丸瓦が典型で、四重弧文軒平瓦が組み合わせです。
    右の図版は智積廃寺出土の複弁八弁蓮華文軒丸瓦です。この軒丸瓦には、外縁が素縁で鋸歯文が無く、中房の蓮子に外周もありません。つまり、明らかに川原寺式軒丸瓦の祖型からの退化がみられますが、四重弧文軒平瓦が多数出土した状況からも、川原寺式軒丸瓦の流れを汲むと考えられています。
  4. 智積廃寺跡からは、大きく分けて次の4種類の軒丸瓦が出土しました。
    1. 蓮華文が複弁で八弁、外縁は素縁の軒丸瓦・・・Ⅲ類-AとⅢ類-Bの2種 1.複弁八弁素縁蓮華文軒丸瓦
    2. 蓮華文が単弁で六弁の軒丸瓦・・・Ⅰ類-A、B、Cの3種 2.単弁六弁蓮華文軒丸瓦
    3. 蓮華文が単弁で八弁の軒丸瓦・・・Ⅱ類・・・1点のみ (3.単弁八弁素縁蓮華文軒丸瓦
    4. 蓮華文が複弁で、外区に球文帯がある軒丸瓦・・・Ⅳ類・・・1点のみ4.珠文縁複弁11弁蓮華文軒丸瓦
 智積廃寺跡から出土した複弁八弁蓮華文(ふくべんはちべんれんげもん)軒丸瓦は二種類あり、合わせて全軒丸瓦の62%を占めました。 
                                            (瓦の写真出典:『三重県の古瓦』)
1.複弁八弁素縁蓮華文軒丸瓦 Ⅲ類-A

(四日市市立博物館に常設展示されています)
1.複弁八弁素縁蓮華文軒丸瓦 Ⅲ類-B
飛鳥寺の修理時に用いられた軒丸瓦(天武朝期に位置付けられる飛鳥寺ⅩⅣ型式)に類似する。
(註: 飛鳥寺は680年(天武9)に国の大寺として官寺に列せられる。このころ伽藍の整備と瓦の差し替え修理が始まったとされる。つまり飛鳥寺の修理期間は680年以降、710年平城遷都以前と考えられる)
創建期の瓦と考えられる。
軒丸瓦の中で出土点数が最多の25ヶ、35.2%
◇直径17.4㎝、中房径6.6㎝、蓮子は1+4+8
◇組み合う軒平瓦は四重弧文。
◇直径18.6㎝、中房は7.7cmと大きく、蓮子は1+5+9。
◇外縁は素縁、
◇平城京の元興寺等に類をもとめられる。
◇出土数は19ヶ、26.8%、Ⅲ類-Aに次いで多い。
◇瓦当の厚さ4㎝、2.2㎝の二種ある。
◇組み合う軒平瓦は四重弧文。
2.単弁六弁蓮華文軒丸瓦
 Ⅰ類-A
3.単弁八弁素縁蓮華文軒丸瓦
Ⅱ類
4.珠文縁複弁11弁蓮華文軒丸瓦
Ⅳ類

◇出土数は11ヶ、総軒丸瓦の15.5%。
◇直径17.4㎝
創建瓦に近いと考えられる。
◇組み合う軒平瓦は四重弧文。
類似瓦が他に二種あり、単弁6弁瓦は総軒丸瓦の約33.8%。
◇外縁は素縁で、高い中房に1+4の蓮子。
◇完全なものは一点だけである。
◇直径17.8㎝
◇外縁は素縁で、中房が大きく24の蓮子を雑然と配す。
◇弁は幅広く中央に隆起線がある。
◇間弁は単純な一本の線で表す。

(四日市市立博物館に常設展示されています)
◇2点発見された。
◇中房と弁区の間に、一条の圏線を持ち、その中に蓮子を1+8+12と配す。
◇12葉の複弁は小さい。
◇外周部分は圏線で内縁と外縁に分けられ、内縁には珠文が配され、外縁は素文で高くなっている。
◇この型式の瓦は他の型式の瓦より後出のもので、後の修理瓦(差し替え瓦)と考えられる。
(B) 軒平瓦 (のきひらがわら)
  複弁八弁軒丸瓦と組み合わされた四重弧文軒平瓦と、その他に(へら)描き文軒平瓦が2種類出土しました。
四重弧文(よんじゅうこもん)軒平瓦
◇出土数90、総軒平瓦の95%

◇この軒平瓦に組み合う軒丸瓦は、
 単弁六弁蓮華文軒丸瓦Ⅰ類-A と
 複弁八弁蓮華文軒丸瓦Ⅲ類-AⅢ類-B です。

(瓦の写真出典:『三重県の古瓦』)
(C) その他の瓦
1. 鬼瓦                                
 1953年(昭和28)、農道建設のため「高塚」を削平した際に出土したものです。
 断片が6片あるが全形は推測不可であるものの、目が顔より4㎝位突き出し、頬も出っ張り怪異な容貌が窺えます。
 鬼瓦片の裏面に「刑部(おさかべ)郷」の墨書を持つものが検出されています。
(鬼瓦)
2. 丸瓦 
 出土した丸瓦の殆どが行基葺(ぎょうきぶ)き式でした。
行基葺丸瓦は、胴体が広端部から狭端部に向かって次第に細くなっていて、屋根に葺くと重なる部分で瓦の厚味分が飛び出た形になります。 参考図→
 【参考写真】 奈良市元興寺(がんごうじ)の行基葺屋根 (写真撮影:2012年11月8日)
 元興寺は飛鳥の法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともない移転した寺で、現在の本堂(極楽堂)と禅室の屋根の一部に、飛鳥寺から運ばれた赤褐色系の濃淡が印象的な丸瓦と平瓦が数千枚「行基葺」で使用されています。
 昭和の解体修理調査の際、奈良時代創建を遡る多数の瓦が見出され、飛鳥寺に見られる各種の瓦が14%、飛鳥寺創建時の瓦が4%あったと報告されています。(参考:『元興寺の古瓦』元興寺文化財研究所発行)
智積廃寺は上記写真のように、古代寺院の特徴である行基葺きの屋根で、赤褐系の濃淡が美しかったであろうと出土した軒丸瓦の色から想像されます。
瓦の色が微妙に違う理由は、主に瓦の焼き方の違いにあり、窯に送る空気量が多いと(粘土内の鉄を十分酸化させるため)赤味を帯びた瓦となり、窯に送る空気を最終段階で遮断する方法で焼くと(鉄の酸化が進まず)灰色の瓦になります。
なお赤味を帯びた瓦の焼き方は須恵器の製作方法に近いため、須恵器の窯で焼成されることがあり、智積廃寺の軒丸瓦以外の瓦類も、瓦陶兼業窯と呼ばれる北浦古窯跡で焼かれたことが解っています。しかし、肝心の軒丸瓦は何処で焼かれたのか不明です。
3. 平瓦  
  出土した平瓦のなかに凸面に朱線が残存しているものがあり、軒瓦として使用されていたことが分かります。何故ならば、朱色の線は、瓦を受ける木材・茅負(かやおい)に朱が塗ってあったため、瓦に朱が付いたと理解されるからです。 (寺院建立の初期には、平瓦を二枚重ねて軒平瓦の代用とされました。しかしその後軒平瓦の使用が一般的になっても、修理の際には平瓦で葺き替えられることがよくありました)
朱線の付いた平瓦(想像図)

「軒平瓦」の代用として、「平瓦」を右図のように
朱塗りの木材・茅負に載せたので朱線が付いた。
【参考写真】茅負かやおい。横架材と軒平瓦
茅負に軒平瓦が当たる部分を凹型に削り合わせて載せる。

(撮影:2010年10月20日 特別史跡平城宮跡にて)
“朱線が残存する平瓦”が出土したことで、古代寺院の大きな特徴の一つ“朱塗りの柱”は智積廃寺にも当てはまることが証明されました。

(3) 土丹(どうたん)遺跡について  (四日市市智積町字土丹)
  土丹遺跡の位置は、「智積廃寺・土丹遺跡周辺地図」をご参照ください。
  • 1968年(昭和43)12月~69年(昭和44)1月にかけて約40日間、智積廃寺北の部分が発掘調査され、縄文時代及び平安時代から鎌倉時代にかけての集落跡と検出されました。とりわけ、沖積低地に立地する縄文遺跡としては四日市市内唯一のもので、「縄文人の低地部への進出」という点で重要な遺跡と考えられています。
  • 遺構は、竪穴住居跡7棟(平安時代6棟、鎌倉時代1棟)、掘立柱建物跡(平安時代1棟)、土坑3ヶ所、溝跡、柵列が検出され、集落が営まれていたことが分かりました。(土坑:ある程度の大きさの掘り込み。用途不明・落とし穴やお墓や貯蔵穴など)
    この調査で、寺域の北限と想定される溝跡一条が発見され、ほぼ寺域が判明。
  • 縄文晩期の土坑1ヶ所とその埋土中から縄文晩期の突帯文土器(東海地方における馬見塚式に比定される甕)が検出されました。
  • 寺院廃絶以降集落が営まれたことを示す平安時代から鎌倉時代中期の土器類、かまどの施設に用いられたと思われる丸瓦片や平瓦片などが検出されました。
    土器類は、土師器(はじき)、須恵器、灰釉(かいゆう)陶器、白磁椀、山茶椀(ほとんどのものにうす緑の釉がみられる)、杯、皿(内側にうすい緑色の釉がみられるものもある)、鉢、(かめ)、鍋((こしき))、壷など、完形のものは少なくほとんど破片でした。
  • 鎌倉時代の多数の古文書によって、平安後期以降智積地域を中心とした智積御厨が形成されたことは明らかですが、今回の発掘調査で、平安時代から鎌倉時代中期頃の集落跡から出土した“多数の尾張の猿投窯製品知多古窯製品宋磁2点”は、寺院廃絶後に形成された智積御厨の荘園経営に基づく商業流通機構の中で搬入されたものと考えられています。智積御厨の文献資料では空白であった部分を、考古遺物が補完したことは大きな成果でした。
(4)智積廃寺の瓦を焼いた場所について
  智積廃寺の瓦を焼いた場所は、廃寺跡から北東約1.3kmの三滝川対岸の生桑(いくわ)山丘陵地西斜面に位置する北浦古窯(きたうらこよう)跡群」(四日市市寺方町字若宮)であると、以下の理由で推定されています。
  • 智積廃寺や土丹遺跡の周辺にある奈良時代の窯跡は、北浦古窯跡群だけである。
  • 1970年(昭和45)に発掘調査された際、窯跡は2基存在したがそのうち2号窯の灰原から、智積廃寺跡から検出されものと同じ重弧文軒平瓦・平瓦・丸瓦や塼、および7世紀末の須恵器が出土した。いわゆる瓦陶兼業窯で、操業年代は7世紀末頃と想定される。但し、軒丸瓦は全く出土しなかったが、平瓦凸面に「大得」と判読できるヘラ書き文字のあるものが一点出土している。
 ゆえに、地理的・時代的観点から智積廃寺の瓦は「北浦古窯跡群」で生産された可能性が高いと考えられています。

                                                               (文責: 永瀧 洋子)

参考資料:『智積廃寺発掘調査報告書』(四日市市教育委員会1968年発行) 、『智積廃寺・土丹遺跡』(四日市市遺跡調査会1991年発行)、『三重県の古瓦』(三重県の古瓦刊行会)、『四日市市史第3巻、第16巻』、『よみがえる大津京』(大津歴史博物館)、仏像東漸』(四日市市立博物館)『飛鳥・藤原京展』(奈良文化財研究所)『縄生廃寺跡発掘調査報告』、『縄生廃寺跡範囲確認調査報告Ⅰ』(朝日町教育委員会)、「天武天皇と白鳳寺院」『東海の神々をひらく』・「壬申の乱と古代寺院」『日本古代史新講』(八賀晋著)、『古代日本国家形成の考古学』(菱田哲雄著)、『壬申の乱』(倉本一宏著)、『飛鳥白鳳の古瓦』(奈良国立博物館編)、『日本の古代瓦』、『古代尾張における寺院造営』(森郁夫著)、『日本の美術NO.66古代の瓦』(稲垣晋也編)、『元興寺の古瓦』元興寺文化財研究所発行、『全現代語訳 日本書紀(下)』・『全現代語訳 続日本紀(上)』(宇治谷孟著)、「中部日本新聞 昭和28年3月7日」、「櫻村高塚發掘後記」『三重郷土会会誌1952-53』(田中安一著)、(『四日市の文化財』四日市市立博物館発行)、『東名阪道路埋蔵文化財調査報告』(日本道路公団名古屋支所・三重県教育委員会編)