三重県四日市市桜地区の「境塚」観察記録
  • 江戸時代、「藩」と「藩」との境界線上に目印として土盛りの「境塚」が築かれたことがありました。

  • しかし当地では、「三つの村落の”田畑”の境界」を明確にするため、1773年(享保18年)に「境塚」が築かれました。『1733年(享保18)作『佐倉村・桜一色村・智積村山野論立会絵図写』にリンク)

    • その「境塚」が、今も残っていると先輩郷土家にお聞きして、現状の一部を観察してきました。
      • 観察記録日・・・2008年3月26日(水曜日)
        「境塚」は予想外の大きさでした。この大きさだからこそ、その後の揉め事を防ぐことができたのだと納得しました。(尚、私有地のため詳細省略)
        足見田川付近の「境塚」観察記録  (撮影:2008年3月26日)
         境塚
            

         境塚の近景 
            
        • 大量の石と土で盛り固められ、細い溝と畔がある。
        • 高さ・・・約1.8メートル
        • この付近で農作業中の男性にお聞きしました。
          「昔、足見川が氾濫して、石がゴロゴロと散乱していたので、皆で集めて「盛土」としたと聞いています。事情は知らないが、この辺は桜町の地所で、ここより南方は水沢町東畑です。”境塚”という名称は、この辺では誰も知らないと思う。」
          上掲写真の「境塚」から見た風景
             
        • 茶畑の後方の台地も、ここと同じ”モノ”(境塚)と教えて頂きました。
          右手遠方の「境塚」 左手の小屋や軽トラが見える高台も「境塚」
             
        • 写真撮影中に、また別の年配男性が通りがかったのでお話を伺いました。
          「この土地は桜の地所だけれど、この近所のお爺さんが”守り(もり)”をしていた。だけど、そのお爺さんが最近死んだので、今では誰も詳しい事情は知らないと思う。 この付近の者は、誰も”塚”とも”境塚”とも呼ばないし、特に呼び名は無いよ。」と、ご親切に教えてくださいました。 
                                      以上 

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