桜の史跡NO.18
    Q 雨池用水と大師堂  
     
      「桜の史跡説明板NO.18へ」   「桜の史跡地図」Q

目     次
 1.雨池用水
   @日本の人口推移
   A智積村と櫻村の溜池
   B雨池用水 水路図
   C雨池用水の受益田
   D明治中期「濃尾地震」と「連続台風」襲来
   E雨池用水の現況
   F「雨池」の守り仏
 
 2.大師堂
   @「弘法大師堂」について
   A智積町の「大師堂」
   B「大師堂」の由来  

1. 雨池用水(場所・四日市市智積町一生吹山及び東麓)
@日本の人口推移
  • 【表ー1】 
     縄文晩期から現代まで「日本の人口推移」(出典・『人口から読む日本の歴史』鬼頭宏著)
    時   代 人口(単位:千人)
    備     考
    縄文晩期(2900年前) 75.8
    弥生時代(1800年前) 594.9
    奈良時代 (725年) 4512.2
    平安時代初期(800年) 5506.2
    平安時代末期(1150年) 6836.9
    江戸時代 慶長5(1600)年 12273.0 1603年(慶長8年)江戸幕府成立
    江戸時代 享保6(1721)年 31278.5 1721年、将軍徳川吉宗、全国人口調査。幕府は全国の諸領に布達を出し領内の人口を報告させた。
    ★享保の大飢饉:享保17(1732)年
    江戸時代 天明6 (1786)年 30103.8 ★天明の大飢饉:天明2(1782)年〜天明7(1787)年 
    江戸時代天保5(1834)年 32476.7 ★天保の大飢饉:天保4(1833)年〜天保10(1839)年
    明治6年(1873年)
    33300.7  明治維新
    昭和25年(1950年) 83898.4   終戦後
    平成7年(1995年) 125570.2

  1. 平安時代末期以降の荘園・公領制度下では、有力農民である名主の下に、下人など多くの隷属農民が属していましたが、16世紀末に実施された「太閤検地」の「一地一作人制」、すなわち耕地一筆ごとに耕作者を検地帳に記載して年貢負担者が確定されました。
    • これによって、名主層の中間搾取が排除されました。即ち、荘園制崩壊。
    • この太閤検地以来、小農の自立を促し家族単位で耕作を行い、農地開拓にも意欲的に取り組み、農業生産力が増加したと考えられています。

  2. 江戸幕府開府から約100年間に、日本の人口は大幅に増え3,100万人前後に達しました。

  3. しかし、1800年を中心とする一世紀は、日本のみならずヨーロッパにおいても気候が極度に寒冷化した世界的な「小氷期」でした。
    • この時期、世界各地で火山活動が記録されている。火山灰が大気層に達し地球全体を覆うように広がる。
      • 1707年(宝永4)富士山大噴火で12日間にわたって火山灰(ガラス質の岩破片)が降り飢饉発生。
        (噴火の49日前に「宝永地震」が起きた。震源は南海トラフ。マグニチュード8.6〜9.0と推定。富士山東麓から九十九里浜沖に至る広大な範囲に火山灰の雨が降った) (出典・『絵図で読み解く天災の日本史』磯田道史著)
      • 1783年(天明3)、浅間山噴火で発生した火砕流で山麓一帯の家屋が焼き払われ、浅間山北麓から利根川流域を中心とする関東平野に甚大な被害をもたらした。また上空に吹き上げられた火山灰が日射を遮って、その後数年間気候も寒くなった。 (「火山灰」はガラス質の岩の破片。目の角膜や喉の粘膜を傷つけやすい))
      • 1815年、インドネシアのタンボラ火山の噴火は、大気中に大量の火山灰を噴出し、日射を遮り、翌年は「夏の無い年」として記録された。
    • 享保の凶作(1732年)は、冷夏のためウンカを中心とする害虫大発生。被害は中国・四国・九州地方の西日本を中心に現れました。
    • 天明の凶作(1753〜63年、1782〜87年)と天保の凶作(1833〜36)は、いずれも夏季の気温低下による冷害が主な原因
    日本で気候寒冷化の影響を強く受けたのは、主に東北地方の太平洋側と北関東でした。それに比して元々暖かい西南日本では被害は小さかったとされています。

A智積村と桜村の溜池
  1. 智積村・佐倉村・桜一色村に於ける”江戸期1800年前後の「小氷期」の様相”について、公的文書及び伝承も無く、当時の先人の苦労を伺い知ることはできません。
    しかし、桜地区内の溜池(ためいけ)築造年代から、「小氷期」に於ける溜池受益者の結束による熱い挑戦の軌跡をたどることができます。
    【表ー2】1884年(明治17)調査時の智積村と櫻村の溜池
          (出典:『明治17年調 伊勢国三重郡智積村地誌』『同櫻村地誌』)
    溜池の名称 築造年 資    料




    下雨池
    通称・雨池
     (あまいけ)


    築造年不明
    (推定1733年(享保18年)以前)

    面積・・・・約2645u(800坪)
    水掛田・・・反別6町7反1畝5歩(約6.65ha)
    築造年の根拠史料・・・1733年(享保18)作『佐倉村・桜一色村・智積村山野論立会絵図写』に、一生吹山と智積村内山の谷間に”池と水田記号”が描かれている。【参照:絵図ー1】
    祭祀・・・・石仏「不動明王」 【参照:「鵯岡白滝不動」】
    新雨池
    通称・瓢箪池(ひょうたんいけ)

    1818年
    (文政元)





    面積・・・・1129u(342坪)
    水掛田・・・不詳
    築造年・・・1818年(文政元年)
    雨池」の約120m山奥の窪地に築造され、その形状から「瓢箪池」と愛称された。【参照:絵図ー2】
    祭祀・・・・石仏【参照:「大門山(川島町)と瓢箪池」】


    大溜
    通称・池の溜(いけのため)
    1818年
    (文政元)


    面積・・・・約7544u(2,282坪)
    水掛田・・・字天王平の畑地5町歩(5ha)を水田化した。
    築造年・・・1818年(文政元年)
    祭祀・・・・不明
    大谷池
    通称・弁天池(べんてんいけ)
    1849年
    (嘉永2)
    面積・・・・約3340u(1010坪)
    水掛田・・・不詳
    築造年・・・1849年(嘉永2)領主に出願後、約2年後に落成。
    祭祀・・・・「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)別名・弁財天」【参照:「桜の史跡NO.2弁天様と山の神」】


  2. 下記の絵図は、1733年(享保18)8月に作成された『佐倉村・桜一色村・智積村山野論立会絵図写』のうち争論部分です。
    1. この絵図が作成された経緯
      江戸期の人口増加に伴い、従来の慣習で曖昧であった山地、畑地など各々の境界を明確に仕切り直す必要が生じました。それは享保18年(1733年)8月、水沢との境界近くを走る「草刈道」(現・県道752−753号線・茶屋町湯の山停車場線、「四日市スポーツランド」、「県環境学習センター」への道)の道沿いで、佐倉村・櫻一色村・智積村の三村で境界争いが起こった事に起因します。
      そこで、佐倉村、櫻一色村、智積村の三村の庄屋・年寄・惣百姓代の計15名が、現地を立会・測量・検分して、主要個所に「境塚」を築き、絵図を作成して各々署名捺印後、厳重に文書保管されました。
    2. 同絵図には「智積村内山」と「一生吹山」の谷間(低地)に「池(雨池)」が描かれいます。
       この「池(雨池)」からの用水路が、「茶々川」に合流する様子が解ります。

    3. また「池(雨池)」の直下から「智積村田地の記号()」が描かれていることから、傾斜地に「棚田」がつくられていたことが解ります。
      【棚田のメリットとデメリット】
      • 平野の水田より風通しが良く、害虫が発生しにくい。
      • 棚田の稲は水中深く根が伸びて、地中のミネラルを吸収するので美味しいお米ができる。
      • 棚田は、山林に降った雨を一部を留めて「小さな治水ダム」の役目を果たす。
      • デメリット・・・耕作効率が悪い。山の斜面は台風の影響を受けやすい。

      【絵図―1】1733年(享保18)作『佐倉村・桜一色村・智積村山野論立会絵図写』
      (同絵図の右3分の2を切り抜き、文字等挿入しました。加工責任・永瀧)   
        



  3. 明治十八年伊勢國三重郡智積村地誌付属圖』
    【絵図ー2】『明治十八年伊勢國三重郡智積村地誌付属圖』
    (1733年(享保18)以前に開削された雨池と字横谷、1818年(文政元)築造の瓢箪池等)

               (加工作成年月日・2021.12 責任・永瀧)


B雨池用水 水路図

  • (桜郷土史研究会元会長中根修様作成の『雨池用水 水路図』を一部加工・加筆させて頂きました。責任・永瀧)

C雨池用水の受益田
  1. 現在の「国土地理院地図」で「標高」をみると、
    「雨池」の池畔の標高は57m、直ぐ下の用水出口は47m、以下標高は徐々に40〜39mまで下がり、「ゆうゆう会館」で32.7m、智積町矢合川右岸の水田は30mです。

  2. 上掲の「A智積村・櫻村の溜池」の項の2−Vで既述したように、「雨池」の直下から山麓の水田へとずっと同じ「水田の記号」が続くことから、山間の傾斜地に”棚田”があったことが解ります。

  3. 1818年(文政元年)に「瓢箪池」が「雨池」より約120m山奥の窪地に築造されました。(【表ー2】)
    こうして智積村の人々は、更なる米の増産を図って「瓢箪池」と「雨池」を「用水路」で繋ぎ、従来より更に広範囲の水田を灌漑することを可能にしました。
    • 雨池用水路の整備(参照図・・・B『雨池用水 水路図』
      「瓢箪池」と「雨池」を繋いだ「用水路」の灌漑水は、先ず西斜面の耕地を灌漑しました。
      山麓の東側へは、雨池より用水路を通って『大師堂』の背後まで流れて、そこで勾配を利用して掘削された約70メートルの『マンボ』を通過した後、山の輪郭沿いにくねくね屈折した用水路を巡って、「メダカの学校」のある字初瀬や、字大谷方面へ流れながら、途中の山の稜線沿いの水田を灌漑し、それから東方の高角境の水田も灌漑しました。
      マンボの解説は、「桜町西区のマンボについて」の「2.マンボの基礎知識」をご参照下さい)
    • 雨池用水路のユホリ(維持・保守管理)
      「雨池用水」の水を満遍なく全ての水田に行き渡るようにするため、用水路やマンボの掃除や補修(これを智積ではユホリ、ゆ掘りと言い慣わした)は必須作業で、年に一回「雨池用水」の受益者が総出で補修・掃除を行いました。

  4. 「安政の大地震」
    • 1854年6月から翌55年までの一年半に発生した4つの巨大地震の総称。
      1854年6月15日の「安政伊賀地震」、同年11月4日の「安政東海地震」、その翌日の四国沖を震源とする「安政南海地震」、翌年10月2日の江戸直下を震源とした「安政江戸地震」をいう。
    • 当地の被害状況
      1854年(嘉永7)6月14朝、地震が近畿一帯を襲った「安政伊賀地震」による被害状況。
      智積村・・・「西勝寺」の本堂倒壊。「延福寺」の堂宇が倒壊。
      櫻一色村・・「安正寺」の本堂と表門が倒壊。
      「雨池用水」がある字横谷周辺の被害不明。
    • これより約30年後の1885年(明治18年)に、【絵図ー2】『明治十八年伊勢國三重郡智積村地誌付属圖』が描かれる。

D明治中期「濃尾地震」と「連続台風」襲来
  1. 1891年(明治24)10月28日、濃尾地震
    岐阜県本巣郡根尾谷付近を震央とするマグニチュード8.0という内陸地震としては最大規模の地震。
    濃尾平野一帯が甚大な被害を受ける。四日市に於いても多くの被害。
    伊勢新聞の記事に、「三重紡績の煙突が折れ墜落、四日市尋常小学校では、運動場地面亀裂し泥土を噴出、校内の堀貫井戸では従来に比し、数倍の水を噴出・・・」とあります。

  2. 1896年(明治29)8月30日、同年9月11日、台風による大災害発生
    我が国の災害史上、非常に稀(まれ)な大災害
    わずか10日余りの間に、二つの台風が紀伊半島に上陸、濃尾平野に入り名古屋付近を北東へ進む。
    伊勢湾の高潮による損害が顕著。
    はじめの台風で、塩浜村の海岸堤防が激浪のため決壊。
    二回目の台風では、河原田村の鈴鹿川、内部川の合流点大門が大破したことにより、浸水が5日間に及んだこと、水稲の被害が特に甚だしかったと記録されている。
    (出典・「四日市市における過去の風水害事例」『三重県災害史』亀山測候所編、昭和30年5月1日発行

  3. 当地の被害状況とその後
    1. 1891年の濃尾地震で「雨池」と谷間の棚田は少なからず被害を被り、その5年後の1896年には、連続台風で”瓢箪池”と”雨池”がある「字雨池」と「字横谷」の山間部は、大量の雨水と土砂や雑木などが傾斜地を流れ落ち、山麓の水田も大きな被害を受けたと推測されます。(この被害のヒントは「鵯岡白滝不動」のページの「桜の史跡説明板」にありました)
    2. 同時に、「字横谷」の東の「字初瀬」と「字小竜谷(あざころたに)」の水田や畑も被害を受けたと考えられます。
    3. その後、人々の懸命の努力で「雨池用水路」は元通りに復旧されました。
    4. 一生吹山の山間の耕作地(字横谷、字初瀬、字小竜谷)は、1931年(昭和6)の「満州事変」から1945年(昭和20)の太平洋戦争までの戦中・戦後の食糧難を大いに支えたことと推測されます。
    5. 高度経済成長期(1954年(昭和29)12月から1973年(昭和48)11月)以降、「字横谷」と「字小竜谷」では植林が進められました。
    6. 「字初瀬(はつせ)」の休耕田は、1999年(平成11)に智積町の有志によって「初瀬ビオトープの谷・メダカの学校」が開校されました。

E雨池用水の現況
  1. 1967年(昭和42)以降、桜地区で土地改良事業が実施され、それと並行して三重用水の給水設備も整備されたので、用水料を負担すれば、高齢者でもバルブをひねって簡単に自分の田んぼへ水を入れることができる便利な世の中になりました。
  2. こうして、かつては溜池の恩恵を受けた雨池用水系の水田にも近代的灌漑設備が完備されました。
    その結果、溜池は不要となり、水路は埋もれ、マンボも崩れ、最早昔の雨池用水路を確認することも困難となりました。
  3. 平成20(2009)年現在、「瓢箪池」は枯れて灌木が生える湿地となり、「雨池」は今なお水を湛えていますが、農業用溜池としての役目は終了しています。

F雨池用水の「守り仏」
  • 江戸時代、「雨池」が完成した時、雨池用水受益者の方々が「雨池の水が絶えることなく、永久に豊かな水を湛える池でありますように」と願いを込めて、守り仏として「不動明王像」が祭祀されました。
    D「明治中期濃尾地震と連続台風襲来」では、大きな被害を被り「不動明王像」は行方不明となっていましたが、1931年(昭和6)、智積の人が「不動明王像」を発見しました。
    かつて「雨池」の恩恵を受けた智積の人々は、「不動明王像」を祀る「お堂」を建て「鵯岡(ひよどりがおか)白滝不動」と名付けて、以後丁重に祭祀されています。「鵯岡白滝不動」のページへ



2. 大師堂(場所・四日市市智積町字円上田 一生吹山登山道入口)

@「弘法大師堂」について
  • 平安初期の僧で「弘法大師」として知られる真言宗の開祖空海は、821年(弘仁12)に現在の香川県沖多度郡満濃町の「満濃池」をはじめとして、あちこちに灌漑用溜池を造り、水不足に悩む農民を救いました。
    このことから、全国各地の溜池や掘り抜き井戸などの「守り仏」として「弘法大師像」が祀られ、そのお堂を「大師堂」と呼ばれています。

A智積町の「大師堂」
  • 【大師堂と掘り抜き井戸跡】
    • 場所:四日市市智積町字円上田・・・・・一生吹山への登り口付近
    • 本尊:弘法大師坐像。高さ30cmの石像。
「大師堂」・・・一生吹山登山道入り口
名阪自動車道の西
「掘り抜き井戸跡」・・・大師堂に向かって右側
「大師堂 内観」 石製の「弘法大師坐像」
             (撮影・2013.11.21)

B「大師堂」の由来
  1. 「大師堂」の前方一帯に広がる字・円上田(えんじょうでん)の水田は、従来、一生吹山の西斜面を流れきて茶々川へ注ぐ小川と、この辺りの山から浸み出す自然水を灌漑水としていましたが、年を追うごとに水不足となったので、「掘り抜き井戸」を掘削して地下水を汲み上げ補水しました。

    • そして、この辺り一帯の耕作者の代表・伊藤才次郎様が、小さな祠(ほこら)を建て、石製の弘法大師坐像を安置して、「この井戸が永久に豊富な水を湛えますように」と祈願しました。

    • その時、この井戸を利用して水飲み場もつくられたので、農作業の合間に口を潤したり、一生吹山への参詣者の憩いの水飲み場ともなっていました。

  2. しかし、その後、この円上田の西隣の字大竜(だいりょう)にも「掘り抜き井戸」が掘られました。
    すると、ここ「円上田」の井戸の水量が減少し、更に1968年(昭和43)頃から始まった名阪自動車道の建設工事の影響を受けて、水は全く涸れてしまい、「掘り抜き井戸の跡」を残すばかりとなってしまいました。 

  3. しかし、幸いなことに、昭和42(1967)年以降、桜地区内で順次「土地改良整備事業」が実施され、「字円上田」と「字大竜」でも灌漑設備が完備されたので、最早水の苦労は無くなりました。

  4. 【以下、聞き取り調査】
    その頃、弘法大師に信仰の厚かった智積町の廣田きみ子様が、水の恩恵を受けて農作業をした昔を忘れてはならないと思っていたところ、思いを同じくする深い信仰心のあったお二人(智積のKさんと鈴鹿の人)によって、瓦葺の立派な仏堂が建立され、石造の弘法大師坐像を改めてお祀りして、この仏堂を「大師堂」と命名されました。
    それ以来、永らくこのお二方は熱心に参詣され、また廣田様とこの近くにお住いの牧田久子様が大師堂をお守りし続けましたが、一人、また一人と天寿を全うされ、今では牧田様お一人になりました。
    今日、牧田様は毎日仏堂の内外を掃き清め、お大師様にお茶をお供えして、常に仏花や線香・蝋燭にも気配りしながら、大切に大師堂を護持しておられます。 
    2013年11月21日現在、牧田久子様80歳、明朗で溌剌としたシニア、2年前には仏像の御衣など手縫いで新調されました。

    【謝辞】牧田久子様には、2013年11月21日、快く聞き取り調査にご協力頂き誠に有難うございました。

                    ー 完 ー 
                                        文責・永瀧洋子
参考文献:『日本史辞典』岩波書店、『人口から読む日本の歴史』鬼頭宏著、『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌』、『同櫻村地誌草稿』「四日市市における過去の風水害事例」『三重県災害史』亀山測候所編、昭和30年5月1日発行、『絵図で読み解く天災の日本史』磯田道史著、『西勝精舎聞書抄』山田教雄著、『平成の大修理にこと寄せて』田中俊彦著