Q 雨池用水と大師堂   位置:「桜の史跡地図」のNO.18 

説明板集Qへ

1. 雨池用水

 江戸時代になって人口の増加に伴い、幕府や各藩は年貢増収と食糧不足対策のために、新田開発を奨励して米の生産量増大を推進しました。
 智積村でも、丘陵地や谷間や荒れ地が開拓され耕作地が拡大しましたが、それに伴い従来より更に多くの農業用水を確保するために、一生吹山の北西の谷間の窪地に“溜池(ためいけ)”が二つ築造されました。
下雨池
通称・雨池(あまいけ)
面積約2640u(800坪)もある大きい溜池
反別6町7反1畝5歩の用水に供す
正確な築造年代は不明ながら、享保年間(1716〜36年)の頃には存在したと考えられる。(1733年(享保18)作『佐倉村・桜一色村・智積村山野論立会絵図写』と、1786年(天明6)以後の作とされる『智積村絵図』に大きな池が描かれていることによる)
新雨池
通称・瓢箪池(ひょうたんいけ)
面積1129u(342坪)のやや小ぶりの溜池
水掛田別不詳
築造年は1818年(文政元)。「通称・雨池」より約120m上手の窪地に新築された。
                  (出典:『明治17年調 伊勢国三重郡智積村地誌』)
                  ☆雨池と瓢箪池については、下記の『雨池用水 水路図』をご参照ください。

 @雨池用水の受益田
  • 「雨池」の水は、先ず山の西側斜面の耕地を灌漑します。
  • 一生吹山麓東側の水田へは、下記の『雨池用水 水路図』のように「雨池」から導水路を通って大師堂の背後まで流れ来た水は、そこからは勾配を利用して掘削した約70mの「マンボ」を通過した後、山の輪郭沿いにくねくね曲折した用水路を巡って「メダカの学校」のある字初瀬(あざはつせ)や、字大谷(あざおおたに)方面へ流れながら、山の稜線沿いの水田を灌漑し、それから東方の高角境の水田も灌漑しました。
      (「マンボ」の解説は、「桜町西区のマンボについて」をご参照ください)
 A雨池用水路のメンテナンス
  「雨池用水」の水を満遍なく全ての水田に行き渡るようにするため、用水路やマンボの掃除や補修(これを智積ではユホリ、ゆ掘りと言い習わした)は必須作業で、年に一回「雨池用水」の受益者が総出で補修・掃除を行いました。

 B『雨池用水 水路図』

『雨池用水 水路図』(桜郷土史研究会元会長中根修氏作を一部加工修正したものです)

 C雨池用水の現況
  •  昭和42年以降、桜地区で土地改良事業が行われ、それと並行して三重用水の給水設備も整備されたので、用水料を負担すれば、高齢者でもバルブをひねって簡単に自分の田んぼへ水を入れることができる便利な世の中になりました。
     かつては両溜池の恩恵を受けた雨池用水系の水田にも近代的灌漑設備が完備されました。そのため溜池は全く不要となり、水路は埋もれ、マンボも崩れ、最早昔の雨池用水路を確認することも困難となりました。
     平成20年現在、「瓢箪池」は枯れて灌木が生える湿地となり、「雨池」は今なお水を湛えていますが農業用溜池としての役目は完全に終了しています。

2. 大師堂

「大師堂」・・・一生吹山登山道入り口
名阪自動車道の西

「掘り抜き井戸跡」・・・大師堂の右側
「大師堂 内観」           石製の弘法大師坐像     (撮影:2013.11.21)

場所: 四日市市智積町字円上田・・・・・一生吹山への登り口付近
本尊: 弘法大師坐像。高さ30cmの石像。

 弘法大師として知られる真言宗の開祖空海は、平安初期の821年(弘仁12)に、現在の香川県沖多度郡満濃町に修築した「満濃池」をはじめとして、あちこちに灌漑用溜池を造り水不足に悩む農民を救いました。このことから、全国各地の溜池や掘り抜き井戸などの守り仏として「弘法大師像」が祀られています。

 大師堂の由来
  • 「大師堂」の前方一帯に広がる字・円上田(えんじょうでん)の水田は、一生吹山の西斜面を流れきて茶々川へ注ぐ小川と、この辺りの山から浸み出す自然水を灌漑水としていましたが、それでも水不足となるので、地下水を汲み上げて補水するために「掘り抜き井戸」を掘削しました。そして、この辺り一帯の耕作者の代表・伊藤才次郎様が、小さな祠(ほこら)を建て、石製の弘法大師坐像を安置して、「この井戸が永久に豊富な水を湛えますように」と祈願しました。 その時、この井戸を利用して水飲み場もつくられたので、農作業の合間に口を潤したり、一生吹山への参詣者の憩いの水飲み場ともなっていました。
  • しかしその後、この円上田の西隣の字・大竜(だいりょう)にも「掘り抜き井戸」が掘られたので、ここの井戸の水量が減少し、更に1968年(昭和43)頃から始まった名阪自動車道の建設工事の影響を受けて、水は全く涸れてしまい、「掘り抜き井戸の跡」を残すばかりとなってしまいました。 
    やがて、既述したようにこの辺りも土地改良整備事業が行われ灌漑設備も完備されたので、最早水の苦労は無くなりました。
  • その頃、弘法大師に信仰の厚かった智積町の廣田きみ子様が、水の恩恵を受けて農作業をした昔を忘れてはならないと思っていたところ、思いを同じくする深い信仰心のあったお二人(智積のKさんと鈴鹿の人)によって、瓦葺の立派な仏堂が建立され、石造の弘法大師坐像を改めてお祀りして、この仏堂を「大師堂」と命名されました。
    以来、永らくこのお二方は熱心に参詣され、また廣田様とこの近くにお住いの牧田久子様が大師堂をお守りし続けましたが、一人、また一人と天寿を全うされ、今では牧田様お一人になりました。
    今日、牧田様は毎日仏堂の内外を掃き清め、お大師様にお茶をお供えして、常に仏花や線香・蝋燭にも気配りしながら、大切に大師堂を護持しておられます。 (2013年11月21日現在 牧田久子様80歳、 明朗で溌剌としたシニア、2年前には仏像の御衣など手縫いで新調されました)