桜の史跡 NO.11 
         
            (さんじゅうさんげんどう)    
 
                    
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「三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)」とは、「智積用水(ちしゃくようすい)」が金渓川(かんだにがわ)と交差する地点(印)の川底に埋められた導水管のことです。
「智積用水」は幹線水路のみ表記。黄色枠内は智積村=現・智積町です。
 

(四日市市公開型GISを基に加工作成。責任・eitaki)

目     次
 はじめに
 (1)智積用水(ちしゃくようすい)の水源地「蟹池(かにいけ)
 (2)三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)の詳細
 (3)智積用水と三十三間筒の起源
 (4)江戸時代の古文書の概略

 はじめに
 今は昔、智積村(ちしゃくむら)の土地は
 梅雨明けから7月下旬頃までに日照りが続くと、すぐに水田が乾いてしまい、など夏期に成長する作物に大きな影響がでるのが常でした。

 そもそもの原因は、農耕に必要な水源がなかったからです
 近くを流れる矢合川(やごうがわ)や金溪川(かんだにがわ)は、年間を通して水量が少ない上に、夏季には水が殆ど底をついてしまいました。

 一方、金溪川対岸の森村(現・菰野町神森)の土地は
 年中、水が湧き出て池となっている所があちこちにあり、どちらかと言えば少々水余り気味でした。 

 いつの頃からか定かではありませんが
  • 森村の湧水池の蟹池(かにいけ)から長い用水路を造って水を流して、智積村の広い水田を灌漑(かんがい。土地を潤すこと)してきました。
    この用水路を「智積用水(ちしゃくようすい)といいます。
  • その用水路には、森村と桜一色村の境界に「天王川」と「金溪川」が流れています。
    その二つの川の川底に、「三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)」という地下導水路(地下トンネル)が築造されています。その地下導水路の長さが三十三間(約60メートル)あるので、「三十三間筒」と呼ばれています。
  • 森村の「蟹池」から流れてきた水は、この「三十三間筒」を通って、桜一色村側に流れ出て、そのまま長い用水路を通って智積村に入ると、広大な水田を潤すため沢山張り巡らされた用水路を流れて、米作りの大きな役割を果たします。
 そもそも日照りは
 太陽のエネルギーは十分あるわけだから、水を補給するための用水路が整備されれば、農作物を豊作に転ずることができると考えられています。 

 だから、「用水路」を整備したので、万事うまくいく筈でした
  • ところが、夏季にひとたび長引く日照りに襲われると、用水路の水量が激減して、田んぼはカラカラになり、地割れのような亀裂が入り、稲の生育に弊害が出ます。
  • 逆に、長梅雨や大型台風や豪雨に襲われると、用水路の水も金溪川も矢合川も全て氾濫して、丹精込めた水田は、川上から流れてきた土砂や石ころや流木などで、見るも哀れな荒地と成り果てるのでした。
 そんな悲惨な状況にもめげずに、智積村の人々は用水路の欠損箇所をくまなく調べ、より一層丁寧に修繕しては水田耕作に励んできました。

こうして、智積用水路は何百年も守り続けられてきました。
智積用水路の重要地点である三十三間筒は、昭和時代の末期に「桜地区指定史跡20ヶ所」の一つに指定されました。 
郷土の先人の苦労を永く記憶にとどめ、智積用水路の重要性を後世に伝えたいと願っています。

 

(1)智積用水の水源地「蟹池(かにいけ)

蟹池
「蟹池」  水面が泡立ち
こんこんと水が湧き上がっている。

 この「蟹池」は、桜地区の隣の三重郡菰野町神森にあります。
 鈴鹿山脈に降った雨や雪解け水が、河川敷や山麓の下層にある砂礫層を流れて伏流水(ふくりゅうすい)となり、この辺りで自然に湧き出てあちこちで「池」となっていました。
  • 昔は、この「蟹池」の北西200メートルほど離れた所に、”カニが泡を吹いているように見える小さな池”があり、その付近に川蟹がたくさんいたそうです。
    今の池は、その名残りを追って「蟹池」と名付けられたそうです。

  • この蟹池から出た水は、森村(現・菰野町神森)地内の水田を潤し、三十三間筒付近の湧水を集めて三十三間筒を通り、智積村の田地を灌漑しています。
    昔は、この用水路を蟹川と呼びましたが、今は智積用水といいます。

 智積用水の順路
  • 蟹池 ⇒ 用水路を流れて ⇒ 金溪川北岸の「吸水口」(ここまで江戸期の菰野藩森村) ⇒ 川底の「三十三間筒(樋管(ひかん))」を通過 ⇒ 金溪川南岸の「取水口」(江戸期の津藩桜一色村) ⇒ 用水路を流れて ⇒ 智積村(江戸期の天領と有馬藩領など)の農地を灌漑します。

 智積用水・・・その他の有効利用
  • 「川」には、水草や川底の石の周りに目に見えない微生物が住んでいます。
    その微生物は、川の汚れを食べて分解しています。
    こうして川は、きれいな水に戻そうとする自浄機能をもっています。
    「3尺流れれば水清し」という諺(ことわざ)があります。(3尺=90.9cm)
  • 智積村の人々はそういうことを、経験的に知っていたのでしょう。
    智積村の人々は、この智積用水で毎日、洗顔、炊事、洗濯など生活用水として使ったそうです。
    但し、赤ちゃんの”おむつ”は「八ノ坪(智積用水が矢合川へ流れ出る所)へ行って洗う」という暗黙の了解が守られていました。
    江戸中期以降、わずかですが自宅に”井戸”があった家は例外です。
    智積村に上水道が整備される昭和30年代頃迄のことです。

  • 人間が開発した最も古い原動機と言われる「水車」
    ”智積用水”には「水車」が、智積用水上流の「字武佐(近鉄桜駅付近)」から「字土丹(名阪高速道の付近)」までに12ヶ所あり、脱穀・精米・製粉に大いに利用されていました。(出典・『明治十七年調伊勢国三重郡智積村地誌』)

  • こうして数百有余年に亘って、”蟹池の水”は智積村の人々を豊かに支えてくれました。
  • 現今、地球温暖化が急速に進み、異常気象が一層悪化する傾向にあると叫ばれるなか、この「蟹池」が末永く枯渇しないよう願わずにはいられません。

(2)三十三間筒の詳細
 「三十三間筒」は、近鉄湯の山線の駅「さくら」の「北口広場」の北方約200メートル付近に東西に流れる「金溪川」の川底にあります。
 「三十三間筒」は、金溪川の川底に埋設してある「埋め樋(導水管)」のことです。
 その長さが三十三間(約60メートル)あるので、「三十三間筒」と呼ばれています。

 「三十三間筒」に関する文献『明治十七年調べ伊勢国三重郡智積村地誌』の記述
  • 江戸時代1711年(正徳元)、四日市陣屋代官石原清左衛門正利が、官費で三十三間筒を伏せ替えた。
    長さ・三十三間、内法・三尺
    その後、石樋に変換した。(年歴不詳)

  • 当時、智積村は天領地(幕府直轄地)と桑名藩などとの相領であったため、四日市代官の主導で官費による工事となり、農民は労働力を提供してその工事を完成させたと推測されています。(官民協同工事)

     なお、現在の三十三間筒は、設置場所は昔と殆ど変わりませんが、当然ながら施工は現代の土木工事技術によるものです。

  • 蟹池から用水路を流れてきた水は、下記の写真「吸水口」から、金渓川の川底に敷設された樋管三十三間筒へ流れ込みます。
    三十三間筒 金渓川北岸の吸水口 (菰野町神森地区内)
    三十三間筒 吸水口
    三十三間筒 吸水口 近景
    遠景・・・吸水口 近景・・・吸水口
    (水が勢いよく吸い込まれています)

  • 「三十三間筒」を通り、桜町一色側の「取水口」から流れ出て、そのまま用水路を流れます。
    三十三間筒 金渓川南岸の取水口  (桜町一色地内)

    遠景・・・取水口
    取水口の上部分は金渓川の堤防
    左側に三十三間筒の説明板があります。
    近景・・・取水口
    取水口の真上に
    薄緑色の竣工記念板が設置されています。
  • 桜町一色の取水口から用水路を流れてきた水は、智積町の張り巡らされた水路を通って広い水田をくまなく灌漑しています。


 金溪川について『明治17年智積村地誌』と『同櫻村地誌』の記述内容
智積村地誌 櫻村地誌
「川」の項目
 〇金谷川(方言・菰野川)・・・金溪川
 〇三等川に属す
 〇水清しといえども常水無くして水量不足 その流れ急にして船筏不通
 〇用水に供せず
 〇堤防あり
「川」の項目
 〇金谷川
 〇三等川に属す
 〇常水これなくして水量不足 よって船筏不通
 〇用水に供せず
 〇堤防あり・長さ・8町19間3尺(908.1m)
  巾 ・最も広き所16間(29.1m)、狭き所11間(20m)
「堤塘」(ていとう。堤防)の項目
「金谷川及び三重川(現・三滝川)南堤塘」
 〇金谷川沿い本郡櫻村境より辰の方同郡西野村界に至る長さ・9町9間3尺6寸(999m)
 〇堤敷・4間(7.3m) 
 〇高さ・1間5尺4寸(3.5m)  
 〇馬踏・1間4尺2寸 (3.3m)
 〇その内三重川堤防に属す分・4町18間1尺2寸(469.4m)
 〇修繕費用
 明治4年まで官に属し、明治5年より金谷川は民に属す。その他は官に属す。
「堤塘」(ていとう。堤防)の項目
「金谷川南堤防」
 〇字山上垣内より該川の南に沿いて智積村界に至る長さ・6町47間3尺(741m)
 〇堤敷・5間3尺(10m)
 〇高さ・3間1尺2寸(5.1m)
 〇馬踏・1間3尺(2.7m)
 〇修繕費
 明治5年まで官に属し、明治6年より民に属す。


金溪川は天井川(てんじょうがわ)だった! (写真撮影・2009年11月8日)
写真は、金溪川の桜町一色側の土手と三十三間筒の取水口付近です。コンクリート階段が急勾配の土手を表しています。
上掲の明治17年時金溪川堤防の測量値では、高さが3.5m〜5.1mとあります。

【天井川について】
天井川は、人の営みが作り出した地形です。
人は古くから洪水を防ぐため、川の両岸に堤防をつくってきました。
川の流れを固定された川は土砂が堆積して川底が上昇し、再び洪水の危険が高まります。
そして洪水を防ぐため、更に堤防を高くする。
これを繰り返すと、ついには川底が周囲の土地より高くなってしまいます。
このような川のことを「天井川」といいます。(出典・「国土地理院 天井川」HPより)

昭和37年(1962)「智積用水路改修工事」着工
 昭和41年(1966)、同工事竣工
(森地内の分水地点より金溪川を伏越して智積に至る394メートルの水路改修工事。この工事の際、川底の土砂を取り払う浚渫(しゅんせつ。川底のヘドロ等を取り除き、水位を下げること)工事も行われたようで、川底は深くなっています。

(3)智積用水(三十三間筒を含む)の起源
智積の地で水田耕作が始まったのは、
 現・智積町の水田下から発掘された「智積廃寺」が、飛鳥時代後半から奈良時代初頭に建立されたと報告されていることから、当地方の水田耕作はそれ以前から行われていたと推測されています。(参照:「智積廃寺跡」のページへ

智積用水路の起源について
 前項「(2)三十三間筒の詳細」で記述したように、残された文献からは、智積養水路の起源を、「江戸時代初期」とするのが妥当と考えられますが、歴史的考察による「中世説」もあります。

中世説を採る理由  
  1. 奈良時代743年(天平15年)、墾田永年資材法の施行で農地開発の私有化が急増し、特に財力のある有力貴族や大寺院が、地方の空き地を開墾して私有化し「荘園」としました。

  2. 平安時代後期1160〜67年(永暦元〜仁安2)、智積の地と周辺地域は、京都の公家西園寺家の「智積御厨(ちしゃくみくりや)となりました。(「御厨」は実質的には「荘園」と同じです)

  3. 鎌倉時代1262〜75年(文永年間)、「智積御厨」内に「森郷」(現菰野町神森東・江戸期の森村の名がみえ、また瓜生郷(うりゅうごう。現菰野町神森西・江戸期の神田村)小林郷(現・智積町)庭田郷(現・平尾町)衣比原(えびはら)上・下二郷(現・上・下海老原(えびはら)町)の名もみえます。(出典『藤原公行譲状案』)
    • この頃は未だ人口も少なく、智積の地には水田耕作に必要な”水”は十分あったと推測されます。

  4. 室町時代中期1418年(応永25)「桜郷」が智積御厨の一郷として初見されます。(『守護土岐持頼遵行状案』)
    • 矢合川の川上の「桜郷」で農耕が始まる。
      
  5. 室町時代後期1458年(長禄2年)、「中村郷」、「森郷」、「平尾郷」、「上衣比原郷」、「桜郷」、「一色郷」の郷名がみえる。(出典『長禄二年 智積御厨年貢帳』)
    • 金溪川南岸の上流の「一色郷」でも農耕が始まります。
    • この頃になると、矢合川の川下の智積では恒常的に水不足に陥っていたと推察されます。

  6. 室町時代、応仁の乱(1467〜1477)によって、京の都は荒廃し、公家であっても日常生活に困難を極めました。

  7. ここまで、智積御厨の発展と稲作の水源の観点から、「智積用水路が造られた時期」を探ってきました。
    智積用水路の全長は1,786m、幅は1〜2mもあり、しかも金溪川の川底に三十三間筒を築造する大工事です。
    これを建造するには、巨額な財力が必要です。
    「智積御厨の領主」が巨大な財力を持っていた時期は
    応仁の乱以前、しかも『1458年(長禄2年)智積御厨年貢帳』が作成される以前が、智積御厨の最盛期と考えられます。
    • 1458年(長禄2)以前、領内に何の抵抗勢力も無く、財力がある領主の一存で、用水路工事を成し遂げることが可能であった時期であり、領主が更なる智積御厨の発展を願って敢行したと推察されます。

  8. 時代を下って江戸期に入ると
    森村は菰野藩、三十三間筒の取水口がある桜一色村は津藩、水不足に難渋する智積村は天領(幕府直轄領地)と桑名藩等の相領地となって、三藩四領主の領下にまたがる共同開発は殆ど不可能と考えられます。
埋設した樋管の材質について
  • 初期段階の樋管の資材は、例えば、橿原考古学研究所付属博物館の展示物・益田池の堤から出土した樋管の例からも、大木を切り抜いた分厚い木製樋管であったと推測されます。

  • なお、(2)三十三間筒の項でみたように、
    1. 江戸時代1711年(正徳元)、官費で三十三間筒を伏せ変えた。(木製樋管の取り替え)
    2. その後(年代不詳ながら)、官費で石樋に変換した。(前回から百数年後の江戸時代末期頃(?)に、石樋に据え替えられた) 

(4)江戸時代の古文書の概略
 菰野町に保存されている江戸時代の古文書「智積用水有文書」と、智積町自治会が保存している「智積村絵図」から以下のことが判明しています。
  1. 江戸時代1711年(正徳元年)、四日市陣屋代官石原清左衛門正利が、官費で三十三間筒は本格的な伏樋(ふせどい)にしました。(つまり、これ以前にも三十三間筒が既に存在していた事が明らかです)

  2. 1777年(安永6)から10年間にも及んだ訴訟沙汰の末、1786年(天明6)に和解
    • 1777年以前に、既に「金田の井」の水の分配について、智積村と森村(現・菰野町神森)両村の間に「取り決め」があったが、智積村は、干ばつの年には水はあくまで水不足となり、洪水の時には怒濤の如き水の襲来を受けて大切な田畑は砂に埋まる被害を受けるので、常々困っていました。

    • そして1777年、この地方を襲った干ばつで、困り果てた智積の農民が、協定を破って夜中にこっそりと「金田の井」に土俵を積み上げ、智積に水がたくさん流れ込むよう細工しました。

    • 一方、森村側は、そんなことを許すと自村へ逆流すると恐れてこれを阻止しようとしました。 
      これが事件の発端でした。

    • その事件以降1786年に決着をみるまでの間、森村は智積村に対して「水」の供給を差し止め、一方智積村はそれまで「水」の謝礼として森村に許可していた「秣場(まぐさば)の草等刈り取り」を差し止めました。

  3. その経過と結末
     その10年間、智積村の農民は、三十三間筒経由で得ていた灌漑用水の全機能を停止されたまま、ただ茫然としていたわけではありません。
    • 智積村の全村民は一致協力して立ち上がり、猛然たる水不足対策工事を敢行しました。
      金渓川から直接取水して「新用水路」を造ったり、金渓川南岸にある智積地内の字平尾川原を掘って伏流水を得るなどして農業用水の確保に懸命に努力しました。
      しかし、結局十分な水を得るには至りませんでした。

    この「水争い」で大打撃を受けたのは、当然ながら水源をもたない智積村でした。
      智積村農民の悲しくも逞(たくま)しい「水争いの歴史」です。

     (この事件以降も幾度となく水論訴訟は起こり、「昭和2年(1928)に発生して同6年に解決した事件」が最後となっています)

    「智積養水」に関する詳細ページはこちらから
(参考資料: 『四日市市史第五巻、第八巻、第十六巻』、『明治17年調伊勢国三重郡智積村地誌』、『名水百選智積養水』(山田教雄著)、『菰野町史上巻』)四日市市史第七巻、 掲載:2002年10月24日、更新:2004年5月24日、2019年9月15日   
文責:永瀧洋子)