7章 処女会の終焉
1.「処女会」解散から「女子青年団」へ
  • 経済不況と社会不安
    大正3年(1914)に始まった第1次世界大戦の特需が終わり、戦後不況となって日本経済が悪化し、さらに大正12年(1923)の関東大震災で、不況は一層深刻化して社会不安が増大し、とりわけ青年男女の自由主義や社会主義へ傾倒が深まる傾向にありました。打開策として政府は「青年団」を国家統制下に置くため連合組織化に着手し、1924年(大正13年)「大日本連合青年団」が結成されました。こうして青年団は以前に増して強固に国家権力によって統制されました。
  • 「処女会」と家父長的「家制度」
    「処女会の父」天野藤男は、「処女会は良妻賢母の素地養成が目的であり、生活の根拠はあくまで家庭に存し、従って頻繁に会合を催せば家事の支障となり父兄に不安を与える」とその著書で危惧しています。
    政府の危惧は別のところにあり、「処女会」が連合組織になれば、必然的に女子の外出が頻繁となって、家父長的「家制度」と「良妻賢母教育」の基盤が揺らぎ、国家的基本路線の崩壊に繋がることを恐れました。
  • 欧州諸国の女性の戦争協力が引き金となる
    第一次世界大戦(1914〜18)下で、欧州の女性が窮乏生活に耐え、戦争に協力して活躍した事実が評価され始めると、関係者の間でも「処女会」を連合組織化して国家統制下に置く考えが徐々に優勢となりました。 
  • 青年女子団体に対して初めての訓令
    遂に大正15年(1926)内務・文部両省は、訓令「女子青年団ノ指導誘掖ニ関スル件」を出し、青年団と並んで女子青年層の全面的な掌握を始めました。
    訓令の主なる内容
      *女子青年団体は青年女子の修養機関である
      *国民的自覚と儒教的婦人観を強調
      *知能の研磨、勤倹質実、体育を重んじて健康増進を期し、情操を養い趣味の向上を図ること
  • 「大日本連合女子青年団」発足
    昭和2年(1927)4月、処女会を基本母体として女子青年団の全国的組織「大日本連合女子青年団」が発足し、理事長には山脇房子、理事に地方代表が就任して組織体制が整えられました。
    「大日本連合女子青年団」は、「処女会」の主目的たる「伝統的婦徳の涵養」と「良妻賢母育成」を踏襲しながら、国民的自覚が喚起され、国策協力団体、国の期待を担う団体として、男子青年団と同様に軍事体制国家に組み込まれていきました。こうして日本の女性史上初めて、女子が全国的に団結した組織を持つに至りました。

2.「桜村処女会」の終焉

  •  大正14年12月8日の敬老会を主催して成功裏に終えた処女会のその後は、大正15年5月付けの「桜村処女会退会員寄贈」の茶道具によってその健在振りが確認できます。(別添「桜村処女会退会員寄贈の茶道具」PDFファイル)
     茶道具の寄贈者6名は、大正15年当時、ちょうど結婚適齢期にさしかかっており、重要ポストにあった女子が一人また一人と結婚退会して、桜村処女会が精彩を失いかけていた折しも、内務・文部両省が青年女子団体に関する訓令を出しました。奇しくも、全国の「処女会」の終焉と「桜村処女会」の衰退を同時期に迎えました。その時期はまた、日本が関東大震災とそれに続く金融恐慌に遭遇した時期であり、桜村の地場産業、特に製糸工場は大打撃を受け相次いで工場閉鎖に追い込まれ、桜村の前途に一抹の陰りが見え始めた時期でもありました。

     大きく世界情勢が変動して日本が昭和という新しい時代を迎える中で、一地方農村の桜村の女子にとっても新しい転機が訪れ、処女会の主なる女子役員6人全員が引退した後、残る処女会員はそのまま次なる「桜村女子青年団」に編入されていきました。「団長」は坂井みよ様、「副団長」が近藤うめ様です。(昭和5年(1930)1月に開催された「三重県女子青年団 団長会・幹部講習会名簿」より) 坂井みよ様については不明ですが、近藤うめ様は当時22,3歳だったと聞き取り調査によって分かりました。
     こうして青年女子の団体の「長」が、女子であることが非常に珍しかった大正時代の「桜村処女会」から、当たり前のことのように「桜村女子青年団」へと継承されていきました。
    桜村処女会が「桜村女子青年団」へ改組された正確な日付は不詳ですが、昭和3年(1928)に「三重県連合女子青年団」が正式発足していることから、この時期までに女子青年団へ移行したものと推測します。