(さんじゅうさんげんどう)
     「桜の史跡」NO.11
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 智積(ちしゃく)の地は、古来より「旱損所(かんそんしょ)」といわれ、農民は常に深刻な水不足に悩まされてきました。
 近くを流れる金渓川(かんだにがわ)矢合川(やごうがわ)は、ふだんでも夏季に日照りが少し続くと水量が殆ど底をついてしまいます。 だから旱魃(かんばつ)の年には、水を巡ってもめ事があちこちで起こるのが常でした。

 一方、金渓川対岸の隣村の森村(現・菰野町神森村)は、年中水が湧き出て池となっている所があちこちにある水源豊かな村でした。

 何時の頃からか定かではありませんが、智積村の人々は、森村の湧水池・蟹池(かにいけ)から智積村まで長い農業用水路を造り、蟹池の水を引いてきて智積の水田を灌漑(かんがい)するようになっていました。

 この農業用水路は、蟹池から智積村までの途中にある金渓川を横切っています。 つまり、川底に三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)(約60メートルの伏樋(ふせとい)=導水管)を埋めて、そこを水が流れて智積地内へ入るように工夫してあります。

 この三十三間筒の大工事が完成して、万事上手くいく筈であったのですが、あにはからんや、一旦旱魃がこの地方を襲うと、今度は蟹池からの水量の分配方法を巡って、森村と智積村で再三水争いが繰り返されました。
 
 こうした事情があって、三十三間筒は、昔から農民にとって死活問題であった「農業用水」にかかわる幾多の事件を象徴するものとして、桜地区の史跡の一つとして指定し、郷土の先人の苦労を永く記憶に留めようとするものです。

三十三間筒とは
 「三十三間筒」は、現在の近鉄桜駅北口広場の北方200m附近の、金渓川(かんだにがわ)の川底に埋設してある「埋め樋」(導水管)のことで、その「埋め樋」の長さが三十三間(約60メートル)あるので、三十三間筒と呼ばれています。

 隣村の森村の湧水池・蟹池の水を智積村に引いてくるに当たり、森村と智積村の間に立ちはだかる金渓川が最大の難関でした。
 森村側の金渓川北岸から川底に三十三間の導水管を埋設して、南岸の桜一色地内へ水を引っ張ってくることは、江戸時代としては大掛かりな土木工事でした。 しかし当時、智積村は天領地(幕府直轄領地)であったため、四日市代官主導で官費による工事となり、農民は労働力を提供してその工事を完成させました。(官民協同工事)
 
 三十三間筒に関する文献の初見は、江戸時代1711年(正徳元年)で、四日市陣屋代官石原清左衛門正利が、官費で三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)を伏替えたとあります。

 なお、現在の三十三間筒は、設置場所は昔と殆ど変わりませんが、当然ながら、施工は現代の土木工事技術によるものです。



三十三間筒  金渓川北岸の吸水口 (菰野町神森地区内)
三十三間筒 吸水口
「三十三間筒」の吸水口 遠景
   三十三間筒 吸水口 近景
 「三十三間筒」の吸水口 近景
  水が勢いよく吸い込まれています。
蟹池から流れてきた水は、
ここから金渓川の川底に敷設された樋管三十三間筒へ流れ込みます。

三十三間筒  金渓川南岸の取水口  (桜町一色地内)

(3)三十三間筒の取水口/桜一色側
取水口の上は、金渓川の堤防。
左側に三十三間筒の説明板があります。

(4)左の取水口を間近で見る。
取水口の真上にある薄緑色の竣工記念板
 水は三十三間筒を通って桜一色側へ流れ出て、そこから智積町内へと流れます。
智積町内に張り巡らされた水路を通って水田をくまなく灌漑します。

三十三間筒の重要性
 三十三間筒は、桜地区に於ける江戸時代の大がかりな土木工事施設であり、それはまた、農作業に欠かせない「水」を求めて隣村との熾烈な「水争い」を象徴するものでもあります。この「三十三間筒」があったからこそ、智積の人々は今日まで農業を続けることができた、いわば「生命線」とでも言うべき大切な土木工事施設です。

 菰野町神森にある「蟹池」の湧き水は、「用水路」を通って金溪川の北岸から「三十三間筒」を通って南岸の桜一色地内に流れ出た後、智積に至って二つの用水路「寺井川」と「武佐川」に分流されます。それぞれの用水路は更に細かく分流され智積町内を縦横に流れ巡って、水田を潤す「灌漑用水」として無駄なく活用されています。

 一方、智積の家並を巡る用水路では、昔は住民の生活用水(炊事、洗顔、洗濯など)にも大いに活用されていました。(現在は生活用水には用いられていません)
水源地「蟹池」
蟹池
「蟹池」  水面が泡立ち
こんこんと水が湧き上がっている。

 桜地区の隣の三重郡菰野町神森にあるこの蟹池は、鈴鹿山麓に降った雨や雪解け水が地下水となって流れ、この地で湧き水となったもので、広さ約660平方メートルあります。この池を訪ね歩くと、田んぼの中にあたかも忽然として現れたが如くその姿を見せています。
三十三間筒の起源
 三十三間筒の土木工事の起源は不明です。
 冒頭で既述したように、残された文献からは三十三間筒の起源を「江戸時代初期」と考えるのが妥当のようですが、歴史的考察による「中世説」もあります。

中世説を採る理由
 平安時代の962年(応和2)頃に、三重郡全体は伊勢神宮の「神郡」となりましたが、その後1160〜67年(永暦元〜仁安2)頃になると、開墾地の私有化が進んで桜地区と周辺地域は西園寺家の「御厨(みくりや)」(実質的には「荘園」)となりました。
 鎌倉時代、森村は森郷と称し、智積御厨を形成する一郷でした。(『藤原公行譲状案 元応2年(1320)』(口宣綸旨院宣御教書案)
 したがって、智積御厨の所有者が米の増産を図るための灌漑用水路の工事を、同じ御厨内で何の反対勢力も無く易々と成し遂げるのが可能であった時期が中世です。 時代を下って江戸期に入ると、森村は菰野藩、三十三間筒の取水口がある桜一色村は津藩、智積村は天領(幕府直轄領地)と桑名藩等の相領地となるので、三藩四領主の領下をまたがる共同開発は殆ど不可能と考えられます。 こうした理由で智積養水は「中世」にできたと推測されています。
大規模土木工事
  金渓川の川底に樋を通すという大がかりな工事のため、綿密な土木設計や工事指導者、建築資材の調達等、時の智積村支配者の力無しではとても完成させる事は困難であったと考えられています。
  
  土木工事は、大きく別けると次の三つになります。
  1. 森村の蟹池の湧き水を金渓川北岸へ誘導する用水路の敷設工事。
  2. 金渓川の川底に樋を埋める工事・・・・・言うまでもなくここが最も難工事。三十三間の樋を金渓川の北岸(森村側)から地下に通し、南岸(桜一色側)へ傾斜をつけての埋設工事。
  3. 金渓川の川底の樋から流れ出てくる水を、南岸(桜一色側)で取水して、智積村内へ誘導する敷設用水路の工事。
 その全工程に智積村の農民は、来る日も来る日も鍬で溝を掘ったり、モッコを担いだりと必死で工事に携わったことでしょう。そして完成時には、智積村・森村両村関係者の立会いのもとで、「取り決め」の話し合いがあり、「協定」を確認したことと推測されます。
江戸時代の古文書や絵地図から、判明していること
 菰野町に保存されている江戸時代の古文書「智積用水有文書」と、智積町自治会が保存している「智積村絵図」から以下のことが判明しています。
  • 江戸時代1711年、四日市陣屋代官石原清左衛門正利が、官費で三十三間筒は本格的な伏樋(ふせどい)にしました。 (つまり、これ以前にも三十三間筒が既に存在していた事が明らかです)
  • 1777年から10年間にも及んだ訴訟沙汰の末、1786年に和解
     1777年以前に、既に「金田の井」の水の分配について、智積村と森村(現・菰野町神森)両村の間に「取り決め」があったが、智積村は、干ばつの年には水はあくまで水不足となり、洪水の時には怒濤の如き水の襲来を受けて大切な田畑は砂に埋まる被害を受けるので困っていた。
    1777年にこの地方を襲った干ばつで、困り果てた智積の農民が、協定を破って夜中にこっそりと「金田の井」に土俵を積み上げ、智積に水がたくさん流れ込むようにしました。
    一方、森村は、そんなことを許すと自村へ逆流すると恐れてこれを阻止しようとした。 
    これが事件の発端でした。
    その事件以降1786年に決着をみるまでの間、森村は智積村に対して「水」の供給を差し止め、一方智積村はそれまで「水」の謝礼として森村に許可していた「秣場(まぐさば)の草等刈り取り」を差し止めた。
 その後の経過と結末
  その10年間、智積村は三十三間筒経由で得ていた灌漑用水の全機能を停止されたまま、ただ茫然としていたわけではありません。
 智積村の人々は猛然たる水不足対策工事を敢行し、金渓川から直接取水して「新用水路」を造ったり、金渓川南岸にある智積地内の字平尾川原を掘って伏流水を得るなどして農業用水の確保に努力しました。
しかし、結局十分な水を得るには至りませんでした。

  この「水争い」で大打撃を受けたのは、当然ながら、水源をもたない智積村でした。
  智積村農民の悲しくも逞しい「水争いの歴史」です。

 (この事件以降も幾度となく水論訴訟は起こり、「昭和2年に発生して同6年に解決した事件」が最後となっています)

「智積養水」に関する詳細ページはこちらから。

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