桜の史跡NO.13
        
          
  (かがひめ と つばききしいなりじんじゃ)
           旧称・・・幸田(こうだ)神社        説明板集NO.13へ





椿岸稲荷神社
(つばききしいなりじんじゃ)

(椿岸神社拝殿に向かって右側)
住所:四日市市智積町684
姫御前橋
(ひめごぜんばし。通称ひめごぜばし)

県立四日市西高等学校の北、矢合川に架かる。

 時は安土桃山時代。 やむごとなき姫君が、親類縁者ことごとく京へ帰った後も、独り残って鄙(ひなび)たこの地で暮らしていました。 
 艶やかだった黒髪もやがて白髪となり、姫は齢(よわい)九十にして、当時、天皇・皇族・貴族の格別に篤い(あつい)信仰を集め、格式高かった「伏見稲荷神社の祭神(五穀豊穣の神)」勧請し、稲穂の実るこの地に相応しく、その名も幸(さきはふ)田、幸田(こうだ)神社を建立しました。勧請(かんじょう)とは、ある神社から分霊をして他の地に祀ること)
 その姫の名は加賀姫。父は公卿の正三位権中納言松木宗藤(まつのきむねふじ)。当地「智積御厨(ちしゃくみくりや)」の領主でした。
 加賀姫は、応仁の乱の戦乱で荒廃した京を去り、1532年頃(天文元年頃)父に伴われて当地へ来ていたのです。

 時は流れ、やがて武士の世になり、荘園制度は崩壊。松木家の関係者は全て帰京しました。
しかし加賀姫にとって、此の地は父と共に穏やかな日々を過ごし、父の最後を看取った掛け替えの無い所です。彼女は自分の生きる場所を”この地”と決め、そして、最晩年には万感の思いを込めて幸田神社を創建したのでした。

 当地の人々は、そんな加賀姫を愛(いと)おしく想いつつ、干害の時も、暴風雨の時も、いつも神の御加護と農作物の豊作を願って祈りを捧げ、400年以上もの永きにわたって、加賀姫の伝承と神社を守り今日に継承してきました。


【明治十八年伊勢國三重郡智積村地誌及び同櫻村地誌の附属之図】
下図は、明治十八年(1885)作製の『伊勢國三重郡智積村地誌附属之圖』と『同櫻村地誌附属之圖』の両地図を繋ぎ合わせ、文言等を適宜挿入したものです。(加工作成・eitaki)
【地図の見どころ】
  1. 加賀姫が建立した幸田神社は「字南垣内(あざみなみかいと)」に鎮座。
  2. 加賀姫の父・松木宗藤の配慮で、加賀姫が住む屋敷が与えられた。
    加賀姫は「本村東境即ち智積村の地に住す。今に其地を加賀屋敷という。今是れを加賀屋敷と旧字せり」と桜村地誌にありますが、しかし、その「加賀屋敷」の位置は不明。
  3. 加賀姫の化粧料地「姫御前平(ひめごぜひら)は、川の上流の南岸に字名(あざめい)として表記されている。
  4. 明治42年(1909年)、明治政府の「一村一社の神社合祀」政策に従い、幸田神社は村内の全ての神社と共に「椿岸神社」に合祀された。
  5. 昭和20年(1945)、占領軍(GHQ)の指導で政教分離が行われ、神社と国家が完全に切り離されました。
  6. 昭和35年(1960)、「幸田神社」は椿岸神社本殿の東側に「椿岸稲荷神社」と神社名を変えて再建された。
  7. 加賀姫の化粧料地「字姫御前平」は、昭和50年(1975)開校の三重県立四日市西高等学校のグラウンドの一部となった。


領主松木宗藤の息女・加賀姫の生涯
(1)平安時代、智積御厨成立
  1. 962年(応和2)、村上天皇によって「三重郡」は伊勢神宮に寄進されて「神郡」となりました。
    平安末期までに、伊勢国13郡のうち8郡が神領とされ、その8郡からの「租税」は全て伊勢神宮に納められました。(伊勢国「神八郡」:度会郡、多気郡、飯野郡、員弁郡、三重郡、安濃郡、朝明郡、飯高郡)

  2. 平安時代以降、「神郡」である三重郡内で、新たに荒廃地や未開発地を開墾して農地経営を行うには、伊勢神宮の了解が必要でした。(三重郡の智積とその周辺を新たに開墾した実質的指導経営者は、京の公家西園寺家でした)

  3. 西園寺家は、その新開墾地を伊勢神宮権禰宜の仲介で”伊勢神宮内宮領”に寄進して、内宮へ年貢と権禰宜へ仲介料を納める契約で「智積御厨」として成立させました。
    こうして、伊勢神宮を本所とし、西園寺家は「領家」として「智積御厨」を実質支配しました。

  4. 「御厨」は「荘園」とほぼ同じで、「不輸・不入の権」つまり「租税免除や検田使や国衙使らの立入禁止の特権」がありました。
(2)鎌倉時代、「智積御厨」は公家の中御門家(後の松木家)の所有となる。
  • 「智積御厨」は西園寺家の所領でしたが、婚姻や財産分与等を経て、鎌倉時代1328年(嘉歴3)に、公家(くげ。朝廷に仕える上級貴族)の中御門家(後の松木家)の所領となる。(詳細は「智積御厨と多宝山智積寺」をご参照下さい)
(3)「加賀姫」が生まれる約48年前、京都で戦乱
  1. 室町時代 ”応仁・文明の乱” 
    1467年~1477年(応仁元年~文明9年)まで、11年間続いた内乱。
     1、室町幕府8代将軍足利義政の後継問題
     2、管領畠山氏と斯波両家の後継者問題
     3、細川勝元と山名宗全の対立
    主に上記3点が絡んで争われた内乱。
    戦いは京都で始まり、諸国の大名が、細川(東軍):山名(西軍)のいずれかに加わり全国規模の戦乱となった。
  2. この戦乱で京都の寺社、公家邸、武家邸の多方は焼失し、京の都は荒廃し、将軍の権威は失墜した。
  3. 都市荒廃による環境悪化で、火災や盗賊が頻発し、疫病が発生した。
  4. 関白以下公卿らが、乱を避けて地方の領地へ下った。
(4)「智積御厨」で荘官や武士の横領
  • 一例ですが、1486年(文明8)、「智積御厨」の領家・松木宗綱は、室町幕府に訴状を出し「峰弾正忠(みねだんじょうのちゅう)が去年に続き今年も横領する」と、鈴鹿郡峰氏を訴えました。
    しかし、幕府が弱体化しているので、一向に決着が付きませんでした。
(5)1499年(明応8)智積御厨の領家一族、智積御厨へ来る
  • 「智積御厨」の領家・松木宗綱は、京都の混乱を避け、子の宗籐らを伴い智積に移り住み、「智積御厨」を直務支配(じきむしはい)する
    • 「直務支配」とは、領主は御厨の年貢収納等を在地管理人の荘司(しょうじ)または下司(げし)等に任せていたが、室町時代の「応仁・文明の乱」以降、年貢等の未納や減納等が続き、更に荘官等との相論が相次ぎ、領主自身が現地の御厨に下向して直接支配して年貢を徴収すること。
(6)加賀姫誕生、そして17歳~25歳頃「智積」へ来る
  • 1515年(永正12)(戦国時代)、加賀姫生まれる。
    • 出生年を幸田神社の棟礼から逆算。
    • 父親は、京都の公卿・松木宗籐正三位権中納言、”智積御厨の領主”
    • 加賀姫の出生地は不明。

  • 1532年~1540年頃(天分年間の初め頃)松木宗籐は17歳前後の加賀姫を伴って智積へ来る。
    領主の松木宗籐は、桜一色村の名主・町野清兵衛に”姫の世話”を依頼した。
    • 加賀姫は父親の松木宗籐が智積へ移住後に誕生したことは明白です。
    • 但し、松木宗藤は朝廷の上級廷臣公家なので、朝廷の儀式や祭事などに出仕するため、京で長期間滞在することもあったようです。従って、加賀姫の出生地は不明。
    • 或いは、加賀姫は当地で誕生→ 成長後結婚→ 配偶者死亡等の理由で実家へ戻る→ 父親・松木宗藤に伴われて加賀姫は智積へ戻る・・・この可能性も考えられます。

加賀姫関連年表
平安時代
1160~1167年
(永暦元~仁安2)
当地に、貴族西園寺家(さいおんじけ)智積御厨(ちしゃくみくりや)が成立する。(『荒木田章氏等申状』)
 
鎌倉時代
1200年
(正治2)
多宝山智積寺(たほうざんちしゃくじ)創建
 智積御厨の守護寺 
      (詳細は「智積御厨と多宝山智積寺」へどうぞ)
鎌倉時代
1328年
(嘉歴3)
この頃、婚姻による財産分与などで、智積御厨の所有者は西園寺家から、中御門家(なかみかどけ)へ移る。
  • 中御門家(なかみかどけ)通称松木家(まつのきけ)は、藤原北家中御門流本宗の堂上家。
    室町時代以降、家名を松木家と改めた。
    家格は羽林家。
    家業は、楽道・笙(しょう)
  • (しょう)
    雅楽に使用される気鳴楽器。奈良時代に唐から伝わり、律令制下、唐楽に合笙師1人、合笙生4人が置かれた。
    9世紀の楽制の改革後は、管弦・唐楽・歌物の奏楽に用いられた。
                 (出典:『日本史辞典』岩波書店 ) 
南北朝時代
1360年頃
(延文5)頃
南北朝期、「智積御厨」の領域は、現在の智積町と桜町を中心に北方へ伸び、菰野町神森、平尾町、上海老町、下海老町と推定される。(『神鳳鈔』)

戦国時代
(室町時代)
1467~1477年
(応仁元~
   文明9年)
応仁・文明の乱 1467~1477年(応仁元年~文明9年)
  • 「応仁の乱」は、室町時代1467(応仁9)年から、1477(文明9)までの11年間に、京都を中心に行われた大規模戦乱。
    この大乱で京都は焦土と化し、将軍の権威は失墜し、幕藩体制・荘園制度崩壊の引き金となった。
  • 戦乱を免れて地方に下った公家たちによって、文化の地方伝播がなされた。
戦国時代
1498年
 (明応7年)
明応地震 1498年(明応7年)8月25日、東海道沖で大地震が発生。
  南海トラフ巨大地震と推定されている。津波は紀伊から房総半島にかけて襲来した。
  • 伊勢神宮内宮の『内宮子良館記(ないくうこらかんき)には
    伊勢大湊で家屋流出1千、溺死5千、伊勢志摩で溺死1万とされ、宮川河口付近にあったと推定される塩谷村では塩浜(塩田)が被害を受け塩業が成立しなくなった」とある。

  • 安濃津あのつ、現・三重県津市)は、室町時代の「廻船式目」で「三津七湊」の「三津」一つに数えられた港湾都市でしたが、明応地震で壊滅した。
    「三津」・・・安濃津(三重県津市)、博多津(福岡市)、堺津(大阪府)

  • 浜名湖は淡水湖であったが、明応地震と津波によって砂堤(砂州)が決壊し海と繋がり、汽水湖(きすいこ、淡水と海水が入り混じっている湖沼)となった。
戦国時代
1499年
 (明応8)

1499年(明応8)
「智積御厨」の領家・松木宗綱は、京の混乱を避け、子の宗藤らを伴い智積に移り住む。
  • 明応八年巳羊、 予六歳   (出典・『巌助往年記』醍醐寺理性院巌助著)
     十一月、里女房衆、予兄妹以下悉伊勢下国始也       
    (「巌助」は父の松木宗綱に連れられて智積へ来たが、後に出家して醍醐寺理性院巌助となる)
以後、松木家の宗綱、宗籐、宗房の三代にわたって80余年あまり智積に在住する。 
  (しかし、この間、当主や息子たちは度々上洛している)
  • 松木宗綱(14代)・・・ 1444(文安元)年 ~ 1525(大永5)
    (1)松木宗量の孫 従一位准大臣(室町幕府将軍足利義稙の信任得る)
    (2)智積で死亡。
    (3)松木宗綱の息子は、宗藤巌助と他2名。
    (4)宗綱の後継は宗籐
    (5)巌助は醍醐寺理性院の僧侶で『巌助往年記』の著者。
       巌助は永禄10年(1567年)74歳で没(出典『醍醐寺文書』)

  • 松木宗籐(15代)・・・1490(延徳2)年 ~ 1560(永禄3)年
    (1)松木宗綱の息子 正三位権中納言  
    (2)智積で元服   
    (3)加賀姫の父
    (4)宗籐に後嗣が無かった為、飛鳥井(あすかい)雅教の子宗満を養子に迎え「宗房」と改名。飛鳥井家も松木家と同格の羽林家。 

  • 松木宗房(16代)・・・1537(天文6)年 ~ 1593(文禄2)年
    (1)松木宗藤の養子
    (2)正二位・権中納言

    (3)加賀姫とは義理の姉弟
戦国時代
1515年(永正12)
加賀姫生誕
松木宗藤の息女加賀姫生まれる(幸田神社の棟札の年号から逆算)
 加賀姫の生誕地は不詳。
戦国時代
1532年~40年
(天文年間の初め頃)
加賀姫17歳~25歳頃智積へ来る











1532年~40年頃(天文年間の初め頃)、加賀姫が17~25歳頃、父親宗藤に伴われて智積に来る。
加賀姫が智積へ来た年について
  1. 『櫻村地誌』には、天正年中(1573~1592)に、松木家の息女加賀姫が乱を避けて本村に来たと記しています。

  2. しかし、『巌助往年記』は「永禄三年、五月、伊勢黄門圓寂 中将俄下国事有之」とあります。(『巌助往年記』の著者巌助は、松木宗藤の弟)
    「松木宗藤が、永禄3年(1560)5月に死亡した」と記す。
     ●松木宗藤(伊勢黄門)は死亡した。
     ●伊勢黄門・・・中納言の唐名を「黄門」という。(例・水戸黄門)
     ●圓寂・・・・・涅槃に入ること。入寂。

  3. 加賀姫誕生年と、加賀姫が父親松木宗籐に伴われて智積へ来た年代について考察
    1. 『巌助往年記』に松木宗藤は、永禄3年(1560年)5月死亡と記す。

    2. 『櫻村地誌』は「天正年中(1573~1592年)に父宗藤が加賀姫を伴って智積へ来る」と記しますが、これは宗籐の死後となるので、採用できません。

    3. そこで、加賀姫90歳で「幸田神社」を創建した年が慶長10年(1605年)なので、これから逆算して、加賀姫の「誕生年」を1515年とする。

    4. 加賀姫が父松木宗藤に伴われて智積へ来た年は、山田教雄先生の「天文年間の初め頃」説に沿って、加賀姫17歳~25歳頃としました。
「加賀屋敷」と「字姫御前平(あざひめごぜひら)」について
  1. 「加賀屋敷」
    『明治十七年編伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』は、「天正年中、西京縉紳家(しんしんけ。高い官位を有する家格)松木殿(中御門別号)息女加賀姫、乱を避けて本村東境即ち智積村の地に住す。今にその地を加賀屋敷と唱う。今是れを加賀屋敷と旧字せり。
    また、「櫻一色村の名主・町野清兵衛に姫の世話を依頼する。」と記します。

  2. しかし、翌年に作成された『三重郡櫻村地誌付属六千分壹之圖』には、「加賀屋敷」も「加賀屋敷という旧字の所在地」も記載されていません。
    考えられることは、明治初年頃まで、当地では「加賀姫の伝承として「加賀屋敷」と「加賀屋敷という旧字」の位置は、村人の誰もが認知していた」。しかし、これらの該当地は、恐らく既に他者の所有地となっていて、地図上には表記不可能であったかと推察されます。

  3. 「字姫御前平(あざひめごぜひら)」は、加賀姫の所有地・化粧料地で、現在の西高校のグラウンドの西端辺りです。
    • 明治17年調べ「姫御前平」の反別(田畑の面積)は、三町六反八畝五歩≒3.65ヘクタール。
    • 化粧料地(化粧田)とは、中世(鎌倉・室町・戦国時代)、女性が親の生前に与えられた相続財産です。
戦国時代
1548年(天文17)
加賀姫33歳
加賀姫の父・松木宗藤、智積で出家(59歳)。(出典『嚴助往年記』)
戦国時代
1560年(永禄3)
加賀姫45歳
加賀姫の父・松木宗藤、智積で死去(70歳)。(出典『嚴助往年記』)
 『巌助往年記』に、「永禄三年(1560年)、五月、伊勢黄門圓寂 中将俄下国事有之」とある。
安土桃山時代
1583年(天正11)
加賀姫68歳
当地は織田信雄(のぶかつ)の所領となる。
荘園制の崩壊。
安土桃山時代
1587年(天正15)
加賀姫72歳
智積御厨の当主・松木宗房(松木宗藤の養子)は、当地で残務整理を終えて上洛し、再び帰らなかった。
しかし、加賀姫は智積に残る。
1600年~幕末
(慶長5~
   慶応3)
加賀姫85歳
1594年(文禄3)、伊勢国で太閤検地が行われ、現・四日市桜地区は、佐倉村・櫻一色村・智積村の三村となって江戸時代を迎えた。
佐倉村 慶長5(1600)年から亀山藩領。元和元(1615)年頃から天領。
寛永13(1636)年から津藩領となり幕末を迎えた。
櫻一色村 慶長5(1600)年から亀山藩領。慶長16(1611)年頃から神戸藩領。
寛永13(1636)年から津藩領となり幕末を迎えた。
智積村 慶長6(1601)年から桑名藩領。宝永7(1710)年から天領。正徳5(1715)年から天領と長島藩領との共有地。享保11(1726)年から有馬藩領と長島藩領との共有地。天保12(1841)年から天領と有馬藩領との共有地となり幕末を迎えた。
江戸時代
1605年
(慶長10)

加賀姫90歳
 幸田神社創建



幸田神社の棟札
加賀姫は、信仰していた京都伏見神社の神霊を勧請して「幸田神社」を建立
  • 幸田神社創立年・・・慶長10年(1605)8月12日
    この時、加賀姫90歳
    (なお、加賀姫は99歳の長命であったと伝えられています)
  • 「幸田神社の棟礼」は、加賀姫の自筆であると伝えられています。
       イナリ大明神
       松木家
       御九十女  花押

  • 副署・・・慶長十年タツ八月十二日
            大工 六郎兵衛      
「棟礼(むなふだ、むねふだ)とは、寺社建築・民家等において、その建物の建築・修理等の記録として、建物の棟木(むねき)・梁(はり)など建物内部の高所に貼り付ける木の札。
江戸時代
1667年
(寛文7)


幸田神社
再建又は修理
「・・・・・椿岸神社所蔵の文書には、幸田神社棟札の一つに、寛文七年(1667)3月の日付をもつ、藤堂大学頭、伊賀少将高宙のものもあったと記し、無各社であってもこの神社に対する厚い崇敬の念がしのばれるのである。」と、『西勝精舎聞書抄』(山田教雄氏著)に記されています。

「幸田神社の棟礼」の「藤堂大学頭、伊賀少将高宙」は誰か?
「考察」
  1667年(寛文7)当時の時代背景
  1. 荘園制度の解体後、江戸幕府が成立して、現・桜地区は「智積村」と「佐倉村」と「櫻一色村」の3村となり、以後、村役人を通じて年貢と諸役を村全体の責任で納める「村請制度」が施行される。

  2. 三村のうち、佐倉村と櫻一色村は、寛永13年(1636年)から幕末まで「津藩領」となる。

  3. 津藩の初代藩主藤堂高虎は、慶長13年(1608)に、徳川家康から伊賀国一円と伊勢国(鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡)の領主に命ぜられ初代津藩主となる。
    寛永7年(1630年)死去。
    寛永7年(1630年)、高虎の長男・藤堂高次、二代津藩主となる
    官位・従四位下侍従大学頭、 左近衛少将、和泉守

  4. 寛永13年(1636年)、二代津藩主藤堂高次は父高虎が養子として育てた高吉(丹波秀長の三男(1579~1670年))を、伊賀国名張に2万石で移封した。
    藤堂高吉名張藤堂家の祖となる。
    官位・従五位下 宮内正輔
【結論】
  • 以上の考察から、「藤堂大学頭」は、藤堂高虎の長子の津藩主藤堂高次を指し、一方、伊賀少将高宙は、藤堂高虎の養子・名張藩主藤堂高吉と判明しました。
    寛文7年(1667)3月当時、津藩領内の櫻村の「幸田神社」は、加賀姫が1605年(慶長10)に創建後約60年経過しており、おそらく建て替え又は修繕等が行われた際の棟札ではないかと推測されます。
    「幸田神社」が、津藩主藤堂高次名張藩主藤堂高吉の庇護を受けたか否か等の事情は不明ながら、両者の棟礼が残っているということは、すなわち幸田神社の存在価値や重要性が大きかったと推察されます。


椿岸稲荷神社(旧称・幸田(こうだ)神社)の由緒
創立年: 慶長10年(1605年)8月12日 
「智積御厨」の領主・松木宗藤の息女「加賀姫」が、 京都の伏見稲荷神社の祭神(倉稲魂神(うかのみたまのかみ)=五穀豊穣の神)を勧請して、“幸田神社”を創建しました。
創立者: 智積御厨の領主・松木家の当主・松木宗籐の息女加賀姫(別名幸田姫)
祭神: 京都の伏見稲荷神社の祭神の五穀豊穣の神・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を勧請。
京都の伏見稲荷神の鎮座の位置は、山城国風土記逸文に、「伊那利(イネナリ)」、稲が生じた所とあるところから、瑞祥文字の「稲荷」が当てはめられたといわれています。
「稲荷」と「きつね」との関連は、稲荷大神とその神使(眷族)の関係です。
  伊勢神宮の「鶏」、春日大社の「鹿」の関係と同じです。

祭日: 3月2日、9月30日であった。
場所: 幸田神社は櫻村字南垣内(あざみなみかいと)に鎮座・・・元標から4町40間(約509m)
上記【明治十八年作櫻村村・智積絵図】を参照。
規模 境内・東西10間3尺(約19m)、南北7間3尺(約14m)、
面積79坪(約261㎡)
経緯:
  • 江戸期、当地は佐倉村櫻一色村智積村の三村であった。
  • 明治期になると、
    • 1875年(明治 8)、佐倉村と櫻一色村が合併して「櫻村」となり、「智積村」と合わせて二村となる
    • 1889年(明治22)、櫻村と智積村が合併して、「櫻村」一村となる。
  • 1909年(明治42)、明治政府の「一村一社の神社合祀」の方針に沿って、「幸田神社」は椿岸神社に合祀される。

  • 1945年(昭和20)、GHQの指導で「国家神道」は解体され、神社と行政機関との接点が全廃され、全てが宗教法人となった。信教の自由の確立。

  • 1960年(昭和35)、「幸田神社」は、昔を懐かしむ人々の声によって、「椿岸稲荷神社」と名を変えて、椿岸神社本殿の東側に再建・遷座された。

                                (文責:永瀧 洋子)

(参考文献:『明治十七年編伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『明治十七年作『伊勢國三重郡智積村地誌』、『明治十八年作伊勢國三重郡櫻村地誌附属之圖』、『明治十八年伊勢國三重郡智積村附属之圖』、『西勝精舎聞書抄』『伊勢の智積郷ー様相と史料ー』(山田教雄著)、『四日市市史第16巻』『巌助往年記』醍醐寺理性院巌助著。『加賀姫と幸田神社』故当会員辻又吉著 (更新・2020年3月18日)