桜の史跡NO.13
        
         (かがひめ と つばきぎしいなりじんじゃ) (旧称・幸田神社)
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椿岸神社拝殿右横の椿岸稲荷神社
椿岸神社の住所:四日市市智積町684

姫御前橋(ひめごぜんばし。通称ひめごぜばし
四日市西高等学校の北の矢合川に架かる。


 時は安土桃山時代。 やむごとなき姫君が、親類縁者ことごとく京へ帰った後も、独り残って鄙(ひなび)たこの地で暮らしていました。 
 艶やかだった黒髪もやがて白髪となり、姫は齢(よわい)九十にして、当時、天皇・皇族・貴族の格別に篤い(あつい)信仰を集め、格式高かった「伏見稲荷神社の祭神(倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、五穀豊穣の神)」を勧請し、稲穂の実るこの地に相応しくその名も幸(さきはふ)田、幸田(こうだ)神社を建立しました。
 その姫の名は加賀姫。父は公卿の正三位権中納言松木宗藤(まつのきむねふじ)、当地「智積御厨(ちしゃくみくりや)」の領主でした。
 加賀姫は、応仁の乱の戦乱で荒廃した京を去り、1547年(天文11)父に伴われて当地へ来ました。
 時は流れ、やがて武士の世になり、荘園制度は崩壊。松木家の関係者は帰京しました。
しかし加賀姫にとって、此の地は父と共に穏やかな日々を過ごし、父の最後を看取った掛け替えの無い所です。彼女は自分の生きる場所を”この地”と決め、最晩年に幸田神社を創建したのでした。

 当地の人々は、そんな加賀姫を愛(いと)おしく想いつつ、干害の時も、暴風雨の時も、いつも神の御加護と農作物の豊作を願って祈りを捧げ、400年以上もの永きにわたって、加賀姫の伝承と神社を守り今日に継承してきました。


【明治十八年伊勢國三重郡智積村地誌及び同櫻村地誌の附属之図】
下図は、明治十八年作『伊勢國三重郡智積村地誌附属之圖』と『同櫻村地誌附属之圖』の両地図を繋ぎ合わせ、文言等を適宜挿入したものです。(加工作成・eitaki)

当地図では、加賀姫が建立した「幸田神社」は「字南垣内」に在り、加賀姫の「化粧料地」の「字姫御前平(あざひめごぜひら)」は矢合川南岸にある。現在「幸田神社」は椿岸神社境内へ遷座して「椿岸稲荷神社」と神社名変更。一方、加賀姫の「化粧料地」は県立四日市西高校のグラウンドとなる。


    加賀姫父松木宗藤智積御厨
      (智積御厨の詳細は、「智積御厨と多宝山智積寺」をご参照ください)
1160〜1167年間
(永暦元〜仁安2)
この頃、当地に西園寺家(さいおんじけ)智積御厨(ちしゃくみくりや)が成立する。(『荒木田章氏等申状』) 
(この時代の「御厨(みくりや)」は「荘園」と実質的には同じとされる)
1330年頃
 (元徳2頃)
  • 婚姻による財産分与などで、智積御厨の所有者西園寺家から中御門家(なかみかどけ)へ移る。
  • 中御門家は、藤原北家太政大臣道長の次男・頼宗を祖とし、宗量(宗宣)は、松木家(まつのきけ)を称するようになる。
    松木家の家業は楽道・笙(しょう、雅楽用の管楽器
  • 智積御厨の境域は智積・桜を中心に、上海老、下海老、神森(近世の森村)、平尾に広がっていた。
1499年
 (明応8)
松木宗量の孫の宗綱は、京の戦乱を避けて、子の宗籐らを伴い智積に移り住むようになる。
以後、松木家の宗綱、宗籐、宗房の三代にわたって80余年あまり智積に在住するが、この間当主や息子たちは度々上洛している。

松木宗綱・・・ 1444(文安元)年 〜 1525(大永5)
        松木宗量の孫 従一位准大臣(室町幕府将軍足利義稙の信任得る)
        智積で死亡。
松木宗籐・・・1490(延徳2)年 〜 1560(永禄3)年
        智積で元服  正三位権中納言 加賀姫の父
松木宗房・・・1537(天文6)年 〜 1593(文禄2)年
        宗籐に後嗣が無かった為、飛鳥井雅教の子息宗満を養子に迎え、
        宗房と改名。 正二位・権中納言
        加賀姫とは義理の姉弟となる。  
1515年(永正12)
加賀姫 生誕
松木宗藤の息女加賀姫生まれる。(幸田神社の棟札の年号から逆算)
誕生地は不詳。
1547年頃(天文16頃)
加賀姫 32歳
この頃、加賀姫は京の戦乱を避け、父親宗藤に伴われて智積に移り住む。
(『伊勢の智積郷』の著者・山田教雄氏の説による。宗藤は永禄3年に死亡。従って、加賀姫が父に伴われて京から当地へ来た年は、『櫻村地誌』の説・天正年間ではない)
★『明治十七年編伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』は、「天正年中西京松木殿息女加賀姫、乱を避けて本村東境即ち智積村の地に住す。今にその地を加賀屋敷と唱う・・・」と記す。
  • このとき、宗藤は加賀姫を智積村西端の旧字・加賀屋敷に住まわせ、桜一色村の名主・町野清兵衛に姫の世話を依頼する。
  • 加賀姫の所有地・化粧料地「字・姫御前平(あざ・ひめごぜひら)で、現在の西高校のグラウンドの西端辺り。
    (明治18年調べ「姫御前平」の反別(田畑の面積)は、三町六反八畝五歩≒3.65ヘクタール)

    【明治十八年伊勢國三重郡智積村地誌及び同櫻村地誌の附属之図】を参照。
1548年(天文17)
加賀姫 33歳
加賀姫の父・松木宗藤、智積で出家。(『嚴助往年記』)
1560年(永禄3)
加賀姫 45歳
松木宗藤、智積で死去。(『嚴助往年記』)
この時加賀姫45歳。
1583年(天正11)
加賀姫 68歳
当地は織田信雄(のぶかつ)の所領となる。荘園制の崩壊。
1587年(天正15)
加賀姫 72歳
当主・松木宗房は当地で残務整理を終えて上洛し再び帰らなかったが、加賀姫は智積に残る。
1605年(慶長10)
加賀姫 90歳
幸田神社の棟札

加賀姫、信仰していた京都伏見神社の神霊を勧請して幸田神社を建立。

この時、加賀姫90歳。

棟札は加賀姫自筆と伝えられている。

また、加賀姫は99歳の長命であったと伝えられている。




    
    
椿岸稲荷神社(旧称・幸田神社)の由緒
創立年: 慶長10年(1605年)8月12日 「智積御厨」の領主・松木宗藤の息女「加賀姫」が、 京都の伏見稲荷神社の祭神・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を勧請して、“幸田神社”創建を創建。
場所・・・ 字南垣内
創立者: 荘園領主・松木家の当主・松木宗籐の息女加賀姫(別名幸田姫)。
祭神: 京都の伏見稲荷神社の祭神の五穀豊穣の神・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を勧請。
京都の伏見稲荷神の鎮座の位置は、山城国風土記逸文に、「伊那利(イネナリ)」、稲が生じた所とあるところから、瑞祥文字の「稲荷」が当てはめられたといわれています。
(「稲荷」と「きつね」との関連は、稲荷大神とその神使(眷族)の関係で、伊勢神宮の「鶏」、春日大社の「鹿」の関係と同じです)

祭日: 3月2日、9月30日であった。
場所: 幸田神社は字南垣内(あざみなみかいと)に鎮座していた。
【明治十八年作櫻村村・智積絵図】
を参照。(現・桜町南公民館の南方。旧・字大門(あざだいもん)とも伝えられている
規模 境内東西10間3尺、南北7間3尺、面積79坪(約261u)
経緯:
  • 1909年(明治42)、明治政府の「一村一社の神社合祀」の方針に沿って、幸田神社は椿岸神社に合祀される。
  • 1960年(昭和35)、「幸田神社」は、昔を懐かしむ人々の声によって、「椿岸稲荷神社」と名を変えて椿岸神社本殿の東側に再建・遷座された。
                                                  (文責:永瀧 洋子)

(参考文献:『明治十七年編伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『明治十七年作『伊勢國三重郡智積村地誌』『明治十八年作伊勢國三重郡櫻村地誌附属之圖』、『明治十八年伊勢國三重郡智積村附属之圖』、『西勝精舎聞書抄』『伊勢の智積郷』(山田教雄著)、『四日市市史第16巻』)、『加賀姫と幸田神社』(故当会員辻又吉著)