桜の史跡地図⑳    桜の史跡説明板集⑳
関連ページ: 「桜観音堂」NO.16   劇工房MAKO企画・創作劇「さくら城に沈む月」 

(五七桐・小林城主家の家紋)  目  次
 1、はじめに  5.1539年(天文8年)の戦い
 2.一生吹山城と佐倉城の概略  6.佐倉城は何故攻略されたのか?
 3.佐倉城主小林氏の出自  7.佐倉城の再興とその後
    長島一向一揆
    1689年、津藩川原田組無足人
 4.小林一族から武将の出現  8.川名や地名に託して戦いを伝承


1.はじめに
  •  世はまさに戦国時代、天文8年(1539年)夏7月9日、ここ四日市市桜地区は戦場となりました。

     わが郷土の戦国武将・佐倉城主小林豊前守重則(こばやしぶぜんのかみしげのり)は、鈴鹿郡川崎(現・亀山市川崎町森字殿町)の峯城主峯盛定(みねもりさだ)が進撃して来たのを、一生吹山(いしょぶきやま)の砦城で迎え撃ちました。 
     やがて死守する砦の陥落危うくなり、止む無く生水川(しょうずがわ、現・矢合川(やごうがわ))の北岸まで後退して、追ってきた峯軍と川を挟んで矢を射合う激戦となりました。
     ここを先途と死力を尽くすも、何分多勢に無勢、頼み綱の千種氏から援軍も来ないまま、刀折れ、矢尽き、力尽き、哀れ弱冠18歳の城主小林重則は殿原(とのはら、矢合川沿いにあった地名)で自害して果てました。(・・・と、このように伝承されてきました)

     戦場となった「一生吹山」の山上は、昭和末期に桜地区指定史跡と定められ、「一生吹山の歴史」という説明板が建てられました。
     私たちは皆様の歴史的興味を中世にいざない、皆様一人一人がこの戦の様子を後世へ伝える「語り部」となって頂きたいと願っております。

     なお、1539年前後の小林家関係の歴史資料が残存しないため、「佐倉城」または「桜城」のいずれの表記が用いられたか不明です。 江戸時代に書かれた『保曽井物語』、『勢陽五鈴遺響』、『紀伊続風土記』、『伊勢名勝志』は其々「佐倉城」と記し、更に昭和末期~平成14年発行の『四日市市史』の関連ページ、そして桜郷土史の先学故山田教雄氏等々、全ての先行文献は「佐倉城」と表記し、小林家の御子孫も「佐倉城」と記されています。これに準じて本稿も「佐倉城」とします。


2.一生吹山城と佐倉城の概略

(1)

一生吹山城(砦)
・・・四日市市智積町毘沙門天4705
一生吹山
「一生吹山」 標高109.6m (矢合川北岸より望む)

1. 標高109mの一生吹山(現・智積町字一生吹山)には、1369年(応安2・正平24)に小林丹後守重利(しげとし)が、一生吹山の頂上に築いたと推測される山城(砦)がありました。(参照【絵図ー1】

2. それから170年後の1539年(天文8)、小林豊前守重則は居館である佐倉城を出て、かねてより修復しておいたこの山城(砦)で敵将・峯大和守盛定と対峙しました。

3. つまり小林氏は、平時には平地に築いた佐倉城に住み、戦時には直線距離にして約1.3km 離れた一生吹山の山城(砦)に出て戦うという戦法をとった典型的な戦国武将でした。

【地図NO.1】
 佐倉城、一生吹山城、殿原、伝承の川名(矢落川、矢合川)の位置
「四日市市地図情報(GIS)」を基に作成)

4. 一生吹山の城は、山城、砦城、出城(でじろ)、一生吹山城、智積(ちしゃく)城といろいろに呼ばれました。
“城”とはいえ戦国時代の“山城”は、自然地形を活かして手を加えただけの土木工事施設で、主郭の周辺の崖を削って“切岸(きりぎし)”とし、土塁(土を盛り上げて築いた堤防状の防壁)を築き、谷筋を加工して堀切(ほりきり)とするなど、敵を城に取りつかせない(登らせない)よう、最大限に防御力を高める工夫がされました。

5. 一生吹山城の遺構跡としては、現在公園と四日市水道局配水池がある所が主郭で、公園の東南角に残るわずかな赤土の盛土が“土塁跡”、公園東側に特に顕著に残る切り立った絶壁と南側の崖が“切岸跡”と見なされています。 

6. ところで、一生吹山城で“ふいご口(ふいご羽口)”が発見され、永年「桜地区暮らしの資料館」に展示されていました。
ふいご羽口が出土したということは、刃こぼれを鍛え治す鍛冶場か、槍や矢の穂先を作る鋳物工場が在り、籠城戦にも耐え得る備えがあったと考えられますが、詳細は不明です。
しかし、非常に残念なことですが、当資料館取り壊しの際に、「ふいご羽口」は行方不明となりました。

(2) 佐倉城の位置 (佐倉城・・・現存せず)

佐倉城は現在の桜町110番地・伊藤酒造様東側に隣接する地(桜町字南垣内)にありました。
【地図NO.2】   佐倉城の概略位置
佐倉城の概略位置図
「四日市市地図情報(GIS)」の面積測定モードを基に作成。
赤格子枠は佐倉城域で、面積は地誌の記録とほぼ同一の4,339㎡

『明治17年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』によると
佐倉城域面積は1,312坪(約4,329.6㎡)、域内東西29間、南北29間3尺。
四方に土塁と堀あり。土塁敷8間、高9尺。馬踏4間。堀濶(堀のひろさ)3間、深さ不詳と記されています。
この『佐倉城推定図』は、故松平邦男氏(元桜郷土史研究会の会員)が2005年11月作成されました。

(3) デジロ祭と神社合祀
一生吹山城は出城(でじろ)とも呼ばれ、何時頃か定かではありませんが「浅間神社(祭神・木花佐久夜比賣命(このはなのさくやひめ)」が祀られました。
城主小林重則が自害した7月9日に因んで、村人によって毎年7月1日に「デジロ祭」が催され、若くして逝った重則の痛恨の情を慰霊する行事が明治時代まで続けられていました。
ところが、この浅間神社は、明治42(1909)年に明治政府の政策で「一村一社の神社合祀」が桜地区でも実施されて、椿岸神社に合祀されました。

(4) 毘沙門天を勧請
昭和3(1928)年、有志によって今度は信貴山より「毘沙門天(びしゃもんてん)が勧請(かんじょう)されました。
それ以来、毎年4月3日の「毘沙門さんの例祭」には植木市が開かれ、近郷からも人々が集まって大いに賑わい、殊に昭和の高度経済成長期には、世話方と住民が一致協力して花火も打ち上げられるほど盛大なお祭りでした。
平成の今もなお4月3日の例祭は粛々と執り行われています。



 一生吹山の山頂は小公園となっています。
 4月3日の毘沙門天例祭の頃には桜が満開となり、秋には楓の紅葉が楽しめます。
 また晴れた日には伊勢湾の眺望がきくので、ウォーキングを兼ねて参拝に訪れる人がたくさんいます。
毘沙門天の鳥居
満開の桜に映える「毘沙門天」の鳥居
一生吹山毘沙門天
「一生吹山毘沙門天」

一生吹山毘沙門天境内
一生吹山毘沙門天境内




・・・公園に静かに佇み、桜の如くはかなく散った若き佐倉城主小林重則に思いを馳せると、悠久の時空を流れる風が爽やかに吹き過ぎてゆくのが感じられます・・・


         (写真撮影:2010年4月)




3.佐倉城主小林氏の出自
  1. 小林郷を開拓した地方豪族
    鎌倉時代 文永年間(1264~75年)、当地は智積御厨(ちしゃくみくりや)という伊勢神宮に寄進された御厨でした。(「御厨」は10世紀以降、荘園とほぼ同質化した)
    この頃、智積御厨を構成する郷は、「小林郷」(現智積町)「瓜生郷(うりゅうごう)(現菰野町神森西、江戸期の神田村))「森郷」(現菰野町神森東、江戸期の森村)「衣比原(えびはら)上・下2郷」(現・上・下海老原(えびはら)町)「庭田郷」(現・平尾町)の6郷がありました。(『藤原公行譲状案』) 「智積御厨」についてはここから
    これらの郷々は、743年「墾田永年私財法」発布以降、資材を持つ権門勢家の西園寺家が地元の開発豪族と協力して開拓された田地と集落から形成され、おそらく「小林郷」はそうした豪族の一人小林氏の主導によって開拓された郷であろうと推測されます。

  2. 小林一族は智積御厨の下司(げし)を務め、さらに小林薬師も護持する
    室町時代 1458年(長禄2)になると、智積御厨は「中村郷」(現・智積町)「桜郷」「一色郷」「森郷」「平尾郷」「上衣比原郷」と郷名の変遷がありました。
    • 「小林郷」は智積御厨の核となる「中村郷」に吸収され、この「中村郷」に“下司(げし)を務める名主として小林氏の名”が認められます。(長禄2年『伊勢国智積御厨年貢帳』)

      【註】下司(げし)とは、
      開発(在地)領主が補任され、免税の給田が与えられ、荘園内の年貢や雑税の徴収など実務を行う荘園管理者・荘官としての地位を保全された。しかし、荘園の支配や境界をめぐる紛争解決のために、中には武士となる者もいた。



4.小林一族から武将の出現
  1. 南北朝時代、小林丹後守重利(こばやしたんごのかみしげとし)伊勢国司北畠氏の指図で築城
    1369年(応安2・正平24)9月、南朝方の伊勢国司北畠顕能(あきよし)は子の顕泰(あきやす)を大将として、北朝方の伊勢守護土岐頼康を三重郡刑部郷(おさかべごう)の戦闘で撃退させ、その後直ちに北朝方の再侵攻に備え三重郡の武将に要害を築かせます。 (出典『伊勢国司記略』)
     これを受けて、智積御厨内で勢力を張る豪族の小林丹後守重利一生吹山麓の字御所新田に初めて築城して住みます(出典『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』及び『同智積村地誌』、明治17年は1884年
    この時、戦闘に備えて一生吹山頂に砦も築いたであろうと推定されています。 

    小林丹後守重利が築城した場所について
     上述の「櫻村地誌』と「智積村地誌」の両記述を、『伊勢国三重郡智積村地誌附属之図』(明治18年10月作製)と突き合わせて考察すると、
    • 現在の「エビノ園」は、見晴らしの利く丘陵地の智積町字大谷にあります。
    • 「エビノ園」の東側の丘陵地は、この『地誌附属之図』を見ると「字御所新田」の一部分であり、恐らく小林丹後守重利は、見晴らしの利くこの小高い丘に「居城」を築いたと考えられます。
    • 同時に、一生吹山の山頂に「砦」も築造したと考えられています。
      (なお、小林城主家が平地に居城を移した時期等は不明です)

      【絵図ー1】
      この地図は、明治18年作『伊勢国三重郡智積村地誌附属之図』の一部分に、小林丹後守重利の「城」と「砦」の位置、及び現在の「エビノ園」を記入作成しました。(文責・eitaki)


  2. 室町時代、小林但馬守
    1462年(寛正3)、小林但馬守は、伊勢国司北畠教具(のりとも)から、三重郡桜の田畑2500貫を授けられた。(出典・桜町『佐野家文書』)

  3. 戦国時代、曽井城主を助ける・・・小林丹波守
    1515年(永正12)、北山田城主河嶋宮内との境地紛争戦に負けた曽井城主志村忠相が寺方城(若菜隼人)へ逃げ込んだので、この曽井城主に味方して佐倉城主小林丹波守は、菰野城主若尾図書と共に寺方城に楯籠って戦い勝って、志村城主を曽井城へ無事帰城させています。(『保曾井物語』)
    ★この佐倉城主小林丹波守が、次項1539年(天文8)に敗死する小林豊前守重則の父親です。



5.1539年(天文8年)の戦い
 佐倉城主小林豊前守重則、峯城主峯盛定に攻略される
  1. 1539年(天文8)7月9日
    関一族5家(関宗家、国府(こう)家、鹿伏兎(かぶと)家、峯(みね)家、神戸(かんべ)家)の1家である鈴鹿郡川崎の峯城主峯盛定が、3千とも言われる大軍を率いて小岐須(おぎす)、岸田、和無田(わんだ)を経て当地に進軍してきました。
    小林豊前守重則率いる佐倉軍は、かねてより修復しておいた一生吹山の山城(砦城)に陣を敷いて峯軍を迎え討ちましたが攻防ならず、止む無く生水川しょうずがわ矢合川(やごうがわ)の旧称))の北岸まで後退。
    追って来た峯軍と川を挟んで矢を射合う激戦となるも、遂に若き城主重則は生水川北岸の地(後に殿原(とのはら)と呼ばれる)で自害して果て佐倉城は落城しました。
    この戦で多くの家臣が戦死し、殉死した者さえあったと伝えられています。

  2. 城主小林重則の幼少の嫡子は、家臣や乳母に連れられ赤水(あこず。現・四日市市赤水町)へと密かに難を逃れていました。(『伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』)

  3. この戦いで主家とも頼む千種氏は援軍を出してきませんでした
    何故ならば、この時期千種氏は、近江の六角定頼と結んだ員弁郡の梅戸氏と、安濃郡の長野氏と結んだ朝明郡の朝倉氏との対立、すなわち“北伊勢の物資の集散地・桑名の支配を巡る攻防”に巻き込まれ、一歩も動けない緊迫状態に置かれていたからです。
    • 翌1540年(天文9)12月、遂に千草城は落城。
      近江の六角氏は千種城を攻撃しこれを攻略した。
      • 本願寺證如は六角定頼に、「今般勢州千種之儀、甲卒()為如御本意候条、御快然察申候」との書状とともに、祝儀として太刀、馬などを送っている。
         (出典・『石山本願寺日記』天文九年十一月二九日、一二月十五条)
      • 「天文九年十二月十五日、・・・勢州千草城早々落居事、・・・」
         (出典・『証如上人日記』)
        以後、千種氏は六角氏の被官となり、千種城は六角氏の北伊勢侵攻の拠点となった。

    参考までに
    織田信長 生誕:1534年(天文3) 1539年(天文8)当時、5歳
    豊臣秀吉 生誕:1537年(天文6) 1539年(天文8)当時、2歳
    徳川家康 生誕:1542年(天文11)
    種子島へ鉄砲伝来 伝来:1543年(天文12)

  • 峯城の位置:三重県亀山市川崎町森44(峰城跡)
    「峰城跡」から「一生吹山城跡」(四日市市智積町一生吹山毘沙門天王)までの距離と徒歩での所要時間
     国道306号経由の場合・・・距離=15.5㎞、徒歩=3時間14分



6.佐倉城は何故攻略されたのか?
(1)戦国時代、北勢地方の勢力分布
  1. 戦国時代、志摩を除く伊勢国の勢力分布は、雲出川(くもずがわ)を境として、南伊勢五郡を領する伊勢国司家の北畠氏、安濃・奄芸二郡に長野氏、そして鈴鹿郡の関氏の三つの勢力があり、中でも当地と距離的に近い関氏は、関宗家(亀山城)、神戸家(澤城後に神戸城)、国府家(国府城)、鹿伏兎家(鹿伏兎城)、峯家(峯城)の五家に分かれ、各々勢力を伸ばしていました。

  2. 北伊勢の朝明郡には、室町幕府から伊勢神宮内宮領10ヶ所の地頭職を与えられ、幕府の奉公衆として活躍した朝倉・海老名(えびな)・佐脇・疋田(ひきた)・富永・横瀬・南部(なんぶ)の各氏が「(伊勢国)十ヶ所人数」として組織されていました。(三河方面に本拠地を持つ者が多く、南北朝時代に北勢に来たと推定されている。朝倉氏がリーダー的存在)
    また員弁郡を中心として、員弁・朝明郡の地名を有する在地領主の多湖(たご)・宇佐美・田能村・大木・萱生(かよう)・伊坂・梅戸の各氏は、北方一揆(きたかたいっき)を組織していました。(土着的で各領主の規模は小さく、梅戸氏がリーダー的存在)

    「十ヶ所人数」と「北方一揆」は、いずれも交通の要衝に城館を持ち、流通路支配、関銭徴収を行っていましたが、16世紀半ば、近江の六角氏が北伊勢に進出して梅戸氏と手を組み、近江~伊勢を結ぶ“八風越え”と“千種越え”の商品流通路を押さえ「桑名」を支配下に置いたため、それまで「十ヶ所人数」と「北方一揆」に組織されていた国人たちは、やがて六角氏のもとで新しい国人組織として再編成されていきました。

  3. 三重郡には千種氏(後醐醍天皇に仕えた千種忠顕(ただあき)の子孫)が、伊勢と近江を結ぶ千種越えの要衝に城を構え、三重郡24郷の豪族をその支配下におき大いに勢威があり、佐倉城主小林氏はこの千種氏の支配下にありました。

  4. 同じく三重郡の赤堀氏は北伊勢の有力国人として勢力を誇り、15世紀初頭、伊勢守護土岐康政の被官として智積御厨に関する幕府の命令を執行するなど活躍がみられます。
    しかし、1428年(正長元)の正長の乱で関氏ととも北畠満雅に味方して幕府と戦い、満雅が敗死した後、赤堀氏は降伏して没落の危機に陥っています。
    やがて半世紀後の1473年(文明5)頃になると、定期市「四日市庭(よっかいちば)が立つようになり、更に16世紀初頭には海の交通・交易の中心が「羽津(はず)浦」から「四日市庭(よっかいちば)浦」に移って、赤堀氏は市場と港と廻船を掌握して再び勢力を伸ばしていました。

(2)峯氏と小林氏の確執
 (小林氏と峯氏の関連事項を年代順に見ていきます)
  1. 15世紀中葉、峯氏智積御厨の代官を務めた時期がありました。(『四日市市史第16巻』、『伊勢国智積・川嶋山田境指図』醍醐寺文書)

  2. 1486年(文明18)、峯弾正忠(みねだんじょうのちゅう)は、智積御厨領家の松木宗綱に「去年に続き今年も押領する」と室町幕府に訴えられています。(この頃は代官ではなかった)(『室町幕府奉行人奉書案』醍醐寺文書)

  3. 3、佐倉城主小林氏の出自でみたように、15世紀中葉、小林氏は智積御厨の「中村郷」出身の下司で土着の権利を支えとする荘官です。一方、鈴鹿郡の峯氏は智積御厨の請負代官を務めたことがあり、両者間には智積御厨の利権を巡る軋轢(不和、葛藤)が考えられます。

  4. 1529年(享禄2)、椿岸神社(この頃は現・桜町西区字椿尾に在った)と延福寺(小林氏が護持する寺)が兵火に遭い、翌1530年には智積御厨本所が夜盗によって炎上するなど、当地も戦乱の渦に巻き込まれていました。

  5. 16世紀初頭以降、四日市庭の発展にともない、「智積」は四日市庭と近江を結ぶ近江国の四本商人の商業流通路である千種越えの中継地点となっていました。
    • 『今堀日吉神社文書集成』の「67号 丹生川太郎兵衛書状」は、北伊勢にいる四本(しほん)商人傘下の足子(あしこ)の住所と名前について、四本商人からの問い合わせに対する太郎兵衛の返答書ですが、これによると、北伊勢11か所に18人の足子がおり、智積には次郎衛門と衛門大夫の2人の足子がいたことが分かります。

    • 当時の智積には、伊勢国内最大規模を誇る「智積御厨」の所有者・公家松木宗綱が1499年(明応8)、「応仁の乱(応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)」で荒廃した京を去り智積御厨を直接支配するため、家族を伴って当地に移り住んで以来、三代にわたって居住していました。
      公家一家の智積在住によって、”京都の文化”が当地方(智積御厨)に伝播して、当地方の経済流通の活発化を促し、東海地方の美濃紙や、伊勢湾の海産物など多彩な商品の集散が盛んになり、やがて智積の二人の足子を介して、小規模ながらも市庭(市場)が開かれたことが推測されます。

    • その市庭(市場)の場所は、智積の「仕丁町」辺りと推定されます。(「仕丁町」は、智積御厨の政庁である「御所垣内」の直ぐ東側)(出典・山田教雄著『伊勢の智積郷』)
      「仕丁町」の位置→【明治十八年伊勢國三重郡智積村地誌及び同櫻村地誌の附属之図】の右端中央

    • こうした状況下、佐倉城主小林氏は「市庭(市場)」の開設に伴う通行量増加と交易の発展がもたらす一連の利権に、少なからず関与したことが考えられます。

  6. 佐倉城はなぜ攻略されたのか?
    智積御厨は、早くも1360年(延文5)頃には、面積180町、年貢30石を納める伊勢国内有数の御厨でした。
    それから約180年後の1539年(天文8)の戦の頃には、更に一段と灌漑(かんがい)用水路(今井川、武佐川、山上井)の開削・整備が進展し、二毛作・牛馬耕を取り入れ、農具・肥料の改善も加えられて、より一層実り豊かな穀倉地域に成長していたであろうと推察されます。

    方や、峯氏は、かつて「智積御厨」の請負代官を務めた自負もあり、今や「智積御厨」が農作物のみならず、一段と魅力的な発展を遂げている「智積御厨」の”利権”(四本商人の足子の拠点として栄える“市庭
    (市場)の商業権益”等)を、奪取する機が熟すのを今や遅しと準備万端整えて待機していた。

    そこへ、小林重則の父親・小林丹後守が死去して、若い重則に城主交代したその隙をつき、しかも、小林家が主家と頼む千種家も窮地にあって動けないという情報5.1539年(天文8)の戦い-4)は、峯氏にとって絶好のチャンス、軍勢を整え一気に攻勢をかけてきた、と考察されます。

【用語解説】
  • 千種越え
    四日市庭(現四日市市三滝川河口付近)~智積~千種(菰野町)~根の平峠~現滋賀県永源寺町甲津畑~山上~八日市へ向う。
  • 四本(しほん)商人
    室町~戦国期、鈴鹿山脈を越える八風・千種両道の交通を独占し、伊勢方面(桑名十楽の津や四日市庭)との取引に従事した近江湖東の4ヶ所(石塔(いしどう)、保内(ほない)、小幡(おばた)、沓掛(くつかけ))の商人をいい、16世紀には保内商人が他の三本を抑えて伊勢山越え商売に君臨し、四本商人といえば保内商人の同義語であった。
    (千種氏は千種越えや八風越えの独占的通行権を保内商人に与え、その見返りに役銭を徴収していた。『今堀日吉神社文書集成』「140号 保内商人申状案」)
  • 足子(あしこ)
    毎年、従属する四本商人やその他の座商人に対し年貢銭を納め、商品の運搬や商売の下請けなどの権利を与えられ街道沿いに散在した。

【参考文献】
  • 『四日市市史第16巻』
    「四本商人の足子が・・・(略)・・・智積・田光に居住した・・・(略)。これらの地は桑名・四日市庭はもちろんのこと市が開かれ、諸物資の集散が盛んに行われた事であろう。」近世の員弁郡市場村(藤原町)、保々の市場村の名称は、中世の史料にはあらわれないけれども、中世の市場に由来したものと考えて誤りないであろう」とする説。
  • 『伊勢の智積郷』山田教雄著「足子商人の基地」の説。
  • 『今堀日吉神社文書集成 91号』
    近江国内の足子の商売は、従属する商人の小売販売区域内に制限されていたことが分かります。この事例から、伊勢国内の足子も一定地域内での商売が可能であったと推測されます。



7.佐倉城の再興とその後
(1)戦後と佐倉城再興
  1. 1539年(天文8)7月の矢合川で敗戦した後、小林家の縁者や村人たちは、城主小林重則の遺体は勿論のこと、戦死者の遺体を敵味方の区別無く収容し手厚く葬りました。
    • 小林家の子孫は下屋敷内に城主・重則を弔う六組堂(むくみどう)を建てて薬師如来を祀り、毎年7月9日には、他の戦死者の供養も併せて明治初年に至るまでの永きに亘り、法事を営み墓を守り続けてきました。
    • 昭和56年以降は、佐倉城主の五輪塔とその他多数の墓石は「桜観音堂の階段横」に移設され、毎年4月18日頃開かれる「観音まつり」の日に、安正寺住職様によって法要が営まれています。(関連史跡「桜観音堂」をご参照ください)

  2. 1570年(元亀元)、曽井城主志村忠春は、織田信長軍の北伊勢侵攻に備え、千種城主千種忠治と共に一生吹山に籠城。(出典・『保曾井物語』、『伊勢国三重郡智積村地誌』) 
    (ここに小林重則の遺子重定の名は記されていないが、翌年佐倉城を再興していることから千種氏と共に居た可能性が高いと考えられます)

  3. 1571年(元亀2)、「一生吹山の戦い」から32年を経て、三重郡赤水(あこず)に難を逃れて成長した故小林重則の嫡子重定は、八郎左衛門重定と名乗り、千種氏の斡旋で佐倉へ戻り「佐倉城」を再興しました。
    佐倉城落城の時、乳飲み子であった重定、32歳にして念願を果たしました。


  4. 長島一向一揆  1571年(元亀2)~ 1574年(天正2)
    浄土真宗本願寺勢力と織田信長の戦い「石山合戦(元亀元年(1570年)~天正8年(1580年)」に伴い、伊勢長島(三重県桑名市)の「願証寺(蓮如の六男・蓮淳が住職)」を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。
    1. 1570年(元亀元年)9月、本願寺法主顕如は諸国の門徒に対し檄文(げきぶん)を送り、織田信長との戦いに参加するよう蜂起を要請した。
    2. 同年10月、長島門徒は織田信長の実弟・信興が守る一向宗抑えの「小木江(こきえ)(現・愛知県愛西市)」を攻め、信興を自害に追い込んだ。
      • 同時期の1570年(元亀元年)9月~12月、織田信長は浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺との戦い「志賀の陣」で苦戦中であった。
      • 木曽川・長良川・揖斐川に囲まれた輪中地帯(デルタ地帯)に居住する人々は、伊勢桑名から尾張熱田までの荷物運搬海路を掌握し、伊勢湾岸さらには東国との交易に従事する人々がいた。
        一向宗のネットワークは交易にたずさわる人々によって全国に張り巡らされていた。(出典・『戦国乱世を生きる力』神田千里著、『織豊政権と江戸幕府』池田裕子著)
    3. 第一次長島攻め(1571年(元亀2年)
      5月12日、織田信長は木曽川・長良川河口地帯の長島を三方から攻めさせた。
      16日、信長は「詫び言」を受け入れ一揆を赦免して、村々に火を放って撤退の際、退路で待ち構えていた長島一揆勢のゲリラ戦法で、柴田勝家は負傷、殿(しんがり)を務めた氏家直元が討ち死。
      • 同年(1571年9月)、信長、延暦寺を焼き討ちする。
    4. 第二次長島攻め(1573年(元亀4年)
      9月26日、信長は今の桑名駅の西側に陣を構え、桑名郡周辺の在地領主を攻めた。
      • 伊坂、萱生、赤堀、田辺、桑部、南部、千種、長深などの在地領主が信長の陣に出頭し「人質進上候て御礼申し上げ候」と挨拶した。人質を差し出して帰服の挨拶をした在地領主は安堵された。
      信長は桑名に城を築き滝川一益を入城させて引き揚げる際、またも門徒のゲリラ部隊に追撃された。
    5. 第三次長島攻め(1574年(天正2年)
      7月13日、長島征伐のため、九鬼義隆や滝川一益らが大型軍船・安宅船(あたけぶね)を出し、織田信雄は木造・田丸らを武将として大船で参陣して、海上から一揆方の城郭に大鉄砲を以て攻め滅ぼした。
      • 当時の戦闘では、戦場の惨禍を逃れるために城に非難していた非戦闘員の男女は助命されることが多かったが、信長は許さなかった。
      • 長島の一向一揆方壊滅。一揆勢の死者は2万人と言われ凄惨を極めた。
      • 「長島一向一揆」に門徒として失格を宣言し、このような者たちの城に避難しても助からないことを広く民衆にアピールした。
        ”出家にもかかわらず乱れた行為を行い、鳥・魚を食すなど戒律を守らず、金銀やわいろを事として浅井・朝倉に贔屓した”と『信長公記』が記すように、出家失格の比叡山に避難した下女や小童を無差別に殺害していることも同様のアピールと考えられる。
        すなわち、”出家失格の比叡山や長島門徒に、乱世の住民を守る危機管理能力はない”・・・というのが、非戦闘員虐殺による信長のメッセージであった。(出典・『戦国乱世を生きる力』神田千里著)
      • 織田大名滝川一益が北伊勢に入る。
      • 人質を差し出した北伊勢の在地領主はそのまま存続するが、信長に使われていく。
    • 「信長公記」は上記のように織田信長の第一次~第三次長島攻めの様子と、対する一向宗「長島願正寺」側の人々の攻防の様子を記し、「伊勢長島」には「佞人(ねいじん・へつらう人)・凶徒」が集まって本願寺の念仏修行もせず、世俗的な栄華を追求し、領国大名の支配に服せず、罪人を匿っていると非難しています。
    • しかし室町時代末から戦国時代期、特定の寺院は世俗の権力・権利・義務から絶縁(無縁)の原理に支えられ、諸国の犯罪人や逃亡人などの「避難所・無縁所」として機能・普及していました。
      「本願寺」をはじめ伊勢長島の「願正寺」も、この原理で犯罪人や逃亡した下人や生活に困窮した庶民などを追手から保護していました。
      しかし、織田信長や豊臣秀吉はこれに激しく敵対し、やがて1855年(天正16年)の秀吉の「刀狩令」は、百姓等ばかりではなく寺社勢力の武器をも没収したため、寺社勢力は権力闘争から消えていきます。   (出典・『戦国時代の北伊勢』播磨良紀著、『愛知県史 通史編3.中世2織豊』、『信長公記(地図と読む現代語訳)』中川太古訳)、『織豊政権と江戸幕府』池上裕子著、『戦国乱世を生きる力』神田千里著)

  5. 「長島一向一揆」当地へ波及
    1. 「教尊法師」の三男「安正寺」の次男藤四郎と三男藤八は「長島合戦」で討死(詳細不詳)。(出典・『西勝精舎聞書抄』山田教雄著)
    2. 1575年(天正3年)、教尊法師の孫・教重を城主とする近江の「山田城」は、織田信長勢の攻撃を受け落城。(関連ページ「教尊法師の碑」の「4.山田城の創建から落城まで」へリンク
    3. 長島一向一揆を生き延びた千種氏は、織田信長の幕下に属したようで、天正12年(1584年)頃の織田信勝分限帳では、千種家が三重郡千草郷で950貫を知行している。(出典・『三重県の地名』日本歴史地名大系24、平凡社)
      1615年(慶長20)「大坂夏の陣」で千種顕理が討死して千種家嫡流は断絶しました。
      しかし江戸時代以降も、千種氏一族と智積村・佐倉村・桜一色村との繋がりは続きました。
       (関連ページ「椿岸神社の獅子舞」のページの「冠峰山」へリンク)

(2)その後の小林家城主家の動向 
  但し、印の欄は小林家の分家・・・「大坂の夏の陣」以降、菰野藩に出仕した。
1582年
(天正10)
小林八郎左衛門重定、滝川一益の甲州武田攻めに従軍。帰還後、朝明郡縄生村に200石の知行地を得る。
6月、本能寺の変(明智光秀の謀反により、織田信長本能寺で自害)
この頃、小林重定の養子重忠(千草忠治の第二子忠正)、織田信孝に仕える。
1583年
(天正11)
織田信勝・羽柴秀吉ら織田家宿老と、織田信孝・柴田勝家・滝川一益の戦いで、北伊勢が戦場となる。
1614~15年
(慶長19~20)
大坂の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)
小林八郎左衛門重定の養子平右衛門重忠、亀山城主松平下総守忠明に従い大坂へ出陣。
大阪の役後
(年月不明) 

大坂の夏の陣後、重忠は家督を嫡子道順に譲り、道因と改名して菰野藩土方杢之助殿に仕える。(1654年承応3、83歳にて死去)

1618年
(元和4)
小林八郎左衛門重定、80歳にて死去。
寛永年中
(1624~44)
徳川幕府が1615年(慶長20)に発令した大名統制策「一国一城令」に従い、小林道順、佐倉城を取り壊す。
1689年
(元禄2)
小林次左衛門(道因倅)と小林与市右衛門(次左衛門倅)は、津藩川原田組無足人として名が記される。
津藩領の「無足人」は、(他藩の郷士や地士などと同じで)在村していて知行や俸禄を得ない農兵を組織していた。地侍の系譜をひき、一年の大部分は農業に従事する上層農民であったが、苗字帯刀を認められ、他の者たちと区別された扱いを受けた。
(出典・「元禄二年川原田組無足人由緒改帳」『四日市市史第八巻』)
江戸期に入り、(佐倉村は津藩に属したので)藤堂和泉守在城の正月五日には、小林家当主は決まって五ツ時(午前8時)に挨拶に赴き、藤堂家家老が単独でその賀詞を受納する習わしであった。(出典・『西勝精舎聞書抄』山田教雄著)
1698年
(元禄11)

菰野藩に仕えた小林平右衛門重忠の子道因重信は、この頃御医師として金拾五両拾人扶持であった。(「菰野町図書館・資料室蔵)

幕末~明治 幕末から明治にかけて、次左衛門、勝之進、太郎と相続する。
1907年
(明治40年)
小林太郎氏は、菰野小学校教諭を経て、明治40年12月桜村の村長に就任。
1909年
(明治42)
10月、桜村村長の小林太郎氏は、神社合祀の心労により急死。
1914年
(大正3)
小林太郎氏夫人みさは駅前へ移住して煙草小売店を営む。
以降、佐倉城跡は細分化され宅地となっています。



8.川名や地名に託して「戦い」を継承
(1)矢合川(やごうがわ)
  1. 当地では、天文8年(1539年)戦闘以降、「川を挟んで”矢を射合った”ので、矢合川(やごうがわ)と呼ばれるようになった」・・・と言い伝えられています。

  2. また更に詳しい伝承として、激戦地であった「殿原」付近の川、つまり東名阪自動車道の高架橋と矢合川が交わる辺りの川を「矢落川(やおちがわ)」、その下流付近(高角村に間近)を「矢合川(やごうがわ)」と呼び分けて、壮絶な戦さの有様を「川名」に託して世代から世代へと伝えられました。
    (伝承の川名は上掲の【地図NO.1】をご参照ください


  3. しかし、「矢落川」や「矢合川」の呼び名は、「負け戦さ」の連想で忌み嫌われたためか、智積村の公式文書には用いられることなく時は流れ、資料に「矢合川」の名称が表れるのはずっと後になります。
    ~戦国時代
    1561年(永禄4)頃
    現・矢合川は「智積川(ちしゃくがわ)と呼称されていた。(出典・『勢陽五鈴遺響』安岡親毅著)
    江戸時代

    享保18年(1733)作『佐倉村・櫻一色村・智積村山野論立会絵図』に、全域を流れる川が描写され、「今井川(いまいがわ)とのみ記す。
    天明6年(1786)以降の作とされる『智積村絵図』は、主に智積村地内を描き「生水川(しょうずがわ)と記す。
    明治時代 明治17年編纂の『伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』・・・桜村地内「今井川」
    明治17年編纂『伊勢国三重郡智積村地誌』・・・智積村地内「生水川」
    『明治23年測図同26年製版・桜村』(二万分の一、「大日本帝国陸地測量部製作」)に、「矢合川(やごうがわ)」と明記されている。
    (明治22年(1889)、市町村制施行に基づき、桜村と智積村が合併して「桜村」となったのに伴い、おそらく川名も一本化が望ましいと、故事に因んだ「矢合川」が正式採用されたと推測されます)

(2)殿原(とのはら)
  1. 「東名阪自動車道の高架橋」の南、「矢合川」の北岸の水田は、昔「殿原」という字名(あざめい)でした。
    (「殿原」の位置は【地図NO.1】でご確認ください。)

    殿原の位置
    「殿原」を中心に撮影 「矢合川」は右端道路の右側です。
                   (写真撮影:2010年4月)

  2. 殿様が腹を召された(自害した)土地を「トノハラ」と村人は呼び習わしたが、直接的過ぎる「殿腹」の文字を故意に避けて「殿原」と表記したと伝承してきました。

  3. しかし、明治6年(1873年)の地租改正に伴って、「殿原」と「八ノ坪」と「生水上」の隣接する3つの字(あざ)を合わせて「生水(しょうず)という字になりました。

  4. 明治17年(1884年)編纂の『智積村地誌』及び『桜村地誌草稿』に、「小林豊前守重則智積村字殿原(今、字生水)に於いて自害廃城となる」の記述があります。

  5. 現在、「矢合川」は桜地区を象徴する川名として残り、一方「殿原」という字名(あざめい)は、前述したように「生水(しょうず)」に改称されたため、地元でも知らない人が多くなって、歴史的名称の「現存」と「風化」とに明暗を別けています。
    一方「一生吹山」で、
    明治の末期まで「デジロ祭」が催行され、人々にたいへん親しまれていたため、「一生吹山」を戦国時代の呼称のまま「出城山(でじろやま)と呼び慣れていました。
    しかし、ここ10年ぐらいの間に明治末期から大正初期生まれの世代が減少しているので、いずれこの「出城山(でじろやま)」も忘却の彼方に去ることでしょう。


  6. 智積町在住で”歴史好き”と自己紹介して下さった女性の貴重な話(2010年度桜地区文化祭にて)
    「私が幼かった頃、お祖母さんが『トノハラ(殿原)で”用足し”したらあかんよ、殿さんのバチが当たるよ!』と、何度も注意されました。」

  7. 地名「殿原」
    • 『小林家系図』には、「智積村ト云フアリ。其村ニ殿腹と云ふ処アリ」と注記し、佐倉村城主小林重則が天文8年(1539)城と運命をともにして自刃した場所」と記されているとあります。(出典・『伊勢の智積郷』山田教雄著)
    • 『明治十七年伊勢国三重郡智積村地誌』と『同桜村地誌』には、「佐倉城主小林重則は殿原に於いて自害」と記載されています。
    • 「殿原で自害した」と、地元では今も語り継がれています。

    しかしながら、『日本史辞典』(岩波書店)等各種歴史辞典には、「殿原は男子に対する敬称のひとつで、中世後期には地侍層の人々を殿原とよんだ」等々と解説されています。
    「従って、当地においても、殿原と呼ばれた地侍が住んだ所が地名”殿原”として残り、それは佐倉城主小林重則が自害する以前から在ったとも考えられる」ことを付記しておきます。

                            ー 完 ー
(文責・永瀧 洋子)
                            
参考文献:『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌』、『西勝精舎聞書抄』『伊勢の智積郷』(山田教雄著)、『四日市市史第7巻、第8巻、16巻』、『中世惣村史の研究』仲村研著、『八日市市史第2巻』、『五個荘町史第1巻』、『菰野町史上巻』、『菰野藩分限帳』、『桜小学校の百年』、『伊勢国司記略』(斎藤拙堂著、天保12年(1841)刊行)、『保曽井物語』(凮狂人大通著、寛政7年(1775)、『定本三国地誌』(藤堂元甫著、宝暦13年(1763)編)、『伊勢名勝志』(宮内黙蔵著、明治22年(1889)編)、『泗水№11 地名に偲ぶ中世の佐倉(桜)』(小関俊郎著)、『佐倉城推定図』(作・松平邦男元桜郷土史研究会員)、『戦国時代の北伊勢』播磨良紀著、四日市大学、『地図と読む現代語訳・信長公記』中川太古、『愛知県史 通史編3.中世2織豊』、『織豊政権と江戸幕府』池上裕子著、『戦国乱世を生きる力』神田千里著) 2010年5月18日更新、2022年8月16日更新