桜の史跡地図⑳ 桜の史跡説明板集⑳ 関連ページ: 「桜観音堂」NO.16 劇工房MAKO企画・創作劇「さくら城に沈む月」 |
![]() |
|
1、はじめに | 5.1539年(天文8年)の戦い |
2.一生吹山城と佐倉城の概略 | 6.佐倉城は何故攻略されたのか? |
3.佐倉城主小林氏の出自 | 7.佐倉城の再興とその後 長島一向一揆 ![]() 1689年、津藩川原田組無足人 ![]() |
4.小林一族から武将の出現 | 8.川名や地名に託して戦いを伝承 |
![]() |
||
|
![]() |
|||||
(1) |
一生吹山城(砦)・・・四日市市智積町毘沙門天4705 |
||||
|
|||||
1. | 標高109mの一生吹山(現・智積町字一生吹山)には、1369年(応安2・正平24)に小林丹後守重利(しげとし)が、一生吹山の頂上に築いたと推測される山城(砦)がありました。(参照【絵図ー1】) |
||||
2. | それから170年後の1539年(天文8)、小林豊前守重則は居館である佐倉城を出て、かねてより修復しておいたこの山城(砦)で敵将・峯大和守盛定と対峙しました。 |
||||
3. | つまり小林氏は、平時には平地に築いた佐倉城に住み、戦時には直線距離にして約1.3km 離れた一生吹山の山城(砦)に出て戦うという戦法をとった典型的な戦国武将でした。 |
||||
|
|||||
4. | 一生吹山の城は、山城、砦城、出城(でじろ)、一生吹山城、智積(ちしゃく)城といろいろに呼ばれました。 “城”とはいえ戦国時代の“山城”は、自然地形を活かして手を加えただけの土木工事施設で、主郭の周辺の崖を削って“切岸(きりぎし)”とし、土塁(土を盛り上げて築いた堤防状の防壁)を築き、谷筋を加工して堀切(ほりきり)とするなど、敵を城に取りつかせない(登らせない)よう、最大限に防御力を高める工夫がされました。 |
||||
5. | 一生吹山城の遺構跡としては、現在公園と四日市水道局配水池がある所が主郭で、公園の東南角に残るわずかな赤土の盛土が“土塁跡”、公園東側に特に顕著に残る切り立った絶壁と南側の崖が“切岸跡”と見なされています。 |
||||
6. | ところで、一生吹山城で“ふいご口(ふいご羽口)”が発見され、永年「桜地区暮らしの資料館」に展示されていました。 ふいご羽口が出土したということは、刃こぼれを鍛え治す鍛冶場か、槍や矢の穂先を作る鋳物工場が在り、籠城戦にも耐え得る備えがあったと考えられますが、詳細は不明です。 しかし、非常に残念なことですが、当資料館取り壊しの際に、「ふいご羽口」は行方不明となりました。 |
||||
(2) | 佐倉城の位置 (佐倉城・・・現存せず) 佐倉城は現在の桜町110番地・伊藤酒造様東側に隣接する地(桜町字南垣内)にありました。 |
||||
|
|||||
![]() 佐倉城域面積は1,312坪(約4,329.6㎡)、域内東西29間、南北29間3尺。 四方に土塁と堀あり。土塁敷8間、高9尺。馬踏4間。堀濶(堀のひろさ)3間、深さ不詳と記されています。 |
|||||
|
|||||
(3) | デジロ祭と神社合祀 一生吹山城は出城(でじろ)とも呼ばれ、何時頃か定かではありませんが「浅間神社(祭神・木花佐久夜比賣命(このはなのさくやひめ)」が祀られました。 城主小林重則が自害した7月9日に因んで、村人によって毎年7月1日に「デジロ祭」が催され、若くして逝った重則の痛恨の情を慰霊する行事が明治時代まで続けられていました。 ところが、この浅間神社は、明治42(1909)年に明治政府の政策で「一村一社の神社合祀」が桜地区でも実施されて、椿岸神社に合祀されました。 |
||||
(4) | 毘沙門天を勧請 昭和3(1928)年、有志によって今度は信貴山より「毘沙門天(びしゃもんてん)」が勧請(かんじょう)されました。 それ以来、毎年4月3日の「毘沙門さんの例祭」には植木市が開かれ、近郷からも人々が集まって大いに賑わい、殊に昭和の高度経済成長期には、世話方と住民が一致協力して花火も打ち上げられるほど盛大なお祭りでした。 平成の今もなお4月3日の例祭は粛々と執り行われています。 |
||||
![]() 一生吹山の山頂は小公園となっています。 4月3日の毘沙門天例祭の頃には桜が満開となり、秋には楓の紅葉が楽しめます。 また晴れた日には伊勢湾の眺望がきくので、ウォーキングを兼ねて参拝に訪れる人がたくさんいます。 |
|||||
![]() 満開の桜に映える「毘沙門天」の鳥居 |
![]() 「一生吹山毘沙門天」 |
||||
![]() 一生吹山毘沙門天境内 |
・・・公園に静かに佇み、桜の如くはかなく散った若き佐倉城主小林重則に思いを馳せると、悠久の時空を流れる風が爽やかに吹き過ぎてゆくのが感じられます・・・ (写真撮影:2010年4月) |
||||
![]() |
![]() |
|
|
![]() |
||
|
![]() |
||||||||||||
佐倉城主小林豊前守重則、峯城主峯盛定に攻略される
|
![]() |
|
(1)戦国時代、北勢地方の勢力分布
|
|
(2)峯氏と小林氏の確執 (小林氏と峯氏の関連事項を年代順に見ていきます)
|
![]() |
||||||||||||||||||||||||||
(1)戦後と佐倉城再興
但し、※印の欄は小林家の分家・・・「大坂の夏の陣」以降、菰野藩に出仕した。
|
![]() |
||||||
(1)矢合川(やごうがわ)
|
||||||
(2)殿原(とのはら)
|
||||||
ー 完 ー | ||||||
(文責・永瀧 洋子) |
参考文献:『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌』、『西勝精舎聞書抄』『伊勢の智積郷』(山田教雄著)、『四日市市史第7巻、第8巻、16巻』、『中世惣村史の研究』仲村研著、『八日市市史第2巻』、『五個荘町史第1巻』、『菰野町史上巻』、『菰野藩分限帳』、『桜小学校の百年』、『伊勢国司記略』(斎藤拙堂著、天保12年(1841)刊行)、『保曽井物語』(凮狂人大通著、寛政7年(1775)、『定本三国地誌』(藤堂元甫著、宝暦13年(1763)編)、『伊勢名勝志』(宮内黙蔵著、明治22年(1889)編)、『泗水№11 地名に偲ぶ中世の佐倉(桜)』(小関俊郎著)、『佐倉城推定図』(作・松平邦男元桜郷土史研究会員)、『戦国時代の北伊勢』播磨良紀著、四日市大学、『地図と読む現代語訳・信長公記』中川太古、『愛知県史 通史編3.中世2織豊』、『織豊政権と江戸幕府』池上裕子著、『戦国乱世を生きる力』神田千里著) 2010年5月18日更新、2022年8月16日更新 |