桜の史跡地図⑳    桜の史跡説明板集⑳
関連ページ:「桜観音堂」NO.16   劇工房MAKO企画・創作劇「さくら城に沈む月」 


(五七桐・小林城主家の家紋)  目  次
 1、はじめに  5.1539年(天文8年)の戦い
 2.一生吹山城と佐倉城の概略  6.佐倉城は何故攻略されたのか?
 3.佐倉城主小林氏の出自  7.佐倉城の再興とその後
 4.小林一族から武将の出現  8.川名や地名に託して戦いを伝承


1.はじめに
  •  世はまさに戦国時代、天文8年(1539年)夏7月9日、ここ四日市市桜地区は戦場となりました。

     わが郷土の戦国武将・佐倉城主小林豊前守重則(こばやしぶぜんのかみしげのり)は、鈴鹿郡川崎(現・亀山市川崎町森字殿町)の峯城主峯盛定(みねもりさだ)が進撃して来たのを、一生吹山(いしょぶきやま)の砦城で迎え撃ちました。 
     やがて死守する砦の陥落危うくなり、止む無く生水川(しょうずがわ、現・矢合川(やごうがわ))の北岸まで後退して、追ってきた峯軍と川を挟んで矢を射合う激戦となりました。
     ここを先途と死力を尽くすも、何分多勢に無勢、頼み綱の千種氏から援軍も来ないまま、刀折れ、矢尽き、力尽き、哀れ弱冠18歳の城主小林重則は殿原(とのはら、矢合川沿いにあった地名)で自害して果てました。(・・・と、このように伝承されてきました)

     戦場となった「一生吹山」の山上は、昭和末期に桜地区指定史跡と定められ、「一生吹山の歴史」という説明板が建てられました。
     私たちは皆様の歴史的興味を中世にいざない、皆様一人一人がこの戦の様子を後世へ伝える「語り部」となって頂きたいと願っております。

     なお、1539年前後の小林家関係の歴史資料が残存しないため、「佐倉城」または「桜城」のいずれの表記が用いられたか不明です。 江戸時代に書かれた『保曽井物語』、『勢陽五鈴遺響』、『紀伊続風土記』、『伊勢名勝志』は其々「佐倉城」と記し、更に昭和末期~平成14年発行の『四日市市史』の関連ページ、そして桜郷土史の先学故山田教雄氏等々、全ての先行文献は「佐倉城」と表記し、小林家の御子孫も「佐倉城」と記されています。これに準じて本稿も「佐倉城」とします。



2.一生吹山城と佐倉城の概略

(1)

一生吹山城(砦)
・・・四日市市智積町毘沙門天4705
一生吹山
「一生吹山」 標高109.6m (矢合川北岸より望む)

一生吹山の砦城が在った所には、現在、四日市市水道局の「一生吹山配水池」と、その奥に「毘沙門天」が祀られています。(一生吹山の「毘沙門天」へリンク



1. 標高109mの一生吹山(現・智積町字一生吹山)には、1369年(応安2)に小林丹後守重利(しげとし)が築いた山城がありました。

2. それから170年後の1539年(天文8)、小林豊前守重則は居館である佐倉城を出て、かねてより修復しておいたこの山城(砦城)で敵将・峯大和守盛定と対峙しました。

3. つまり小林氏は、平時には平地に築いた佐倉城に住み、戦時には直線距離にして約1.3km 離れた一生吹山の山城に出て戦うという戦法をとった典型的な戦国武将でした。

【地図NO.1】
 佐倉城、一生吹山城、殿原、伝承の川名(矢落川、矢合川)の位置
「四日市市地図情報(GIS)」を基に作成)

4. 一生吹山の城は、山城、砦城、出城(でじろ)、一生吹山城、智積(ちしゃく)城といろいろに呼ばれました。
“城”とはいえ戦国時代の“山城”は自然地形を活かして手を加えただけの土木工事施設で、主郭の周辺の崖を削って“切岸(きりぎし)”とし、土塁を築き、谷筋を加工して堀切(ほりきり)とするなど、敵を城に取りつかせない(登らせない)よう、最大限に防御力を高める工夫がされました。

5. 一生吹山城の遺構跡としては、現在公園と四日市水道局配水池がある所が主郭で、公園の東南角に残るわずかな赤土の盛土が“土塁跡”、公園東側に特に顕著に残る切り立った絶壁と南側の崖が“切岸跡”と見なされています。 

6. ところで、一生吹山城で“ふいご口(ふいご羽口)”が発見され、永年「桜地区暮らしの資料館」に展示されていました。
ふいご羽口が出土したということは、刃こぼれを鍛え治す鍛冶場か、槍や矢の穂先を作る鋳物工場が在り、籠城戦にも耐え得る備えがあったと考えられますが、詳細は不明です。
しかし、非常に残念なことですが、当資料館取り壊しの際に、「ふいご羽口」は行方不明となりました。

(2) 佐倉城の位置 (佐倉城・・・現存せず)

佐倉城は現在の桜町110番地・伊藤酒造様東側に隣接する地(桜町字南垣内)にありました。
【地図NO.2】   佐倉城の概略位置
佐倉城の概略位置図
「四日市市地図情報(GIS)」の面積測定モードを基に作成。
赤格子枠は佐倉城域で、面積は地誌の記録とほぼ同一の4,339㎡

『明治17年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』によると
佐倉城域面積は1,312坪(約4,329.6㎡)、域内東西29間、南北29間3尺。
四方に土塁と堀あり。土塁敷8間、高9尺。馬踏4間。堀濶(堀のひろさ)3間、深さ不詳と記されています。
『佐倉城推定図』は、故松平邦男氏(元桜郷土史研究会の会員)が2005年11月に作成されました。

(3) デジロ祭と神社合祀
一生吹山城は出城(でじろ)とも呼ばれ、何時頃か定かではありませんが浅間神社(祭神木花佐久夜比賣命(このはなのさくやひめ))が祀られました。
城主小林重則が自害した7月9日に因んで、村人によって毎年7月1日に「デジロ祭」が催され、若くして逝った重則の痛恨の情を慰霊する行事が明治時代まで続けられていました。
ところが、この浅間神社は、明治42(1909)年に明治政府の政策で「一村一社の神社合祀」が桜地区でも実施されて、椿岸神社に合祀されました。

(4) 毘沙門天を勧請
昭和3(1928)年、有志によって今度は信貴山より毘沙門天が勧請(かんじょう)されました。
それ以来、毎年4月3日の「毘沙門さんの例祭」には植木市が開かれ、近郷からも人々が集まって大いに賑わい、殊に昭和の高度経済成長期には、世話方と住民が一致協力して花火も打ち上げられるほど盛大なお祭りでした。
平成の今もなお4月3日の例祭は粛々と執り行われていますが、以前ほどの賑わいはなくなりました。


 一生吹山の山頂は小公園となっています。
 4月3日の毘沙門天例祭の頃には桜が満開となり、秋には楓の紅葉が楽しめます。
 また晴れた日には伊勢湾の眺望がきくので、ウォーキングを兼ねて参拝に訪れる人がたくさんいます。
毘沙門天の鳥居
満開の桜に映える「毘沙門天」の鳥居
一生吹山毘沙門天
「一生吹山毘沙門天」

一生吹山毘沙門天境内
一生吹山毘沙門天境内
・・・公園に静かに佇み、桜の如くはかなく散った若き佐倉城主小林重則に思いを馳せると、悠久の時空を流れる風が爽やかに吹き過ぎてゆくのが感じられます・・・

             (写真撮影:2010年4月)


3.佐倉城主小林氏の出自
  • 小林郷を開拓した地方豪族
    鎌倉時代 文永年間(1264~75年)、当地は智積御厨(ちしゃくみくりや)という伊勢神宮に寄進された荘園で、「小林郷」(現智積町)「瓜生郷(うりゅうごう)(現菰野町神森西、江戸期の神田村))「森郷」(現菰野町神森東、江戸期の森村)「衣比原(えびはら)上・下2郷」(現・上・下海老原(えびはら)町)「庭田郷」(現・平尾町)の6郷がありました。(『藤原公行譲状案』) 「智積御厨」についてはここから
    これらの郷々は、権門勢家の西園寺家が地方豪族と協力して開拓された田地と集落から形成され、おそらく「小林郷」はそうした豪族の一人小林氏の主導によって開拓された郷であろうと推測されます。

  • 小林一族は智積御厨の下司(げし)を務め、さらに小林薬師も護持する
    室町時代 1458年(長禄2)になると智積御厨は、「中村郷」(現・智積町)、「桜郷」、「一色郷」、「森郷」、「平尾郷」、「上衣比原郷」と郷名の変遷がありました。「小林郷」は智積御厨の核となる「中村郷」に吸収され、この郷に“下司を務める名主”として小林氏の名が認められます。(『伊勢国智積御厨年貢帳』)

    【註】下司(げし)とは
    開発(在地)領主が補任され、免税の給田が与えられ、荘園内の年貢や雑税の徴収など実務を行う荘園管理者・荘官としての地位を保全されたが、荘園の支配や境界をめぐる紛争解決のために、中には武士となる者もいた。 

    また同年貢帳には、小林薬師(後の小林山延福寺)を小林氏が護持していることが記載されており、総じて小林一族は勢威をふるっていたことがうかがえます。(長禄2年『智積御厨年貢帳』、及び小林山延福寺の「本尊由来の木札」)  (智積御厨関連ページはここから)、  (「延福寺跡」のページはここから)



4.小林一族から武将の出現
  • 南北朝時代、伊勢国司北畠氏の指図で築城・・・小林丹後守重利(こばやしたんごのかみしげとし)
    1369年(正平24)、南朝方の伊勢国司北畠顕能(あきよし)は子の顕泰(あきやす)を大将として、北朝方の伊勢守護土岐頼康を三重郡刑部郷(おさかべごう)の戦闘で撃退させ、その後直ちに北朝方の再侵攻に備え三重郡の武将に要害を築かせます。 (『伊勢国司記略』)
     これを受けて、小林丹後守重利は一生吹山麓の字御所新田に築城して住みます。(『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』及び『同智積村地誌』) またこの時、戦闘に備えて一生吹山頂に砦も築いたであろうと推定されます。 
    当時の居城の位置を『伊勢国三重郡智積村地誌附属之図』(明治18年10月作製)から推定すると、今の智積町字大谷にある「エビノ園」の近くの「四日市インターゴルフ」・・・見晴らしの利く小高い丘に居城が在ったと考えられます。(「四日市インターゴルフ」の現在の住所は川島町6346ですが、明治時代には智積村字御所新田でした)
    なお、小林城主家が平地に居城を移した時期等は不明です。

  • 室町時代小林但馬守
    1462年(寛正3)、小林但馬守は、伊勢国司北畠教具(のりとも)から、三重郡桜の田畑2500貫を授けられた。(桜町『佐野家文書』)

  • 戦国時代、曽井城主を助ける・・・小林丹波守
    1515年(永正12)、北山田城主河嶋宮内との境地紛争戦に負けた曽井城主志村忠相が寺方城(若菜隼人)へ逃げ込んだので、この曽井城主に味方して佐倉城主小林丹波守は、菰野城主若尾図書と共に寺方城に楯籠って戦い勝って、志村城主を曽井城へ無事帰城させています。(『保曾井物語』)
    ★この佐倉城主小林丹波守が、次項1539年(天文8)に敗死する小林豊前守重則の父親です。



5.1539年(天文8年)の戦い

 佐倉城主小林豊前守重則、峯城主峯盛定に攻略される
  • 1539年(天文8)7月9日
    関一族5家(関宗家、国府(こう)家、鹿伏兎(かぶと)家、峯(みね)家、神戸(かんべ)家)の1家である鈴鹿郡川崎の峯城主峯盛定が、3千とも言われる大軍を率いて小岐須(おぎす)、岸田、和無田(わんだ)を経て当地に進軍してきました。
    小林豊前守重則率いる佐倉軍は、かねてより修復しておいた一生吹山の山城(砦城)に陣を敷いて峯軍を迎え討ちましたが、攻防ならず止む無く生水川しょうずがわ矢合川(やごうがわ)の旧称))の北岸まで後退。追って来た峯軍と川を挟んで矢を射合う激戦となるも、遂に若き城主重則は生水川北岸の地(後に殿原(とのはら)と呼ばれる)で自害して果て佐倉城は落城しました。
    この戦で多くの家臣が戦死し、殉死した者さえあったと伝えられています。

  • 城主小林重則の幼少の嫡子は、家臣や乳母に連れられ赤水(あこず。現・四日市市赤水町)へと密かに難を逃れていました。 この戦いで主家とも頼む千種氏は援軍を出してきませんでした
    何故ならば、この時期千種氏は、近江の六角定頼と結んだ員弁郡の梅戸氏と、安濃郡の長野氏と結んだ朝明郡の朝倉氏との対立、すなわち“北伊勢の物資の集散地・桑名の支配を巡る攻防”に巻き込まれ、一歩も動けない緊迫状態に置かれていたからです。 翌1540年(天文9)12月、遂に千草城は落城。(『証如上人日記』、「天文九年十二月十五日、・・・勢州千草城早々落居事、・・・」)

    参考   
    ◎種子島へ鉄砲伝来・・・天文12年(1543年)
    ◎織田信長生誕・・・天文3年(1534) 1539年(天文8)この事件当時、信長5歳。
    ◎豊臣秀吉生誕・・・天文6年(1537)        〃       秀吉2歳。
    ◎徳川家康生誕・・・天文11年(1542)  

  • 峯城の位置:三重県亀山市川崎町森4155
    このYahooの地図では、峯城から一生吹山までの距離は14.9Km、徒歩での所要時間3時間6分と出ますが・・・。 


6.佐倉城は何故攻略されたのか?

(1) 戦国時代、北勢地方の勢力分布
  • 戦国時代、志摩を除く伊勢国の勢力分布は、雲出川(くもずがわ)を境として、南伊勢五郡を領する伊勢国司家の北畠氏、安濃・奄芸二郡に長野氏、そして鈴鹿郡の関氏の三つの勢力があり、中でも当地と距離的に近い関氏は、関宗家(亀山城)、神戸家(澤城後に神戸城)、国府家(国府城)、鹿伏兎家(鹿伏兎城)、峯家(峯城)の五家に分かれ、各々勢力を伸ばしていました。

  • 北伊勢の朝明郡には、室町幕府から伊勢神宮内宮領10ヶ所の地頭職を与えられ、幕府の奉公衆として活躍した朝倉・海老名(えびな)・佐脇・疋田(ひきた)・富永・横瀬・南部(なんぶ)の各氏が(伊勢国)十ヶ所人数」として組織されていました。(三河方面に本拠地を持つ者が多く、南北朝時代に北勢に来たと推定されている。朝倉氏がリーダー的存在)
    また員弁郡を中心として員弁・朝明郡の地名を有する在地領主の多湖(たご)・宇佐美・田能村・大木・萱生(かよう)・伊坂・梅戸の各氏は、「北方(きたかた)一揆」を組織していました。(土着的で各領主の規模は小さく、梅戸氏がリーダー的存在))

    「十ヶ所人数」と「北方一揆」は、いずれも交通の要衝に城館を持ち、流通路支配、関銭徴収を行っていましたが、16世紀半ば、近江の六角氏が北伊勢に進出して梅戸氏と手を組み、近江~伊勢を結ぶ“八風越え”と“千種超え”の商品流通路を押さえ「桑名」を支配下に置いたため、それまで「十ヶ所人数」と「北方一揆」に組織されていた国人たちは、やがて六角氏のもとで新しい国人組織として再編成されていきました。

  • 三重郡には、千種氏(後醐醍天皇に仕えた千種忠顕(ただあき)の子孫)が、伊勢と近江を結ぶ千種越えの要衝に城を構え、三重郡24郷の豪族をその支配下におき大いに勢威があり、佐倉城主小林氏はこの千種氏の支配下にありました。

  • 同じく三重郡の赤堀氏は北伊勢の有力国人として勢力を誇り、15世紀初頭、伊勢守護土岐康政の被官として智積御厨に関する幕府の命令を執行するなど活躍がみられますが、1428年(正長元)の正長の乱で、関氏ととも北畠満雅に味方して幕府と戦い、満雅が敗死した後、赤堀氏は降伏して没落の危機に陥っています。
    しかし半世紀後の1473年(文明5)頃には、定期市「四日市庭(よっかいちば)」が立つようになり、更に16世紀初頭には海の交通・交易の中心が「羽津(はず)浦」から「四日市庭(よっかいちば)」に移って、赤堀氏は市場と港と廻船を掌握して再び勢力を伸ばしていました。

(2)峯氏と小林氏の確執
 (小林氏と峯氏の関連事項を年代順に見ていきます)
  1. 15世紀中葉、峯氏は智積御厨の代官を務めた時期がありました。(『四日市市史第16巻』、『伊勢国智積・川嶋山田境指図』醍醐寺文書)

  2. 1486年(文明18)、峯弾正忠(みねだんじょうのちゅう)は、智積御厨領家の松木宗綱に「去年に続き今年も押領する」と室町幕府に訴えられています。(この頃は代官ではなかった)(『室町幕府奉行人奉書案』醍醐寺文書)


  3. 3、佐倉城主小林氏の出自」でみたように、15世紀中葉、小林氏は智積御厨の「中村郷」出身の下司で、言いかえれば土着の権利に立脚した荘官であり、鈴鹿郡の峯氏は智積御厨の請負代官であったが故に、両者間には智積御厨の利権を巡る軋轢が考えられます。

  4. 1529年(享禄2)、椿岸神社(この頃は現・桜町西区字椿尾に在った)と延福寺(小林氏が護持する寺)が兵火に遭い、翌1530年には智積御厨本所が夜盗によって炎上するなど、当地も戦乱の渦に巻き込まれていました。

  5. 16世紀初頭以降、四日市庭の発展にともない、智積は四日市庭と近江を結ぶ近江国の四本商人の商業流通路千種越えの中継地点となっていました。 『今堀日吉神社文書集成』の「67号 丹生川太郎兵衛書状」は、北伊勢にいる四本(しほん)商人傘下の足子(あしこ)の住所と名前について、四本商人からの問い合わせに対する太郎兵衛の返答書ですが、これによると、北伊勢11か所に18人の足子がおり、智積には次郎衛門と衛門大夫の2人の足子がいたことが分かります。

    当時の智積には、1499年(明応8)に伊勢国内最大規模を誇る智積御厨の所有者の公家松木宗綱が、京の戦乱を避け御厨を直接支配するため家族を伴って移り住んで以来、三代にわたって居住していました。
    公家一家の智積在住は、当地方に経済流通の活発化を促し、東海地方の美濃紙や、伊勢湾の海産物など多彩な商品の集散が盛んになり、やがて智積の二人の足子を介して小規模ながらも市庭(市場)が開かれる一助となったことが推測されます。
    その市庭の場所は、「智積の中心地四丁町辺り」と推定されます。(山田教雄著『伊勢の智積郷』)
    (「四丁町」は、1786年(天明6)以後の作とされる『智積村絵図』にも見られ、現在の智積町1300代の番地付近です)

    佐倉城主小林氏は、「市庭」の開設に伴う通行量増加と交易の発展がもたらす一連の利権に、少なからず関与したことが考えられます。

    【註】参考文献
    『四日市市史第16巻』
    「四本商人の足子が・・・智積・田光に居住した・・・。これらの地は桑名・四日市庭はもちろんのこと市が開かれ、諸物資の集散が盛んに行われた事であろう。近世の員弁郡市場村(藤原町)、保々の市場村の名称は、中世の史料にはあらわれないけれども、中世の市場に由来したものと考えて誤りないであろう」とする説。
    『伊勢の智積郷』山田教雄著「足子商人の基地」の説。
    『今堀日吉神社文書集成 91号』
    近江国内の足子の商売は、従属する商人の小売販売区域内に制限されていたことが分かります。
    この事例から、伊勢国内の足子も一定地域内での商売が可能であったと推測されます。

    【用語解説】
    千種越え
    四日市庭(現四日市市三滝川河口付近)~智積~千種(菰野町)~根の平峠~現滋賀県永源寺町甲津畑~山上~八日市へ向う。
    四本(しほん)商人
    室町~戦国期、鈴鹿山脈を越える八風・千種両道の交通を独占し、伊勢方面(桑名十楽の津や四日市庭)との取引に従事した近江湖東の4ヶ所(石塔(いしどう)、保内(ほない)、小幡(おばた)、沓掛(くつかけ))の商人をいい、16世紀には保内商人が他の三本を抑えて伊勢山越え商売に君臨し、四本商人といえば保内商人の同義語であった。
    (千種氏は千種越えや八風越えの独占的通行権を保内商人に与え、その見返りに役銭を徴収していた。『今堀日吉神社文書集成』「140号 保内商人申状案」)
    足子(あしこ)
    毎年、従属する四本商人やその他の座商人に対し年貢銭を納め、商品の運搬や商売の下請けなどの権利を与えられ街道沿いに散在した。


  6. 佐倉城はなぜ攻略されたのか?
    智積御厨は、早くも1360年(延文5)頃には面積180町、年貢30石を納める伊勢国内有数の御厨でした。
    それから約180年後の1539年(天文8)の戦の頃には、更に一段と灌漑(かんがい)用水路(今井川、武佐川、山上井)の開削・整備が進展し、二毛作・牛馬耕を取り入れ、農具・肥料の改善も加えられて、より一層実り豊かな穀倉地域に成長していたであろうと考えられます。

    方や、峯氏は、魅力的な“智積御厨の利権”(四本商人の足子の拠点として栄える“市庭(市場)の商業権益”などを含めて)を、奪取する機が熟すのを今や遅しと、準備万端整えて待機していた。

    そこへ、小林重則の父親・小林丹後守が死去して、若い重則に城主交代したその隙をつき、しかも、小林家が主家と頼む千種家も窮地にあって動けないという情報5.1539年(天文8)の戦い-4)は、峯氏にとって絶好のチャンス、軍勢を整え一気に攻勢をかけてきたと考察されます。



7.佐倉城の再興とその後

(1)戦後と佐倉城再興
  • 1539年(天文8)7月の矢合川で敗戦した後、小林家の縁者や村人たちは、城主小林重則の遺体は勿論のこと、戦死者の遺体を敵味方の区別無く収容し手厚く葬りました。
    小林家の子孫は下屋敷内に城主・重則を弔う六組堂(むくみどう)を建て薬師如来を祀り、毎年7月9日には、他の戦死者の供養も併せて明治初年に至るまでの永きに亘り、法事を営み墓を守り続けてきました。
    昭和56年以降は、佐倉城主の五輪塔他の墓石は桜観音堂の階段横に移設され、毎年4月18日頃開かれる「観音まつり」の日に、安正寺住職様によって法要が営まれています。 (関連史跡「桜観音堂」をご参照ください)

  • 1570年(元亀元)、曽井城主志村忠春は、織田信長軍の北伊勢侵攻に備え、千種城主千種忠治と共に一生吹山に籠城。(『保曾井物語』) ここに小林重則の遺子重定の名は記されていないが、翌年佐倉城を再興していることから千種氏と共に居た可能性が高い)

  • 戦後32年を経た1571年(元亀2)、難を逃れて成長した故小林重則の嫡子重定は、八郎左衛門重定と名乗り、千種氏の斡旋で佐倉へ戻り「佐倉城」を再興しました。落城の時、乳飲み子であった重定、32歳にして念願を果たしました。


(2)その後の小林氏の動向 
    【註】表中、印の欄以外は全て佐倉城主本家の動向。
      (印の欄は小林家の分家で、大坂の役以降、菰野藩に出仕)

1582年
(天正10)

小林八郎左衛門重定、滝川一益の甲州武田攻めに従軍。帰還後朝明郡縄生村に200石の知行地を得る。
6月、本能寺の変。
この頃、小林重定の養子重忠(千草忠治の第二子忠正)、織田信孝に仕える。

1614~15年
(慶長19~20)

大坂の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)
小林八郎左衛門重定の養子(千種忠正)平右衛門重忠、亀山城主松平下総守忠明に従い大坂へ出陣。
大坂の役後、重忠は家督を道順に譲り、道因と改名して菰野藩土方杢之助殿に仕える。(1654年承応3、83歳にて死去)

1618年
(元和4)

小林八郎左衛門重定、80歳にて死去。
寛永年中
(1624~44)
徳川幕府が1615年(慶長20)に発令した大名統制策「一国一城令」に従い、小林道順、佐倉城を取り壊す。

1689年
(元禄2)

小林次左衛門(道因倅)と小林与市右衛門(次左衛門倅)は、津藩川原田組無足人として名が記される。
津藩領の「無足人」は、(他藩の郷士や地士などと同じで)在村していて知行や俸禄を得ない農兵を組織していた。地侍の系譜をひき、一年の大部分は農業に従事する上層農民であったが、苗字帯刀を認められ、他の者たちと区別された扱いを受けた。(『四日市市史第八巻、「元禄二年川原田組無足人由緒改帳』)

江戸期に入り、(佐倉村は津藩に属したので)藤堂和泉守在城の正月五日には、小林家当主は決まって五ツ時(午前8時)に挨拶に赴き、藤堂家家老が単独でその賀詞を受納する習わしであった。

1698年
(元禄11)

菰野藩に仕えた小林平右衛門重忠の子道因重信は、この頃御医師として金拾五両拾人扶持であった。

幕末~明治 幕末から明治にかけて、次左衛門、勝之進、太郎と相続する。

1907年
(明治40年)

小林太郎氏は、菰野小学校教諭を経て、明治40年12月桜村の村長に就任。

1909年
(明治42)

10月、桜村村長の小林太郎氏は、神社合祀の心労により急死。

1914年
(大正3)

小林太郎氏夫人みさは駅前へ移住して煙草小売店を営む。
以降、佐倉城跡は細分化され宅地となっています。



8.川名や地名に託して「戦い」を伝承

(1)

矢合川(やごうがわ)
1. 当地では、天文8年(1539)の戦闘以降、「川を挟んで矢を射合ったので、矢合川(やごうがわ)と呼ばれるようになった」・・・と言い伝えられています。

2. また更に詳しい伝承として、激戦地であった「殿原」付近、つまり東名阪自動車道の高架橋と矢合川が交わる辺りの川を「矢落川」、その下流付近(高角村に間近)を「矢合川」と呼んで、壮絶な戦さの有様を川名に託して世代から世代へと伝えられました。
(伝承の川名は上掲の【地図NO.1】をご参照ください

3. しかし、「矢落川」や「矢合川」の呼び名は、「負け戦さ」の連想で忌み嫌われたためか、智積村の公式文書には用いられることなく時は流れ、史料に「矢合川」の名称が表れるのはずっと後になります。

中世文書が残存しないため、1539年の戦い以前の川の名称は不明。
江戸時代の川名
*享保18年(1733)作『佐倉村・桜一色村・智積村山野論立会絵図』
   全域を流れる川が描写され、「今井川」とのみ記す。
*天明6年(1786)以後の作成とされる『智積村絵図』
   この絵図は、主に智積村地内を描き、「生水川(しょうずがわ)と記す。
江戸期の文書に、「矢合川」という川名は見当たらない。
明治17年編纂の『伊勢国三重郡桜村地誌草稿』・・・桜村地内では「今井川」
明治17年編纂の『伊勢国三重郡智積村地誌』・・・・智積村地内では「生水川」
一本の川が桜村地内と智積地内で別々に呼称されたとよく判るが、「矢合川」という川名は未だ無い。
明治22年(1889)、市町村制施行に基づいて、桜村と智積村が合併して「桜村」となったのに伴い、おそらく川名も一本化が望ましいと、故事に因んだ「矢合川」が正式採用されたと推測される。 「大日本帝国陸地測量部製作『明治23年測図同26年製版・桜村』(二万分の一)」の地図に「矢合川」と明記されている。

(2) 殿原(とのはら)
殿原の位置
  東名阪自動車道の高架橋と矢合川が交わる地点の直ぐ川上で、矢合川北岸の水田。
  (位置は【地図NO.1】でご確認ください
殿原の位置
「殿原」を中心に撮影 「矢合川」は右端道路の右側です。
               (写真撮影:2010年4月)

1. 殿様が腹を召された(自害した)土地を「トノハラ」と村人は呼び習わしたが、直接的過ぎる「殿腹」の文字を故意に避けて「殿原」と表記されたと伝承してきました。

2. 江戸時代の天明6年(1786)以後の作とされる『智積村絵図』に「殿原」と記されています。

3. しかし、明治6年の地租改正に伴って、「殿原」と「八ノ坪」と「生水上」の隣接する3つの字(あざ)を合わせて「生水(しょうず)」と改名されました。

4. 明治17年編纂の『智積村地誌』及び『桜村地誌草稿』に、「小林豊前守重則同村字殿原(今字生水)に於いて自害廃城となる」の記述があります。

5.
現在、「矢合川」は桜地区を象徴する川名として残り、一方「殿原」という字名(あざめい)は前述したように「生水(しょうず)」に改称されたため、地元でも知らない人が多く、歴史的名称の「現存」と「風化」とに明暗を別けています。
 一生吹山は、明治末期まで「デジロ祭」が催行され人々に親しまれていたため、「出城山(でじろやま)」は通用する呼称でしたが、ここ10年ぐらいの間に明治末期から大正初期生まれの世代が減少しているので、いずれこの名称も忘却の彼方に去ることでしょう。 

6. 【註】地名「殿原」について
『小林家系図』に、「智積村ト云フアリ。其村ニ殿腹と云ふ処アリ」と註記して、佐倉村城主小林重則が天文8年(1539)城と運命をともにして自刃した所と記されていること、また『智積村地誌』と『桜村地誌』に「殿原に於いて自害」と明記されていること、そして「トノハラで切腹したという地元の伝承」があること、以上3点に従って「殿原は佐倉城主が自刃した所が地名として残った」という説を採りました。

但し、『日本史辞典』(岩波書店)等各種歴史辞典には、「殿原は男子に対する敬称のひとつで、中世後期には地侍層の人々を殿原とよんだ」等々と解説されています。
この「殿原」と呼ばれた地侍が住んだ所が地名「殿原」として残り、それは佐倉城主小林重則が自害する以前から在ったとも考えられることを付記しておきます。


ー 完 ー

(文責・永瀧 洋子)


参考文献:『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌』、『西勝精舎聞書抄』『伊勢の智積郷』(山田教雄著)、『四日市市史第7巻、第8巻、16巻』、『中世惣村史の研究』仲村研著、『八日市市史第2巻』、『五個荘町史第1巻』、『菰野町史上巻』、『菰野藩分限帳』、『桜小学校の百年』、『伊勢国司記略』(斎藤拙堂著、天保12年(1841)刊行)、『保曽井物語』(凮狂人大通著、寛政7年(1775)、『定本三国地誌』(藤堂元甫著、宝暦13年(1763)編)、『伊勢名勝志』(宮内黙蔵著、明治22年(1889)編)、『泗水№11 地名に偲ぶ中世の佐倉(桜)』(小関俊郎著)、 『佐倉城推定図』(松平邦男著・元桜郷土史研究会員)、 2010年5月18日更新