桜の史跡NO.6

(きょうそんほっし の ひ)
                           桜の史跡説明板Eへ

「教尊法師の碑」の所在地・・・山上(やまじょ)公会所(四日市市桜町879番地)
                                  (四日市市公開型GISを基に加工作成。eitaki)

目     次
 1.教尊法師の碑(きょうそんほっしのひ)
 2.教尊法師の生涯
 3.小倉氏の略史
 4.「山田城」の創建から落城まで
 5.山上公会所の阿弥陀如来像
 6.【参考】小倉西家の本拠「山上城」の現状

 
1.教尊法師の碑(きょうそんほっしのひ)


「教尊法師の碑」(山上公会所敷地内)
山上は、素晴らしい眺望の丘陵地です。


「いきいき塾」の皆さんの見学風景
(2000年5月13日 撮影)

 「教尊法師(きょうそんほっし)の碑」は、戦国時代に浄土真宗を当地に伝えた僧形武将・教尊法師を崇敬して、四日市市桜町西区山上(やまじょ)の人々が昭和57年に建立しました。
 「教尊法師の碑の説明板」はここからご覧下さい。


 「教尊法師の碑」

「碑表」 法蔵坊開発 教尊法師之碑 
撮影日:2002年4月22日


「碑陰」 撮影日:2002年4月22日

  「教尊法師の碑」の刻字内容
  • 碑 表: 法蔵坊開発  教尊法師之碑
    碑 陰: 近江国神崎郡山上郷山田城主 小椋頼利公ハ故アッテ
    本願寺蓮如上人ニ帰依シ法蔵坊教尊ト称ス ヤガテ
    同信ノ徒十六名と共ニココ桜岡ニ来タリ最初ノ念仏
    道場タル法蔵坊ヲ創立シタノハ 延徳二年ト言ウ
    時ヲ経テ里人旧里ノ郷名ヲ以ッテコノ地ヲ呼ブ イヤソノ余裔
    教尊法師ヲ敬慕シ謹ンデ遷化ノ地ニコノ碑ヲ建ツ

     ○時 昭和五十七年八月  山上垣内 西勝寺門徒中
  • 【註】
    • 延徳二年・・・戦国時代1490年。教尊法師が現・桜町西区山上で法蔵坊を創建した年。
    • 遷化(せんげ)・・・大乗仏教で、菩薩が身体を他の世界に移して衆生を教化することをいう。
                転じて、高僧の死に用いる。



    小倉西家の支城・山田城 と 本城・山上城の位置図
      
    (近江国神崎郡山上郷(現・滋賀県東近江市山上町)
    • Sマーク山田城・・・現・山上小学校  
    • Gマーク山上城・・・現・安養寺
    • の山田城から Gの山上城まで、距離0.747km、徒歩9分



2.教尊法師の生涯
室町時代、”蓮如上人” と ”教尊法師”
  • 浄土真宗が本格的に近江に根付くのは、本願寺八世蓮如上人の時代です。親鸞聖人の教えを平易な言葉で仮名混じりで記した「御文(おふみ)・御文章」は、文字の読めない農民や職人などの圧倒的な支持を得て着実に近江に根ざし、やがて各地で門徒集団が結成されていきました。
    しかし、蓮如は比叡山延暦寺の衆徒によって「仏敵」とされ、一度目は寛正6年(1465)に本願寺を破却(焼き討ち)され、二度目は応仁2年(1468)に近江琵琶湖の西部の堅田で再び大がかりな攻撃を受けるなど多難の生涯を歩まれました。
  • 蓮如上人と教尊法師、両者は志も境遇も勿論大きく異なりますが、同じ戦国時代の荒波に揉まれつつ、当時としては極めて長命の天寿を全うされました。
    ●蓮如上人は応永22年(1415)に生まれ、明応8年(1499)85歳で遷化。
    ●教尊法師は応永34年(1427)に生まれ、永正7年(1510)84歳で寂滅。

教尊法師の生涯
  1. 1427年(応永34)小椋頼利誕生(後の教尊法師)
    教尊法師は、1427年(応永34)に、近江国神崎郡山上郷(現・滋賀県東近江市山上町)の山田城主家に生まれ、名は小椋頼利(おぐらよりとし)または教高と称しました。

  2. 小椋頼利、蓮如上人の化導で出家、法蔵坊教尊と称す
    1461年(寛正2)、山田城主小椋頼利(教高)は33歳にして、長浜の福勝寺(現・滋賀県長浜市大戌亥町543)において、浄土真宗中興の祖・本願寺八世蓮如上人(1415〜99)の化導によって出家得度し、法蔵坊教尊と称しました。(教高の高の字を同訓の尊に変えた)
    この時、小椋頼俊の子息の治部は未だ若輩であったため、僧形武将の体を取り、息子が城主として貫禄を備えるまで、僧形のまま山田城の城主としてとどまりました。
    また、戦国武将の一形態として、「教尊の出家は、決して俗塵を離脱して悟道に入る本来の出家ではなく、戦国の世に往々見られる武将の生活に入った」と考えられています。

  3. 複雑極まる戦乱の状況下で、山上郷の小倉(小椋)氏は六角氏の被官として活動し、たびたび合戦に巻き込まれていたとみられます。 
    そうした情勢の悪化を打破すべく、北伊勢で一城建立の念願を抱く半俗半僧の武将であった教尊法師は、何度も三滝川河畔の地を踏み、様々な状況をつぶさに観察して回り、相当数の知己を得ていたと推察されます。

  4. 教尊は、はじめ近江から北伊勢へ出る最初の要衝地千種(ちぐさ。現・三重県菰野町千種)に、教法宣布のための坊舎(後の「存仁寺」)を造り、これを根拠地として三滝川河畔の智積御厨(ちしゃくみくりや)の地を訪れ同信の人たちを得て、桜岡(桜町西区山上)や平尾を拠点としてゆく。(智積御厨」のページへリンク

  5. 1462年(寛正3)、教尊法師は先ず、当時は智積御厨内であった平尾の里に一宇造立し三谷山福泉寺と号す。(現・四日市市平尾町130)

  6. 以後も、教尊法師は僧形武将として近江国の山田城と伊勢国三重郡の間を、鈴鹿山脈越えの八風街道(はっぷうかいどう)や千種街道(ちぐさかいどう)を往来する

    「近江商人通商路」(出典・『クロニック戦国全史』講談社発行、加筆・加工作成・eitaki

    当時の状況
    • 畿内から東国への道は、中山道と東海道がありましたが、商業が発達し軍事上の交流が複雑化すると、公道であるためかえって危険や情報が流れやすかった。従って、八風・千種の間道が頻繁に利用された。
    • 「山上郷」は愛知川沿いに位置し、八風超えと千種越えの要衝地で、伊勢・尾張・美濃・三河へと通じていた。
    • この頃、近江商人(四本商人)が八風街道・千草両街道を往来して、近江・伊勢の商業流通が盛んであった。
    • 一方、海沿いの伊勢では、1473年(文明5)頃には定期市「四日市庭(よっかいちば)が立つようになっていました。
      「智積」は四日市庭と近江を結ぶ近江商人の千種越えの中継地点として、小規模ながら「市」が立ち、物資集散の地として「仕丁町(しちょうまち)」を中心にかなりの繁栄を見せていたと考えられています。
      智積御厨時代の地名が残る地図・・・【明治十八年伊勢國三重郡智積村地誌及び同櫻村地誌の附属之図】へリンク(「字仕丁町」は地図の右端中央。現在は「四丁町」と書く)
    • また、智積御厨内には古い地主層がいる反面、新田の開墾田を拓いた地主層や小名主層や、自営農民層も住んでいた。
    • やがて、これら小名主層や新興の地方有力者たちの支持を得て、真宗伝道の道場を桜岡(山上)や平尾の地に開設することができたと考えられます。
    • しかし、この頃は未だ、智積御厨の政庁がある智積の地には松木家の政所があり、しかも松木家の氏寺「多宝山智積寺」は醍醐寺(真言宗)の勢力下です。 とりわけ、智積御厨の領家松木宗綱の息子は、醍醐寺理性院の厳助僧正でしたから、地元では、特に有力者には絶大な支持を得ていました。

  7. 1486年(文明18)、教尊の息子治部、出家得度し教念と称す。

  8. 教尊法師、現・桜町西区山上に念仏道場創建
    1490(延徳2)年5月、教尊法師は智積郷佐倉之里(現・桜町西区山上)に、浄土真宗教化のため念仏道場として法蔵坊を創建し、同信の徒16名も付近に住み着き、やがてその土地を山上(やまじょ)と命名しました。
    下記は、念仏道場として「法蔵坊」を創建した年月とその地名を記した資料名(但し、各資料の作成年代不明)
    • 資料ー「西勝寺系譜」
      「延徳二庚戌年五月、伊勢国三重郡佐倉之里創建一宇、化導有縁居住、是号桜岡山、其土地命名山上」
    • 資料ー「安正寺史料」
      「延徳二年五月、智積郷佐倉之里、山上居住」

  9. 1503(文亀3)年7月、平尾村の三谷山福泉寺、火災に遭い武器法物焼失する。
    本国江州より持ち来った武器宝物一切を消失。
    翌年、実如上人より本尊を賜りて三谷山に安置する(再建した)。

  10. 1504(永正1)年、教尊法師、智積(中村)に一宇造立。
            教尊法師、実如上人より本尊を賜る。
    1505(永正2)年、教尊法師、桜一色に一寺を建てて隠居して”法蔵坊”と称す。(華王山安正寺
    【注意】慶長9年(1604年)、一宇を智積郷(現在地・四日市市智積町693)に移す。
        慶長10年(1605年)、木仏尊像と寺号・西勝寺が免許された。(桜岡山西勝寺

  11. 1510年(永正7)3月16日、教尊法師84歳で寂滅
    花王山の西廟(経塚山か)に葬り、遺骨を各寺に分かち、宗廟を建てた。
    (大正時代の初め、経塚山から経筒が出土したことがあるそうです)

  12. 天正3年(1575)、教尊法師の孫の対馬守教重の時、「山田城」は織田信長の攻撃を受け落城。

  13. 教尊の四男教味、三重県津市芸濃町椋本673に「存仁寺」造立。
    千種の坊舎を四男教味が受け継いで椋本で一宇造立した。

  14. 法要: 毎年4月1日、石碑の前で教尊法師を偲んで法要が盛大に営まれます。


3.小倉氏の略史 
小倉氏の略史
  小倉(小椋)氏の系譜を「尊卑分脈」でうかがうと、清和天皇第六王子貞純親王の孫満季から出ています。 
  1. 承暦年間(1077〜1080)、清和源氏満季流の小倉景実が、愛知郡小椋庄の愛知川を望む天然の要害に小倉城を築きました。
    小倉氏は以後、愛知、神崎、蒲生三郡の東部に勢力を伸長し、隣強の六角、蒲生の両氏と雄を競った一族です。

  2. 南北朝時代(1336〜91)の終わり頃、愛知郡小椋庄を本拠とする小倉氏が、儀俄氏に代わって蒲生郡日野町を支配します。

  3. 室町時代(1392〜1466年)の中期、小倉家は三家に分裂します。
    1. 小倉本家は、蒲生郡佐久良庄に佐久良城を築く。

    2. 分家の小倉東家は、小椋庄を支配して高野城小倉城を居城とする。

      高野城の城主小倉右京亮は、早くから六角家を見限り織田信長と密かに通じていた。
      1. 永禄2年(1559)2月、まだ26歳の織田信長が、将軍義輝に謁見するため上京しての帰途、六角義賢と斎藤道三の放った刺客につけ狙われ、数日間近江に釘づけにされた。
        (出典・「巻首 丹羽兵庫御忠節の事」『信長公記』、『巌助往年記』「永禄二年三月尾州織田弾正忠上洛」)

      2. このとき、小倉右京亮は信長を助け、愛知川沿いに、山上、九居瀬(くいぜ)を経て八風超えで伊勢に出、尾張へ逃がしてやった。 
        これ以後も小倉右京亮は信長と内通していたので、六角義賢の探知するところとなり、八尾山で謀殺された。

      3. 小倉右京亮の室をお鍋の方といい、甚五郎と松千代を伴って信長に身を寄せているうちに、その寵を受けて小倉の方と称せられ、信高、信吉と振姫の二男一女を生んだ。
         (A〜B 出典『西勝精舎聞書抄』)

      4. 天正10年(1582)本能寺の変の後、お鍋は秀吉に召され、北政所(秀吉正室、おね)につかえるようになり、関ヶ原の合戦以後も、高台院(北政所)から知行をもらって余生を送った・・・。
         (出典・「湖国のおんなたち」『滋賀県の歴史』山川出版)


    3. 分家の小倉西家は、神崎郡御園庄を支配して、伊勢へ抜ける八風街道を見下ろす天然の要害に山上城を本拠とし、山田城和南城相谷城八尾山城を支城とします。

      永禄7年(1564)小倉西家の宗家山上城主小倉右京大夫が、延暦寺領山上郷の年貢を横領した。
      1. 怒った観音寺城の16代当主六角善治は、小倉宗家の小倉実隆に討伐を命じた。(「観音寺騒動」の翌年。前年の永禄6年(1563)、六角善治は重臣後藤高豊とその子を観音寺場内で誅殺)

      2. 山上城主小倉右京大夫は、山田城、和南城、八尾城、相谷城の各支城に応援を要請したため、小倉西家全体の戦闘に発展した。

      3. やがて、小倉宗家の小倉実隆が、西家に撃たれて敗北。

      4. 日野城の城主蒲生定秀は、三男実隆を小倉宗家の養子に入れていたが、抗争中に敗死すると、小倉西家の山上城や支城を報復攻撃して小倉西家を滅ぼし、小倉本家も傘下に収めた。これより小倉氏は衰退した。



4.「山田城」の創建から落城まで
山田城(小倉西家の支城)
  • 山田城は小倉西家の支城で、西側の和南川が丘陵を削りながら北北西に流れ、愛知川に合流して形成された自然要害の丘陵地に築かれた丘城でした。

  • 現在、「山田城跡」は「東近江市立山上小学校」となっています。
    (住所・滋賀県東近江市山上町200)

  • 昭和33年(1958)、『西勝精舎聞書抄』の著者山田教雄先生がこの地を見学した際、当時の山上郵便局長で郷土史の研究をされていた今井竹次郎氏にお話を伺った。
    「山田城の言い伝えは全く知らないが、体育館を建設工事中にいろいろ古い武具を発掘している。何があったか、誰が住んでいたか、誰も何も知らなかった。あるいはその土地が、山田城の遺跡ではなかろうか。」とお話いただいたそうです。

(小)氏の系譜・・・「尊卑分脈」
  1. 清和天皇第六王子貞純親王の孫満季から出ている。
  2. 満季の系統では、三代後の定俊が越前守大膳大夫従四位下となる。
  3. その子為経は高屋の姓を称したが、実遠の子景遠のとき小椋と称したこともあった。
  4. 景遠に三人の子があり、
    • 長男景義は高屋源先生という。
    • 次男景房は小椋を姓として二郎と呼ばれ、若くして尾張国合戦に参加して討死。
    • 三男宗実は柳冠者と言われ、その長子実忠は五郎と名乗って河曲氏を称した
    • その子実信を経て四代の間この姓(河曲氏)を継承し、次の頼行(河曲源三)へと繋いだが戦死

小椋小倉)氏の系譜・・・「西勝寺系図」 
  1. (上掲・尊卑分脈の続き)
    小椋の庶流に河曲氏なる一流があった。
    神崎郡河曲村(五個荘町)に居住して河曲氏を称した一族がいた。
    文和2年/正平8(1353)、五代頼行(河曲源三)は、南方軍士山名時氏(やまなときうじ)などの兵団が、鴨河原で乱入合戦のとき、武家方について戦い討死した。(「尊卑分脈」では河曲氏はここで絶える

  2. しかし「西勝寺系図」によると
    頼行の後を子の頼治が跡を継ぎ、小椋孫三郎として小椋姓を名のり、三つ巴の紋所を改めて「梅鉢」にした。

  3. その子頼教は小椋兵部少輔といい、ゆえあって神崎郡山上村に移り、ここに一城を築いて山田城と称した。
    この小椋兵部少輔頼教が、教尊法師の父親です。

     1.教尊法師の父親の小椋兵輔頼教 =山田城主
     2.小椋頼利教尊法師本人)= 山田城主・・・1427年(応永34)誕生、1461年(寛正2)出家
     3.教尊法師の息子の治部= 山田城主
     4.教尊法師の孫の対馬守教重 = 山田城主・・・1575年(天正3)落城

    • このように、「父親の小椋兵輔頼教」→「教尊法師本人」→「息子の治部」→「孫の教重」まで続けて4代、「山田城主」でした。

      「山上城主」ではありませんでしたが、
      「3.小倉氏の略史ー3ーC分家の小倉西家」で既述したように、永禄7年(1564)、山上城主から援軍要請を受け、”日野城主蒲生定秀との戦闘”を共に戦ったことはありました。

  4. 「山田城」は天正3年(1575)、教尊法師の孫の対馬守教重の代に、織田信長の攻撃を受けて落城した。

  5. 城主一族の菩提寺は、山上の近郷高野の永源寺にあり、旧山田城という朱印がつけられている。     

                     

  • 「山上」がもっとも繁栄した応仁の頃には、山上のみで450戸を数え、近江商人の物資集散所のひとつであった。西方は八日市や近江八幡に通じ、また日野とは指呼の間にある有利な地理的条件が、この山間の集落を繁栄させた。

  • 江戸時代、元禄11年(1698)、稲垣重定が一万三千石でこの地に封ぜられると、山上藩の陣屋が置かれ、野洲、蒲生、甲賀、神崎、坂田、浅井の六郡にわたって権勢を張り、その後、重房、定享など六代を経て、稲垣太清に至って明治維新を迎えている。
                      (出典・『西勝精舎聞書抄』山田教雄著)  


 5.山上公会所の阿弥陀如来像
  • いつの頃からか分かりませんが、山上の人々は、旧公会所で阿弥陀如来像をずっとお祀りしてきました。
    その旧会所は、教尊様がこの地で布教を始めた時の「法蔵坊」があった場所に建っていたので、この仏像も相当古いと考えられています。

  • 新しい公会所ができた際、黒い木像姿の仏像に金箔が施され、仏壇も洗濯して修理されました。

  • 旧会所では、毎年1月13日から18日までの間、仏様の「お七夜さん」があり、よその村からも大勢来て大変賑わったそうです。
    (この場合の「お七夜さん」は、真宗で親鸞の恩に報いるための法会「報恩講」を指します)

  • 現在、「お七夜さん」は、毎年1月15日と16日は西勝寺で、続いて17日は山上公会所で行われています。

(仏像の全高(光背と台座を含む)=110cm)
(本体高=75cm)
  
 (謝辞・「6.山上公会所の阿弥陀如来像」の項は、2000年5月、元桜郷土史研究会会員奥山勝氏にご教示頂き誠に有難うございました)



【参考】小倉西家本拠地「山上城」の現状
 「3.小倉氏の略史」で既にみたように、小倉西家は「山上城」を本拠とし、支城として、山田城和南城相谷城八尾山城がありました。
  • 山上城は、現・滋賀県東近江市山上町に存在した城で、愛知川(えちがわ)両岸全域を眺望する高台にあり、三方に掘を巡らし、伊勢へ抜ける八風(はっぷう)街道(国道421号)と千種街道を監視する要衝の地にあって、南北朝時代の頃より小倉西家の本拠地として栄えました。
    現在、本丸櫓跡が残り、城郭内には向上山安養寺が建っています

  • 現在・・・山上城跡に建つ「浄土宗向上山安養寺」(住所・東近江市山上町1983)
      
    【浄土宗向上山安養寺】 

       (2011年7月8日撮影)
      写真の黄色矢印が指す小さい石碑に「小倉山上城址」とある。

    • 山上城跡地は、安養寺と東近江市役所支所の一帯にあり、安養寺階段右側に本丸櫓があったそうです。
    • 山上城の築城年代・・・「明応8年(1499)頃」
      創建者・・・「小倉右近大夫賢治」
      形式・・・「平城」
      規模・・・東西60メートル、南北100メートル。周辺も含めその実態は不明とされています。
            (出典:『永源寺町史通史編』)   

  • 山上城の石垣遺構

    【安養寺階段左横の石垣・・・城郭の遺構】
    (2011年7月8日撮影)



    上掲の写真「浄土宗向上山安養寺」の正面階段を登った左側の石垣です。

    1976年(昭和51)、国道421号線の新設によって、安養寺の南西にあった堀が消滅したが、階段左横の石垣が、わずかに城郭の遺構として残っている。
    (出典・『湖国百選-城-』滋賀県発行)


                                             (文責・永瀧 洋子)

(参考文献:昭和52年(1977)発行『西勝精舎聞書抄』山田教雄著・教尊法師の御子孫西勝寺十八世、『永源寺町史通史編』、『湖国百選-城-』滋賀県発行、『東近江市遺跡分布地図』、『滋賀県中近世城郭分布調査報告書』滋賀県安土城郭調査研究所発行、『滋賀県の歴史』山川出版社2010年、『戦国人名辞典』新人物往来社     2000年8月15日掲載、2019年6月16日更新