桜の史跡NO.14
        
              
    (四日市市智積町685 現・智積公会所)
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現・智積公会所延福寺跡、薬師堂跡) 延福寺・本尊 薬師如来坐像
明治45(1912)年から昭和14(1939)年まで、薬師堂兼公会所として、尼僧によって護持されていた所です。

(現智積公会所は昭和44年(1969)に改築されました)
この薬師如来坐像と阿弥陀如来、釈迦誕生仏、釈迦涅槃図一幅が、明治45年から昭和17年まで約30年間、薬師堂兼公会所で安置されていました。
昭和18年以降、西勝寺に客仏として迎えられています。平成8年、薬師講が結成され、金箔が施されました。
(5.本尊・薬師如来坐像の鑑定結果)へリンク

1912(明治45)年〜1939(昭和14)年の間、現・智積公会所の場所に「薬師堂兼公会所」が建っていました。 (「四日市公開型GIS」を基に作成)



小林山延福寺(しょうりんざんえんぷくじ)の由来

『明治十七年伊勢國三重郡智積村地誌』の記述
  1. 延福寺の所在地
    延福寺は、字宮後(あざみやじり)にあると、『明治十七年伊勢國三重郡智積村地誌』に記されています。
    しかし、下記の同明治十七年作成の「智積村地誌附属之絵図」では、字御所垣内にあります。(この齟齬については未詳です) 
          
    下記の地図は、『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌附属之圖・日本里法六万分之一』を加工作成。(加工・eitaki)
    この地図では、「旧延福寺」は字御所垣内にあります。

  2. 明治45年から昭和18年(1912〜1943年)の期間は、今智積公会所が建っている場所に、"薬師堂兼公会所"があり、尼僧によって護持されていました。

  3. 延福寺の創立年代について
    1. 『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌』は、創立年月不詳としています。

    2. 1458年(長禄2)の『伊勢国智積御厨年貢帳』によると、小林薬師(後の小林山延福寺)を小林氏が護持するとの記載があります。
       「一、小林薬師修理田一反同畑一キリ 小林五郎衞門三郎」
      • 小林薬師(後の小林山延福寺)は、1458年(長禄2)以前の創建である。

    3. 『四日市市史第四巻』に記載された 下記5.本尊・薬師如来坐像の鑑定結果によると、「頭部の制作年代は平安時代末期までさかのぼる」とあります。
      つまり、
      • 智積御厨の成立年代は平安時代末期である。
      • 上記Uで既述したように、初期智積御厨内に「小林郷」を開墾成立させた小林氏が、田畑と郷内の安泰を願って「小林薬師(後の小林山延福寺)」を建立し、「本尊・薬師如来坐像を安置した」と推察されます。

  4. 延福寺の歴史(文献:『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌』)
    1. 享禄2年(1529)、戦火で灰燼に帰す。(同年、椿尾に在った「椿岸神社」も兵火で灰燼と化す)
      天正8年(1580)6月、秀牧中興す。
      本村小林三郎太夫頼勝の末子秀牧剃髪牛庵と号す。
      三河國吉良庄泉念寺の主となり、霊夢により当地にへ来て寺跡で、土中より御首顕れたので、仏師に胴体を作らせ、同地に寺を建立して「小林山」と改めたと、智積村地誌は記している。

    2. 延福寺に伝来する寛文九年(1669)の銘のある鰐口に刻字された文字列(出典『伊勢國智積郷』山田教雄著)                            
        奉掛鰐口北勢州三重郡智積小林村延福寺御本尊
        行基菩薩御作薬師如来御宝前
        千時寛文九巳酉年九月吉日 敬白
        寄進野呂太兵衞

         
      江戸時代初期の寛文九年(1669年)の智積内に小林村が在った・・・(初見)

    3. 寺域面積:(文献:『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌』)
       寺域: 面積189坪(623.7u)

  5. 「本尊薬師如来坐像」鑑定結果(参考文献:『四日市市史第四巻』)

    • 天台宗本尊薬師如来坐像
    • 檜材による寄木造。漆箔。彫眼。
    • 像高102.2cm。
    • 本像は、頭部と体部以下とで、明らかな時代の相違を示している。
    • 体部以下は、全て江戸時代の後補で、面相部の漆箔(しつはく)もその後に後補されたもの。
      【漆箔(しつはく)・・・漆(うるし)を塗った上に金箔を押したもの】
    • 頭部は、両耳後方で前後に二材を矧ぎ(はぎ)、内矧ぎを行っている。
    • 肉髻珠(にっけいじゅ)は木製で、白毫珠(びゃくごうじゅ)は欠失している。
    • まるく伏鉢状に整えられた肉髻(にっけい)の形、細かく彫り出された螺髪(らほつ)、肉の薄い両耳のさま、穏やかな面相、三道(さんどう)以上の頭部は、製作年代が平安時代末期までさかのぼるとされています。

      各仏像用語は、15.「智積御厨と多宝山智積寺」のページに簡単な用語解説があります。

  6. 「本尊来由」と称する木札には、次のように記されています。
     享禄2年(1529)に頭部を残して本体が大破。
     天正8年(1580)体部を補う。これも破損。
     嘉永7年(1854)再び体部を補作。

          


「小林山延福寺の由来」(西勝寺住職釋教尚著)
  1. 当山は薬師如来を本尊とし、冠峯山三岳寺(真言律宗本山奈良西大寺)の48坊の1つで天台律宗であったが、その創立年代は不詳である。
    (註:冠峯山三岳寺跡は、菰野町湯の山に僅かに残る。天台宗が盛んな頃、北伊勢の天台系の寺をその支配下に置いた)

  2. 古くはここより北東180メートルの御所垣内と武佐との境、薬師と呼ばれていた処にあったが、享禄2年(1529年)戦火に罹って灰燼と化した。

  3. 享禄2年(1529年)に焼失して以来、50年余の間中絶していた。

  4. 中興の祖出現
    天正8年(1580年)、佐倉城の小林家ゆかりの者で、当郷世話役の小林三郎太夫頼勝の末子秀牧は剃髪して牛庵と号し、三河国吉良庄泉念寺の塔頭瑞暦寺の住持であった。 
    ある時霊夢によって、帰郷して延福寺跡の寺跡を見ると、不思議にも土中から薬師如来の仏頭を発見した。 
    これは往古の戦火で焼失したはずの仏頭に違いないと掘り出して、尾張国熱田の仏師・法橋善四郎の息子助三に命じて胴体を作らせ、同地に堂宇を再建して、新たに山号を小林山(しょうりんざん)とし、延福寺の再興を成し遂げた。

  5. 嘉永7年(1854年)6月14日夜、当地方を襲った大地震で堂宇は大破した。 
    当時の庵主小林涼心は、伊勢神戸の仏師・磯部重兵衛に本尊修復を依頼し、地元民の協力も得て、早くもその年の10月には落慶法要を営んだ。

  6. 明治7年(1874年)廃寺となる。(註・明治政府の神仏分離令等の影響による)

  7. 明治45年(1912年)、篤信者によって、この地に堂宇が移築され、臨済宗系の尼僧によって護持される一方で、地区の公会所としても使用された。

  8. 昭和18年(1943年)、この時まで尼僧によって護持されていたが、最後の尼僧・實道全覚禅尼が病気のため、本尊薬師如来、阿弥陀如来、釈迦誕生仏、釈迦涅槃図一幅が、西勝寺に動座され今日に至っている。

  9. 昭和20年代は智積和讃講、30年代からは智積自治会がその護持をつとめ、平成8年(1998年)に薬師講が結成されて、丁重に護持は相続されている。

                       ー以上ー 

(文責・永瀧 洋子)

(参考文献:『明治十七年調 伊勢国三重郡智積村地誌』、『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌附属之圖日本里法六万分之一』、『四日市市史第四巻』、『伊勢國智積郷』山田教雄著、西勝寺住職釋教尚著作によるの智積公会所前の説明板更新・2018年8月28日,  2021年2月12日