M延福寺跡「桜の史跡NO.14」   説明板集Mへ

 延福寺跡の説明板は、智積公会所(椿岸神社の西隣)に立てられています。
 ここは、延福寺の創立当初からの寺域ではなく、明治45年から昭和18年まで、尼僧によって延福寺兼公会所として護持されていた所です。
本尊 薬師如来坐像

平成8年、薬師講が結成され、金箔が施されました。
昭和18年以降、西勝寺に客仏として迎えられています。

場所:
延福寺は、創立当初から明治の末までは、智積公会所より北東180メートルの字・薬師にありました。明治45年から昭和18年の期間は、今智積公会所が建っている場所に、"延福寺兼公会所"があって、尼僧によって護持されていました。

創立年代:
不祥。享禄2年(1529年)戦火で灰燼に帰したと記録があるところから、古刹であったことが分かります。

寺域面積:
189坪。

本尊:
天台宗本尊薬師如来坐像。檜材による寄木造。漆箔。彫眼。像高102.2cm。
本像は、頭部と体部以下とで、明らかな時代の相違を示している。
体部以下は、全て江戸時代の後補で、面相部の漆箔もその後に後補されたもの。
頭部は、両耳後方で前後に二材を矧ぎ、内矧ぎを行っている。肉髻珠(にっけいじゅ)は木製で、白毫珠(びゃくごうじゅ)は欠失している。まるく伏鉢状に整えられた肉髻(にっけい)の形、細かく彫り出された螺髪(らほつ)、肉の薄い両耳のさま、穏やかな面相、三道(さんどう)以上の頭部は、製作年代が平安時代末期までさかのぼるとされています。(『四日市市史第四巻』) 
  各仏像用語は、「智積御厨と多宝山智積寺」の用語解説をご参照ください。

「本尊来由」と称する木札には、次のように記されています。
          享禄2年(1529)に頭部を残して本体が大破。
          天正8年(1580)体部を補う。これも破損。
          嘉永7年(1854)再び体部を補作。 
   
「小林山延福寺の由来」
  • 当山は薬師如来を本尊とし、冠峯山三岳寺(真言律宗本山奈良西大寺)の48坊の1つで天台律宗であったが、その創立年代は不詳である。(註:冠峯山三岳寺跡は、菰野町湯の山に僅かに残る。天台宗が盛んな頃、北伊勢の天台系の寺をその支配下に置いた)

  • 享禄2年(1529年)に焼失して以来、50年余の間中絶していた。

  • 中興の祖出現。
    天正8年(1580年)、佐倉城の小林家ゆかりの者で、当郷世話役の小林三郎太夫頼勝の末子秀牧は剃髪して牛庵と号し、三河国吉良庄泉念寺の塔頭瑞暦寺の住持であった。 ある時霊夢によって、帰郷して延福寺跡の寺跡を見ると、不思議にも土中から薬師如来の仏頭を発見した。 これは往古の戦火で焼失したはずの仏頭に違いないと掘り出して、尾張国熱田の仏師・法橋善四郎の息子助三に命じて胴体を作らせ、同地に堂宇を再建して、新たに山号を小林山(しょうりんざん)とし、延福寺の再興を成し遂げた。

  • 嘉永7年(1854年)6月14日夜、当地方を襲った大地震で堂宇は大破した。 当時の庵主小林涼心は、伊勢神戸の仏師・磯部重兵衛に本尊修復を依頼し、地元民の協力も得て、早くもその年の10月には落慶法要を営んだ。

  • 明治7年(1874年)廃寺となる。

  • 明治45年((1911年)、信者によって、今の智積公会所の地に堂宇が移築され、臨済宗系の尼僧によって護持される一方で、地区の公会所としても使用された。

  • 昭和18年(1943年)、この時まで尼僧によって護持されていたが、最後の尼僧・實道全覚禅尼が病気のため、本尊薬師如来、阿弥陀如来、釈迦誕生仏、釈迦涅槃図一幅が西勝寺に動座され今日に至っている。
    昭和20年代は智積和讃講、30年代からは智積自治会が護持をつとめ、平成8年(1998年)に薬師講が結成されて、丁重に護持は相続されている。

参考:『明治十七年調 伊勢国三重郡智積村地誌』、『四日市市史第四巻』、西勝寺住職によるの説明板等。

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