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所在地・・・三重県四日市市桜町一色
「桜の史跡」NO.8    説明板集⑧へ    

 当地には・・・室町時代に“伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)”が、桜一色の西方の丘陵一帯に美しく咲く桜花を愛(め)でて“荘園”とした・・・という伝承があります。

 1428年(正長元)、伊勢国司北畠満雅は、両朝和平の条約不履行を不満として、南朝後裔(こうえい)の小倉宮を奉じて挙兵。幕府軍と激闘の末、伊勢国安濃郡岩田(現・三重県津市岩田)で敗死しました。 
 その後、里人は地蔵菩薩をご本尊として寺を建て北畠満雅の死を追悼しました。
 当地の人々は、今なお北畠満雅卿を慕い、地蔵菩薩像を丁重にお祀りし継承しています。
本 尊: 地 蔵 菩 薩 像

(写真撮影:1990年8月24日 石川清之代表)
「地 蔵 堂 外 観」 (2000年5月13日撮影)
地蔵堂内観の写真集はここから
「地 蔵 堂 内 観」 (2000年5月13日撮影)
中央は地蔵菩薩像

(1)地蔵堂の由来
1. 「明治17年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿」にみる由来
  1. 往古、北畠満雅が此の地の桜を賞賛して荘園とされた。
  2. 亡くなられた後、諡号(しごう)を長福寺殿祐山常満大居士と称した。年暦は不詳であるが桜岡山長福寺を建立した。禅宗曹洞派に属し、本尊は弘法大師作の地蔵菩薩で北畠家の祈願場となった。
  3. 永禄年中(1558~1570)、兵火にかかり一山の堂宇がことごとく灰燼となった。(註1)
  4. その後、また里人は一宇を建立したが、織田信長の威勢を恐れて荘岡山全福寺と称した。
  5. 荘岡山全福寺は明治7年まで存在したが、時代の影響を受けて廃寺となった。(註2)
(註1)  永禄10年~12年、織田信長の伊勢進攻によって北勢地方は兵火に曝された。
* 永禄10年(1567)、織田信長の命で滝川一益は員弁郡、桑名郡を攻略。
* 永禄11年(1568)、信長は神戸具盛を攻めて和睦し三男織田信孝を神戸氏の養子に入れる。その後、中勢の長野氏を攻略して弟織田信包を長野家当主とする。
* 永禄12年(1569)、信長は南伊勢の北畠具教を攻め、次男織田信雄を北畠氏の養子に入れ和睦。
(註2) 明治初年(1868)、明治新政府が出した“神仏判然令(神仏分離令)”と、その後起こった“廃仏毀釈”などの影響によるもの。

地誌とは  
 「地誌」とは、ある地域の地形・自然・社会・産物・文化などの特性を研究・記述した書物のことです。
【桜村地誌が編集された経緯】
 明治政府は、明治五年(1872)に太政官達第二百八十八号「皇国地誌編輯(へんしゅう)相成候ニ付」と、同八年に太政官達第九十七号「皇国地誌編輯例則並ニ着手法別冊」を布告し、各府県に対して地誌編集の照準とすべき記載方法として詳細な例則を示し、且つ地誌編集事務担任の地方官を置いて着手すべきと指示して、村誌・郡誌の提出を命じました。
 当地の『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』は、この太政官達に沿って桜村が明治17年に編集した地誌の草稿です。智積村でも同様に『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌』が編集されて、いずれもその「写」が現存します。

2. 「桜岡山碑」にみる由来
 桜岡山碑 (桜岡山碑は地蔵堂境内にあります)

(写真撮影月日:2002年4月20日)

建立年代: 不明
規   模: 高さ約154cm、幅95cm、厚み6cm
碑   表: 漢詩文  作者不明
碑   陰: なし

「桜岡山碑」の内容は『桜村地誌』の由来とほぼ同じですが、「荘園」についての表現が異なります。
「桜岡山碑」では、
旧誌を調べると、北畠満雅公は此の地に遊び(桜を)激賞し、すぐに堂を築いて別墅(べっしょ)とし荘園と号したとあり、建てたお堂を“荘園”と名付けた、の意味となっています。
(別墅(べっしょ)とは、別荘、しもやしきのこと。 墅(しょ)・・・田畑の中の小屋


【櫻岡山碑】(註:「荘園」についての箇所を赤字にしてあります)
渓山一色絶無雑樹毎春色駘蕩之候幻出一片
白雲之仙界者櫻花也其勝槩可想宣乎爲太守
所鍾愛也
按舊誌北畠満雅公之遊此地也徼賞不
措乃築堂爲別墅號曰荘園
及公没安弘法大
師所刻地蔵大士爲祈願所襲公乃諡號曰長
福寺以其尤富櫻樹名櫻岡山遂隷禅宗曹洞
派以大伽藍著焉永禄年中罹干織田氏兵燹爲
鳥有土人慨之求得遺像建一宇改稱荘岡山
全福寺葢畏觸織田氏忌諱也嗚呼北畠氏之
勤労 王家饒不譲楠氏而屹立乱世裨一國
民免賊之蹂躙者数百年恩澤之遍周奭不
啻如此國司遺愛之霊蹟而堙晦無聞不亦惜哉項
者村民相謀立一碑於櫻樹下表實其亦勿剪伐之意歟
桜岡山碑・・・意訳
渓山一色絶えて雑樹無し 毎春色駘蕩の候 一片の
白雲の仙界を幻出するは桜花なり その勝れた美を想うべし 当然ながら太守の
鍾愛するところなり 旧誌を調べると北畠満雅公 此の地に遊ぶや激賞して
やまず、よって堂を築き別墅となす 号して曰く荘園と 
公没する及び 弘法大師
の刻するところの地蔵大士を安置して祈願所となす 襲公の諡号に曰く 長福寺と
その最も桜樹の富むを以て桜岡山と名づく ついに禅宗曹洞派に属し
大伽藍を以て著る 永禄年中織田氏の兵火に罹り鳥有となる
土人これを歎き遺像を求め得て一宇を建つ 荘岡山全福寺と改称す 
おそらく織田氏の御名を憚り抵触を畏れるゆえなり ああ北畠氏の
勤労 王家饒(満ち満ちて)として譲らず 楠氏乱世に屹立して一国の
民を助け賊の蹂躙をを免れること数百年 恩澤は広くゆきとどき
ただならざることかくの如し 国司遺愛の霊蹟は廃れて聞くこと無し また惜しからざるや
近頃村民相謀り一碑を桜樹の下に立て實を表す それまた剪伐するなかれの意か


(2)北畠氏と北伊勢の関わり
       ~北畠満雅が当地(桜一色)を荘園とした可能性を探る~
  1. 1369年(正平24)9月、将軍足利義満の命で守護土岐頼康が北伊勢へ侵攻した。これを伊勢国司北畠顕能の子顕泰(あきやす)は大将として三重郡刑部(おさかべ)郷(現・四日市市西坂部町・東坂部町付近)で撃退した。 この後直ちに、顕泰は武家方の侵攻に備えて三重郡内に諸城館を築き要害とした。(『伊勢国司記略』)
    これに呼応するが如く、当地の地誌(『明治17年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』と『同智積村地誌』)は、「正平24年9月、小林丹後守重利は字御所新田(あざごしょしんでん)に始めて城を築き住んだ」と記しています。この時、一生吹山頂に戦闘用の砦城も築かれたであろうと推定されます。
    (居城跡の位置は不明ですが、一生吹山南麓の智積町字大谷「エビノ園」に近い「四日市インターゴルフ」の敷地は、明治時代には「智積村字御所新田」に属したので、見晴らしの利くこの微高地に居城が在ったと考えられます)
    北畠顕泰は三重郡刑部郷で戦勝した後、要塞築造の現地検分のため当地に来たという可能性は考えられますが、9月だったので桜は見ていない。

  2. 同年10月、志摩国古和浦(三重県度会郡南伊勢町古和浦)の古和一族は、北畠顕能から三重郡南松本の地頭職半分を兵粮料所【註1】として与えられている。(『三重県史資料編中世2』「北畠顕能御教書案」)【註2】

    【註1】 兵粮料所・・・中世、兵粮米を徴収するために指定された所領。南北朝時代に入ると、室町幕府は兵粮確保のため荘園・公領の年貢半分の徴収する権利を守護に認め、南朝方も同様に兵粮米を徴収した。
    【註2】 従来、正平24年10月と建徳3年4月(次項3.)の御教書は「北畠顕信の御教書」とされていたが、以下の2点の観点から最近の学説では「北畠顕能の御教書」とされています。 
    その1、御教書の花押が「顕能」のものに合致すること。 
    その2、「顕信」は延元元年(1336)に初代伊勢国司に就任したが、延元3(1338)年5月に兄の顕家が幕府軍との戦いで敗死した後、直ちに東国経略を計るため鎮守府将軍に任じられたため、伊勢国司の任は弟「顕能」と交代していることによります。

  3. 1372年(建徳3)4月北畠顕能古和一族朝明郡萱生御厨地頭職を安堵する。(「北畠顕能御教書写」)

    南北朝時代のこの時期、北畠氏が古和一族に三重郡松本と朝明郡萱生の二か所の地頭職を与えたことは、「北畠氏は軍事行動を活発化させ北伊勢への進出」を表します。
    しかし桜一色周辺一帯は、この頃伊勢神宮に寄進された荘園「桜御厨」と「桜神田」が形成されており(『神鳳鈔』1360年(延文5))、しかも幕府に任命された土岐氏が伊勢守護として荘園の支配権を持っていました。
    このため北畠氏は、伊勢国司と云えども、桜一色地域を完全に自らの荘園にすることはできなかったと考えられますが、三重郡や朝明郡内の各所に地頭を補任させ、兵粮料所として荘園の年貢の半分を収納することは可能であったと推察されます。
    こうした状況から、この時期に「当地は北畠氏の荘園である」という伝承の端緒となったのではないかと思われます。

    ●1392年(元中9、明徳3)、足利義満の斡旋で、南朝の後亀山天皇が南朝方(大覚寺統)と北朝方(持明院統)の「両統迭立」を条件に、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して「南北朝合一」が成立する。

  4. 1414年(応永21)、伊勢国司北畠満雅は、北朝方が「両統迭立」を無視して、後小松天皇の皇子の称光天皇が即位したことに抗議して、吉野に潜行していた南朝最後の天皇であった後亀山上皇とその皇子小倉宮実仁(おぐらのみやみひと)を奉じて挙兵する。
    このとき関の一党が馳せ参じる。(「関左馬助並に其一党神戸、峯、国府、鹿伏兎等みな與みし奉る」・・・『伊勢国司記略』)
    1415年(応永22)4月、幕府は満雅討伐のため一色義範(義貫)を総大将とし土岐持益らを派兵。
     満雅は阿坂城(現・松阪市大阿坂町)に篭城して幕府軍と激闘。
    江戸時代初期に書かれた『南方紀伝』によると、幕府軍の水断ち作戦に対し、阿坂城に籠城中の北畠軍が馬の背中に白米を流して水が豊富にあるように見せて敵を欺き、幕府軍を撃退したとある(白米伝説)。 この後、この城の名を俗に「白米城」と呼ぶようになったとも書かれている。
    同年5月、阿坂城は落城したが、しかし大和国宇陀郡の沢・秋山氏らも挙兵して紛争は拡大。
    同年8月、幕府と満雅の講和が成り幕府軍は撤兵した。

    * 「国司」は律令制で朝廷から諸国に赴任された地方官。鎌倉時代に「守護」が置かれた後、後醍醐天皇の建武政権下で守護と国司は併設された。が、まもなく有名無実となり、地方支配は守護に一元化されていく。
    * 戦国期には公家出身大名で伊勢の北畠氏・飛騨の姉小路氏・土佐の一条氏は三国司と称された。
    * 伊勢国司北畠氏について
    北畠氏が伊勢国司であったのは南北朝期までで、南北朝合一後「伊勢国司」は家格としての称号にすぎず、1399年(応永6)北畠顕泰以降、北畠氏は南伊勢半国守護(半国の成敗権を持つ幕府の職)に補任された。満雅も伊勢国南半分を支配する存在として幕府に公認されていた。

  5. 1428年(正長元)、称光天皇が後継者を決めないまま崩御。
    後小松上皇が北朝方伏見宮家の彦仁親王(後花園天皇)を擁立することが確定的になると、南朝の後亀山上皇の皇孫小倉宮が京都を出奔して伊勢国司北畠満雅を頼り、満雅は小倉宮を奉じて同年8月再び挙兵した。(正長の乱
    三重郡の赤堀氏と、鈴鹿郡の関氏・加太氏が北畠氏に味方して幕府軍と戦う。
    幕府は伊勢守護土岐(世保)持頼と美濃守護土岐持益らに満雅討伐を命じる。
    安濃郡の長野氏とその庶流雲林院(うじい)氏も幕府方として参戦した。
    同年12月21日、北畠満雅逝去。(『大乗院日記目録』に、「正長元年十二月二十一日、伊勢国司逝去」とある)
    北畠満雅は幕府軍と激闘の末、伊勢国安濃郡の岩田川(三重県津市岩田)付近で壮絶な敗死。南朝最後の大規模抵抗戦であった。
    満雅の首は京都に送られ、足利義教が首実験したのち、六条河原にさらされた。 
    江戸時代後期の『伊勢国司記略』には、その節義に準じた満雅を「断頭将軍」と名付けている。
      
    赤堀氏と加太氏は満雅敗死後も関氏とともに抵抗したが、幕府軍の総攻撃を受け、翌年2月末ついに管領畠山満家を頼って降伏した。(「正長二年二月二十八日、(前略)次加太・赤堀降参事、自管領(畠山満家)執申入也、・・・ 『満済准后(まんさいじゅごう)日記』)
    関氏は3月1日、城を焼いて逃亡した。(『満済准后日記』) 後に北畠氏の尽力で復活する。

    永享2年(1430)、満雅の弟顕雅は幕府との講和をはかり、伊勢国司職は満雅の子教具(のりとも)に安堵され、没収されていた所領(飯高・一志郡)が返還された。

    当地もこの戦禍に巻き込まれ、「永享年間(1429~41)、多宝山智積寺兵火によって堂宇焼失」と地元資料は記します。(「多宝山智積寺の半鐘の銘文」、『明治17年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』、『多宝山智積寺由来』佐野師光著)
    二度にわたる北畠満雅挙兵の際の佐倉城主小林氏の動向は不明です。

    当地と赤堀氏との関係
    三重郡の有力国人領主赤堀氏は、応永18年(1411)と応永25年(1418)に、伊勢守護土岐氏の使節として、智積御厨の沙汰付け(幕府命令の執行)の活動、つまり赤堀氏が土岐氏の被官として活動していました。(「土岐康政・持頼遵行状案」『四日市市史第7巻』)
    赤堀氏は、正長元年(1428)北畠満雅挙兵の際、北畠方に加わって幕府軍と戦い、満雅死後も翌年2月末まで戦闘を続けましたが、四日市地域での戦闘状況は不明、云うまでも無く桜地区での動き全く分かりません。 
    しかし、正長の乱後に建立された桜岡山長福寺、後の荘岡山全福寺が、浜田城主赤堀氏の菩提寺「東溟山建福寺(とうみょうざんけんぷくじ)」(四日市市北町5-4)の末寺であることから、北畠氏を介した赤堀氏と桜一色の浅からぬ繋がりが窺えます。(『四日市市史第16巻』、『四日市市史第13巻』記載の「三重郡寺院明細帳」明治4年)

    北畠満雅が当地を荘園としたか?
     14世紀の北畠顕能の北伊勢進出、特に三重郡刑部郷、三重郡松本、朝明郡萱生の関連文書と、そして15世紀前半の北畠満雅の幕府への抵抗戦に加担した赤堀氏、関氏、加太氏の動向を鑑みると、「満雅が当地に来た」可能性はあるように思われます。
     しかし、北畠満雅の執政期、伊勢守護職は室町幕府の有力御家人である土岐氏(世保氏)などが任じられていたので、満雅が当地を荘園とした可能性は低いと考えられ、また傍証し得る御教書等の文書も発見されていないため、「満雅が当地を荘園とした」とまでは検証できませんでした。
     考えられることは、上記3-②でみたように、14世紀後半に「北畠氏の荘園であった」という伝承の端緒が開かれ、その後幕府に反乱して討ち死にした北畠満雅に対する判官贔屓と相まって、「北畠満雅が桜が美しい当地を荘園とした」と、先の伝承が少し変化・形成され今日に伝えられたのではないかと推測されます。 (なお、研究を要す)


(3)地蔵堂今昔
「三重縣伊勢國三重郡櫻村大字櫻 御厨櫻神社及櫻岡之図」拡大図はここから
(左)地蔵堂                   (右)桜神社
明治5年・・・・当地は三重県三重郡佐倉村、同桜一色村、同智積村となる。
明治8年・・・・佐倉村と桜一色村が合併して桜村となる。
明治22年・・・桜村と智積村が合併して桜村となり、各々桜村大字桜と桜村大字智積となる。
明治42年・・・一村一社の神社合祀が実施され、櫻神社は椿岸神社に合祀される。
したがって、この絵は明治22年以降明治42年神社合祀直前までの様子を描写したものと思われます。

         境内の桜に彩られた地蔵堂     (2010年4月8日撮影)      

  • 地蔵堂の規模
    現在の地蔵堂の規模は、1854年(嘉永7、安政元)の地震で倒壊した荘岡山全福寺とほぼ同じの「二間四方の大棟造り、正面に三尺の庇付き(向拝付き)」です。(『四日市市史第八巻』)
  • 地蔵堂付近の景色
    明治時代まで、桜地区の山上(やまじょう)から一色にかけての丘陵地帯には、桜の樹がたくさん生えていたので「桜岡山(おうこうざん)」と呼ばれていました。 『明治17年調 伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』の「名勝・桜岡山」の項には、この地を訪れた文人墨客によって桜を愛でる詩歌が盛んに詠われたことが記されています。今では、地蔵堂周辺は竹林と化してしまいましたが、境内に近年植えられた数本の桜樹が往時を偲ぶよすがとなっています。
  • 地蔵堂敷地の変遷
    明治17年調の同地誌には、地蔵堂の敷地は345坪と記載されていますが、大正2年の軽便鉄道敷設工事で、地蔵堂敷地(丘陵地)の東部が削り取られ、それから昭和11年の新道(旧湯ノ山街道)敷設工事で更に敷地東部が削られて、現在の境内面積は明治期のおよそ半分となりました。
  • 地蔵堂の「マンボ」消失
    昭和50年代に、地蔵堂裏山の崖崩れ対策のため土留め工事が施工され、それに伴い地蔵堂裏山の北手に横隧道式に掘られていた「マンボ」が埋められてしまいました。
    それまで桜一色の人々は、マンボの水を地蔵堂前に据えられた石製の手水盤まで竹で誘導して、「手水」ちょうず参拝前に手・顔を洗い清めること)として使用していました。また他にもマンボの水は、飲料水、祭りの際の炊き出し、堂内の拭き掃除などにたいへん重宝されていました。
    この地蔵堂のマンボが何時頃掘られたのか定かではありませんが、私たちの先人が手作業で巧みに得た自然の恵み、「マンボ」の消失は非常に惜しまれます。
  • 桜町一色自治会による維持管理
    現在、日常的には桜一色自治会員が一軒ずつ当番制で、毎朝、地蔵堂を開けてお地蔵様にお仏飯や果物などをお供えし供花も絶やさず丁重にお守りしています。
    年に一度の7月24日には「地蔵盆」を盛大に開催するなど、町内挙げて伝統を守りつつ地蔵堂の維持管理に努めています。
(4)地蔵盆 毎年7月24日 桜一色自治会行事
  • 「地蔵盆」で売られた「雷除守」
    第二次世界大戦以前まで、雷除けの御守りが売られ、遠来の参詣者にも人気が高く大層賑わいました。
    「雷除守」  (当時のお守り5個は、堂内に保管されています)

    (2004年12月10日撮影)
    サイズ:幅・・・約3cm
         縦・・・約10cm

    写真右端:「雷除守」
     同 左端:「櫻一色 荘岡山全福寺」
  • 今でも継承されている地蔵盆の大切な行事
    新しく生まれた赤ちゃんの名前を書いた提灯(ちょうちん)が家族から地蔵様へ献納され、地蔵堂内に明りを灯して飾られ皆さんに披露されます。
    前年度までに献納された古い提灯も、境内いっぱいに吊り下げ個々に明りが灯されます。たちまち境内には懐かしい雰囲気が満ち溢れ、参詣者が三三五五集まってきます。
    これら献納された提灯は年を経て古くなっても大切に保存され続け、毎年境内で明りが灯されるので、子供が成長して大きくなってからも、懐かしい記念の提灯を見ながら本人も交えて家族、親族、隣近所の方々と愉しい思い出話に花が咲きます。
  • 地蔵盆のお供え物について
    前日から町内各家庭で採れたトマト・胡瓜(きゅうり)・茄子(なす)・南瓜(かぼちゃ)・とうもろこし・スイカの他に、素麺(そうめん)やお菓子などが持ち寄られます。
    昔は、地蔵盆の翌朝、それらのお供え物は全部「競り(せり)」にかけられ、これがまたなかなかの人気でしたが、諸般の事情で、昭和が終わり平成に入った頃からは、地蔵盆当日の夜、お供え物に適当な値段が付けられて売られるようになりました。 そしてこの売上金が地蔵堂の維持管理費に充当されています。
「地蔵堂今昔」と「地蔵盆」については、桜町一色の故大矢実氏(元当会会員)にお聞きしました。
                             (2004年12月10日撮影)

(5)伝:北畠満雅戦死の地
 四日市市桜町一色に、地元の人々によって570数年間も守り伝えられてきた北畠満雅ゆかりの霊場(桜岡山長福寺→荘岡山全福寺→地蔵堂)があり、そして、津市岩田には、満雅戦死の地と伝えるお社が、やはり地元の人々によって今に残されています。

伝:北畠満雅戦死の地。三重県津市岩田

石碑:「北畠満雅卿忠烈遺跡」。境内左手角。
【アクセス】
 公共機関
JR阿漕駅下車。北へ約300メートル進み、最初の信号を右折れして、国道23号線に交わる手前の左手(西側)にある小さな社。
 自動車 四日市方面から国道23号線で岩田川を通過後、約1kmの「南中央」交差点を右折(西方)して直ぐ。
                                               (文責:永瀧洋子)

参考資料:『明治十七年調 伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『四日市市史第7、8、16、17、20巻』、『伊勢国司記略』(斎藤拙堂)、『伊勢の智積郷』(山田教雄著)、『多宝山智積寺由来』佐野師光著、『桜町一色石川家文書』、『伊勢国司北畠氏の研究』(藤田達生編)、『詳説日本史』(山川出版社)、『三重県の歴史』(山川出版社)、『再現日本史 鎌倉・室町8』(講談社)、『伊勢北畠一族』(新人物往来社)、「大乗院日記目録」『続々群書類従第三』、『昇龍の影』衣斐賢譲著

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