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桜神社跡の碑
桜神社について
 桜神社は、昔、石碑から南方180坪の境内に祭祀されていましたが、1909年(明治42)政府の“一村一社の神社合祀令”で椿岸神社に合祀されました。
場所 桜町一色 (あざ)武佐(むさ)
近鉄湯の山線桜駅の西方200メートル、線路沿いのローズ幼稚園駐車場の南。
規模 桜神社の境内・・・・・595u(180坪)、東西・・・23.6m、南北・・・38m
祭神 正殿・・・・・建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
別殿・・・・・木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと) 
「桜神社」は「桜の宮」と呼ばれましたが、そのほかに祭神須佐之男命が後に牛頭天王(ごずてんのう)(仏教の祇園精舎の守護神)と習合したので、「天王社」または「牛頭天王さん」とも呼ばれました。
創立年

経緯
  1. 創立年代不祥。
    桜神社は承久年間(1209〜22)前後に伊勢神宮外宮へ貢納する「桜神田」または「村天王神田」の守り神として祭祀されたと推測されます。
    室町時代には「智積御厨」内の「一色郷」の神社として護持され、江戸時代以降は「桜一色村」の鎮守村社として崇敬されました。 
      (参考史料:『神鳳鈔』、『智積御厨年貢帳』、『桜町一色石川家文書』)
  2. 永禄年中(1558〜70年)に兵火に罹り社殿が焼失。
    その後再建されて「桜の宮」または「天王社」と呼称されていました。
  3. 1909年(明治42)、政府の一村一社の神社合祀政策で椿岸神社に合祀されました。
桜神社に関係ある小字(こあざ)について
  • 桜神社が鎮座した小字の武佐(むさ)は、祭神須佐之男命(すさのうのみこと)の「須佐(すさ)」が転じて「武佐(むさ)」が地名になったと伝えられています。
  • 桜中学校の北に、桜一色村が昔開墾した耕地で天王平(てんのうひら)という小字があります。この字名は桜神社の祭神・須佐之男命と習合した「牛頭天王(ごずてんのう)の称号より起ったと伝えられています。
  • 桜中学校の南には神田平(かんたんひら)」という字があります。これは桜一色村が往古には桜宮(伊勢神宮の摂社・朝熊神社)の神田(桜神田)であったことを表すと伝えられています。
明治22年〜42年頃の桜神社と地蔵堂の風景画 
向って右に、大樹に包まれた神聖な「桜神社」の景観をうかがい知ることができる貴重な絵図です。

(左)地蔵堂                    (右)桜神社
上記絵図の拡大ファイルへ     「地蔵堂」のページはココから


碑表に彫られた漢詩について

碑表には 儒者山田直行が桜神社参詣時の感慨を詠んだ漢詩が彫られている。
所 在 地 桜町一色
建 立 年 明治二年三月十五日
碑   表 漢詩
 作者・・・伊勢国安濃郡安濃津(現・三重県津市)の儒者山田直行

 概要  (1869年(明治2)3月15日、桜一色村の桜神社参詣時の作)
  • 桜一色村の人々か幾久しく崇敬する鎮守桜神社がある。往古ここには「桜御厨」や「桜神田」があり、桜神社を勧請した年月を知らないが、古記録を読み終え、当地が伊勢神宮に寄進された遥か延暦や応和の年を想う。春の桜岡(地蔵堂付近の岡)に咲く桜の美しさに感嘆し、北畠満雅ゆかりの国司寺に想いを馳せ、その感慨を高らかに謳っています。
碑   陰 氏子中
《漢  詩》 三重之郡櫻一色東海之道伊勢國土人
久崇櫻神社神木栽培切相力有櫻御厨
櫻神田勧請年月不可識閲了古傳幾許
書神廟貢献遥堪憶中認延暦及應和何
須後人労筆墨郷里南隣佐倉村社地境
界近相逼櫻山櫻岡春最勝物換星移一
歎息別有國司創建寺櫻岡山下感概極
黙検荘園舊地名無限櫻宇記疆域
謁櫻一色鎮守櫻神社有所感恭賦之
明治二己巳年三月十五日
          松齋隠士 山田直行 
《漢詩意訳》 三重の郡桜一色 東海道伊勢の国 土人
久しく崇む桜神社 神木栽培切に相力む 桜御厨
桜神田あり 勧請の年月識る可からず 古きより伝う幾許の書を閲了し
神廟貢献遥かに憶うに堪えたり 中に認(したた)む延暦及応和と 何ぞ
(もちいし)や後人の筆墨を労するを 郷里は南隣す佐倉村 社地境
界近く相逼る 桜山桜岡春最も勝る 物換り星移り一に
歎息す 別に国司寺を創建す 桜岡山下感慨極る 
黙して荘園旧地を検す 限り無き桜字疆域を記す 
桜一色鎮守桜神社に謁し感ずる所有り恭しく之を賦す
明治二己巳年三月十五日
          松齋隠士 山田直行 


桜一色(さくらいっしき)村」の由来についての一考察
(1) 桜一色村は桜村から枝分かれした村か?
 当地では、「一色」は本村に対してその別村あるいは枝村を指し、「○○新田」と呼ぶのと同じであると解釈され、「桜一色村は桜村から枝分かれした村である」と考えられてきました。
     (『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『西勝精舎聞書抄』山田教雄著)

 しかし、地名の「一色」は、荘園制で一種類(一色)の年貢を納める田地 “一色田(いっしきでん)” に由来する例が全国に多数あります。

【註】 一色田とは
荘園において一種類の課役のみを負う田地。通常、「〜名」と称される土地・名田には年貢と公事(くじ)(糸、布、炭、野菜、手工業品や特産物を納める)の二種類の賦課が存在するが、どちらかが免除されたもの。一般的には荘園領主・地頭などに対して年貢のみを納め、公事を免除されるものが多かった。

 その一方で、江戸時代、特に前期には、土木技術の発達と一円的に支配する権力(藩)が成立し、利害の調停がしやすくなったことにより、各地で用水路・堤防・溜池・埋立等によって耕地を開発する “新田開発” が盛んに行われ、そうしてできた村を「新田村」と呼び、元村の名を冠して「○○村新田」と呼ばれる事が多いとされています。しかし極めてまれに「○○村一色」と呼ぶ例もあるようです。

 要は、「桜一色村」という地名が、何時代に開発されて「村」として成立したかを調べることによって、“一色田” に由来するのか、あるいは“新田開発”に由来するのか判別し得ると考えられるので、その視点から「桜一色村」の由来を尋ねます。

(2) 文献別にみた「桜一色村」
1. 『明治十七年調 伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』
桜神社
は桜一色村の(あざ)武佐(むさ)に在り桜一色村の産土神であった。

2. 『桜町一色石川家文書』
桜神社
は字武佐に鎮座し、伊勢神宮への貢納物を取り扱う霊場であった。
桜神社の北方の字「永傳(えいでん)」は、桜神田三石の旧地である。
桜神社の西南の字「神田平(こうだがひら、又はかんたんひら)」(桜中学の南)は、桜神田一町五反の旧地である。
桜神社の北方の字「天王平」は、村天王神田二反の旧地である。
桜神社は、永禄年中(1558〜70年)兵火に罹り社殿が焼失したが、神霊は5町離れた地へ自らへ遷座して災難を免れた。その地を「宮田」という。その後人々は旧跡に奉還して「桜の宮」または「天王社」と呼称した。
【註】 神田(しんでん)・・・神社に付属して、その収穫を祭祀・造営などの諸費にあてる田地。租税が免除され、売買が禁じられた。平安時代に入ると寄進などによって増加し、神領と呼ばれる荘園となった。

3. 『四日市市史第7巻』
『神鳳鈔』の「御贄上文注文定」に、「桜神田」と「村天王神田」の記載がある。
「御贄上文注文定」に記載された御厨・御園の成立は承久年間(1209〜22)以前にさかのぼるので、「桜神田」と「村天王神田」の成立は承久年間以前である。
【註】 神鳳鈔(じんぽうしょう)』・・・鎌倉時代における伊勢神宮の所領である神戸(かんべ)御厨(みくりや)御薗(みその)神田(しんでん)名田(みょうでん)などを国別に分類集成した記録で、延文5年(1360)に原本完成。 但し、『神鳳鈔』の「御贄上文注文定」の御厨・御園の成立は承久年間以前にさかのぼると考えられている。
御厨・・・元来、供物調度を収納する倉を指したが、後にそれらを貢納する土地を指した。平安時代末期から、実質的に荘園と等しく、主に伊勢神宮の神領を御厨という。

4・ 『四日市市史第16巻』
1458年(長禄2)の『伊勢国智積御厨年貢帳』に、「中村郷」、「桜郷」「一色郷」、「森郷」、「平尾郷」、「上衣比原(かみえびはら)郷」の郷名がみられる。(参照:「智積御厨」についてのページへ

5. 『四日市市第17巻』
1594年(文禄3)に伊勢国の太閤検地が行われ、当地区でも耕地一筆ごとの年貢負担者を確定し検地帳に登録された。
同時に、村の境界とその範囲が確定され(村切りが行われ)、智積御厨内にあった「一色郷」は「桜一色村」、「桜郷」は「佐倉村」、「中村郷」は「智積村(中村トモ云)」として『伊勢国中郷帳』の三重郡の村として記載された。
すなわち、太閤検地によって、それまで各郷の耕作地や集落が複雑に入り組んでいた土地が村別に整理され、年貢の村請制を可能とする行政単位の一村落として「桜一色村」が成立した。

(3) 時系列順にみた「桜一色村」

962年
 (応和2
「伊勢国三重郡」は、村上天皇によって伊勢神宮に寄進され「神郡」となる。 (『神宮雑例集』)
1160〜67年
(永暦元〜仁安2)
「智積御厨」の成立。  (『荒木田章氏等申状』)
承久年間以前
(1219〜22年以前)
伊勢神宮外宮へ貢納する「桜神田」(境域一町5反)と「村天王神田」(同2反)成立。 (『神鳳鈔「御贄上文注文定」』、『桜町一色石川家文書』)
文永年間
(1264〜75)
智積御厨は、この頃には「瓜生郷(うりゅうごう)」、「森郷」、「小林郷」、「庭田郷」、「衣比原(えびはら)上・下二郷」に広がる。 (『藤原公行譲状案』)
1360年
 (延文5年)
「智積御厨」内宮に10石を貢納、境域は180町。
「桜御厨」内外宮へ各3石貢納、「桜神田」内宮へ3斗貢納。    (『神鳳鈔』)
この時期「桜御厨」と「桜神田」は「智積御厨」に混在していたものと思われると『四日市市史第16巻』に記載あり。
1458年
(長禄2)
記載のない郷(近世の智積村)から始まり、「中村郷」、「桜郷」、「一色郷」、「森郷」、「平尾郷」、「上衣比原郷」の郷名がみられる。  (『伊勢国智積御厨年貢帳』)
永禄年中
(1558〜70年)
「桜神社」が兵火に罹り社殿が焼失。その後再建されて、「桜の宮」または「天王社」と呼称された。 (『桜町一色石川家文書』)
1594年
(文禄3)
伊勢国の太閤検地が行われる。荘園制の崩壊。
「一色郷」は「桜一色村」、「桜郷」は「佐倉村」として各々三重郡内の一行政村となった。
1600年〜幕末
(慶長5〜慶応3)
桜一色村 慶長5(1600)年から亀山藩領。
慶長16(1611)年頃から神戸藩領。 
寛永13(1636)年から津藩領となり幕末を迎えた。
佐倉村 慶長5(1600)年から亀山藩領。
元和元(1615)年頃から天領。
寛永13(1636)年から津藩領となり幕末を迎えた。
1875年
(明治8)
「佐倉村」と「桜一色村」は合併して「桜村」となり、桜一色村は「桜村字一色」となる。
1889年
(明治22)
桜村と智積村が合併して「桜村」となる。
1909年
(明治42)
政府の一村一社の方針による神社合祀で、「桜神社」は椿岸神社に合祀された。
1954年
(昭和29)
桜村は四日市市に合併。四日市市桜町と同智積町の二町となり、旧桜一色村は通称「桜町一色」と呼ばれる。

(4) まとめ

「桜一色村」由来のキーワードは「一色」

 962年(応和2)に三重郡が伊勢神宮の「神郡」となってから承久年間(1219年頃)までの間に、「桜神田」と「村天王神田」が成立し、この両神田こそ「公事を免除され年貢だけを納める“一色田”」であったと推測されます。 何故ならば、この両神田が室町時代1458年頃までに「智積御厨」に統合された際、新たに特徴のある郷名「一色郷」が形成されたことは、取りも直さず“その郷の前身を示唆する郷名”と考えられるからです。

 安土桃山時代末期に行われた太閤検地で、「一色郷」と「桜郷」はそれぞれ「桜一色村」と「佐倉村」として行政村となり、江戸時代の1636年以降両村は並立して共に津藩領下にありました。

 1875年(明治8)、「桜一色村」は「佐倉村」と合併して「桜村」となり、ここに至って由緒正しい「一色」の名を持つ村名は歴史の中に消えました。

 結論として、「桜一色村は一色田に由来する村名である」とは資料不足のため確証を得ることができませんでしたが、「桜一色村は近世の新田開発によってできた村ではないと確認できました。ゆえに桜一色村は桜村の枝村ではない」と、郷土の歴史が証明しました。


                                                           (文責:永瀧 洋子)

参考文献:『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『四日市市史第7、16巻』、『伊勢の智積郷』(山田教雄著)、
『桜町一色『石川家文書』、
『日本地名語源事典』(吉川茂樹著)、『国史大辞典』(吉川弘文館)
、『日本史辞典』(岩波書店)