道標、道しるべ、ひと昔前の交通標識
 (三重県四日市市桜地区の道標)
2002年4月調査、5月13日掲載
2004年6月1日更新、2004年10月21日更新
2005年1月19日更新、
2005年5月3日更新
2012年6月20日更新

 「道標」は「道しるべ」とも呼ばれ、旅人や通行人の便宜のため、木や石などにそれぞれの道が進む方向・目的地・距離(里程)などを記して路傍に立てた標示物です。 まれに道祖神や地蔵の台座に、案内表示とともに発起人や年号を刻んで、社寺信仰や供養を兼ねてたものもあります。
 道標の起源は明確ではありませんが、現存する遺物の大半は近世以降に設けられ、江戸時代に旅行者が増えるにともない、道標も増設されていったようです。
 現在は、全国画一化された道路標識にとってかわられ、道ばたに忘れ去られた様な存在となっていますが、気を付けて見て歩くと、今なお昔通りの場所に大切に残されている道標に出会うことができます。

1.桜地区の道標
  桜地区の道標の“特徴”
現在残っている桜地区の道標9基には、いずれも服部泰次郎の名が刻まれており、同氏の経歴から大正8年〜9年にかけて建てられたものであることが分かります。これらの道標の石柱高は約50〜60cm、石柱上部は約17×18cm前後で、材質は朝明石(花崗岩。菰野石とも呼ばれる)で造られています。
桜地区内の道標は、『続ふるさとの生活誌』(1990年発行、桜郷土史研究会編集)によると、紛失したものを含めて、元々12基あったことが判ります。
 2005年7月8日現在、12基の内2基は完全消失、1基:「道標-1」は行方不明、2基:「道標-5」と「道標−10」は本来の設置場所から撤去され、現在は桜駐在所(旧桜地区市民センター)の北側に屋外展示されています。(管理:桜郷土史研究会)
 従って、桜地区では7基の道標が今尚現役でその任務を遂行中です。
「道標」の設置場所は、「Map道標と山の神」でご確認ください。

  桜地区の道標
【道標-1】 (行方不明)
  
   (写真撮影:故藤岡修氏。桜ヶ丘) 
   (撮影年月:1998年4月)
平成10年(1998)4月、故藤岡修氏(桜ヶ丘)調査時
所在地 智積町 矢合川に架かる花本橋北詰
指示方向 「右 小山田」
「左 四日市」
 この写真が撮影されたのは1998年4月でした。
 2002年(平成14)4月19日の調査時以降行方不明です。

 (註:「道標-2」と全く同方向を指しますが、陰刻の文字形は明らかに異なります)



【道標-2】
  道標/智積-2
  (撮影日:2002年4月19日)

所在地 智積町767番地 伊藤昇様宅角地。里道の十字路。
指示方向 「右 小山田」 (判読可能)
「左 四日市 服部・・・」(泰次郎の文字は判読困難)
石柱高 30cm
石柱上部 16.5cm ×17.5cm



【道標-3】
  道標/椿岸神社東南
  (撮影日:2002年4月19日)

所在地 智積町638番地 椿岸神社東南の住宅角。
指示方向 「左 縣村」(判読可能)
地名なし 服部泰次郎」(判読困難)
石柱高 50cm
石柱上部 17.5cm×17.5cm


 県村平尾(あがたむらひらお)は、三滝川北岸にあり、ここから平尾までの道を平尾道と呼んでいました。

【道標-4】
  道標/桜南-横山氏宅
   (撮影日:2002年4月19日)

所在地 桜町570番地 横山隆興氏宅の生垣の南西角。
「カワグチ電器店」の十字路に建つ。
指示方向 「右 桜村役場」(判読可能)
「左 神森 服部・・・」(泰次郎の文字は判読困難)
石柱高 56cm
石柱上部 18cm×17cm

 生垣に隠れて分かり難いです。

【道標-5】
  道標/伊藤クリニック西横
(2002年4月19日撮影調査時の状態)
現在は駐在所北側に屋外展示されています。  屋外展示へリンク

大正8〜9年設置当初の場所 「県道753号線」と昔の「桂谷への道」の交差点。現桜新町(桜町6684−23)
2002年4月19日調査時の所在地 桜町南「石川記念いとうクリニック」と西隣の住宅との境界地  【左の写真】
2004年5月29日 民家【左の写真】から桜駐在所の北側へ移設される。
2005年7月8日以降 桜駐在所北側で「道標-10」と共に屋外展示される。  屋外展示へ
指示方向 「右 桂谷 服部泰次郎」
「左 水沢」(判読可能)
石柱高 92.5cm
石柱上部 16cm×15.5cm
石柱下部 16cm×19.5cm

  • 桂谷(かつらたに)は、桜から県道753号平尾茶屋町線(通称亀山道)を通って名阪自動車道の陸橋を通過すると道路西側に広がる団地・桜新町とその向こうに広がる農耕地を含む一帯を指します。
  • 字桂谷は1980年代後半以降、耕地整理工事、道路改修工事、宅地開発等によって激変しましたが、こうした一連の工事が始まったばかりの頃、桂谷に水田をお持ちの方が農作業を終えて帰る途中、この道標が道端に放置されていたので持ち帰り、【写真1】の如く宅地の境界に置いて利用しておみえでした。
    このようにして歴史的遺物である道標は消失を免れたのです。
  • 水沢は、県道753号線と県道752号茶屋町湯ノ山停車場線の交差点を西(ICETT方面)へ進むと水沢へ行けます。
この道標の本来の設置場所
 「Map道標と山の神」「推5」の地点、現桜新町(桜町6684−23)が本来の設置場所でした。(2005年10月15日、桜町南・山田修氏・79歳に確認済)
 昔、この道標が立っていた周辺は、山あいに開けた水田地帯で人家も無く寂しい場所でした。道路分岐点でこの道標はひっそりとたたずみながらも、しっかりと道案内をして旅人に大きな安心感を与えていたことでしょう。

【道標-6】
  道標/智積-3/西野-平尾
   (撮影日:2002年4月19日)

所在地 智積町6444-1 宅地の東北角
国道477号の小野外科の前付近でT字交差する道を北進する。そのまま真っ直ぐ行くと西野道とT字交差する。そのT字交差点の西角。
指示方向 「右 西野 服・・・」(部泰次郎の文字は埋もれている)
「左 平尾」 (判読可能)
石柱高 44cm
石柱上部 16cm×15.5cm


【道標-7】
  
   (撮影日:2004年4月19日)

所在地 山上 桜市民センター北西
理容「フジ」の裏、里道の三叉路。
指示方向 「右 さくら」(判読可能)
「左 神森 服部・・・」(泰次郎の文字は埋もれている)
石柱高 50cm
石柱上部 16.5cm×18cm


【道標-8】
道標/乾谷-1 道標/乾谷-2
写真撮影:故藤岡修氏(桜ヶ丘)1998年4月撮影
               
     
     道標/乾谷-3/こもの-桜
     (撮影日:2002年4月19日)


1998年4月、故藤岡修氏(桜ヶ丘)調査時
所在地 坊主尾道と国道306号(通称巡見道)の交差点角の乾谷(いんだに)公会所前
特記 道標が折れて側溝に転げ落ちていました。




所在地 上記と同じ乾谷公会所前
指示方向 「右 桜 服部・・・」(泰次郎の文字は埋もれている)
「左 こもの」------「の」の字が埋もれている
石柱高 36cm 
基部コンクリート14cmの上に建つ。
石柱上部 18cm×20cm

【道標-9】
  
   (撮影日:2004年10月15日)
この道標は、平成10年(1998)8月、当地中から掘り出されました。
2004年10月調査
所在地 桜西区、字天ノ平。
桜地区市民センターから西へ約400mの三叉路(坊主尾道と桜中学校への道)。「団体営ほ場整備事業」の記念碑設置場所前のゴミ置き場横。
指示方向 「右 坊主尾」
「左 水沢 服部泰治郎」(服部泰治郎の文字は風化しており判読に想像力が必要)
石柱高 62cm 
石柱上部 18cm×18cm

この道標の発見者:山原茂様(桜町西区)の談話
(2004年10月15日)
 『子供の頃、学校帰りにこの三叉路の道標でよく遊んだものです。 昭和55年(1980)頃、この三叉路に「桜中学校敷地造成並びに建設工事用仮事務所」のプレハブが建てられました。およそ2年後の昭和57年4月に桜中学校は開校され、プレハブも撤去されました。 それから時が経ち、平成10年(1998)の初夏、この場所に「団体営ほ場整備事業竣工記念碑」と「団体営灌漑排水事業竣工記念碑」が設置される事になり、工事人たちがパワーシャベルやトラックで残土処理をしていた時、ここを通りかかり、偶然石柱が掘り起こされるのを目撃しました。 それが道標の発見です。 その時まで道標の事はすっかり忘れていましたが、懐かしく思い、いったん家へ運んで、水道水とタワシで土砂をきれいに落として保管していました。その後ここに記念碑が建てられ、ゴミ置き場が設置される際、交通の邪魔にならず、しかも道標の役割を果たすことの出来るこの位置に建てるよう工事人に話しました。こうして、ここに道標が蘇り(よみがえり)ました。』

 大正8〜9年頃、ここに建てられた道標は、昭和55年頃から18年間も地中に埋もれて誰からも忘れ去られていましたが、平成10年の夏、まさに残土と共にトラックで運び去られる寸前に、幸いにも山原様によって発見され、この道標は歴史的な復活を果たしたのでした。


【道標-10】 

  (桜町824番地、民家入り口に横倒しで保管)
        (撮影日:2005年1月17日)
              移動:鈴木健一会員
    以下は、2005年5月3日撮影
    
(当時、旧桜地区市民センター敷地内に保管中)
(左:「道標−5 右桂谷」、 右:「道標−10 左かもり」)

              
  • 昭和62年(1987)の調査時・・・既に本来の設置場所から撤去され、文書に「保管中」の注記あり。(但し、保管場所の明記無し)
  • 平成14年(2002)4月の再調査時・・・保管場所を確認できず。(前回調査時から15年経過)
  • 平成16年(2004)12月・・・情報提供者が現れ、遂に所在確認。
    2004年12月保管場所:桜町824番地、民家への通路(アプローチ)に横倒しで保管されていた。
この道標の本来の設置場所
 桜町522番地 石川氏宅地南西角・・・「Map道標と山の神」の「元10」です。


民家から移転された「道標−10」。撮影:2005年5月3日
2004年12月10日調査
2005年4月8日民家から移設
保管場所 桜駐在所北側(旧桜地区市民センターの敷地内)にて、当会が「道標−5」と共に保管中。同センター二階には当会が管理する「桜地区暮らしの歴史資料館」がありました。
指示方向 表面・・・・・「左 かもり」
右側面・・・「服部泰治郎」(判読可能)
石柱高 93cm 
石柱上部 17cm×16cm
石柱下部 20cm×18cm

【屋外展示】  2005年7月8日
場所:桜駐在所の北側

左:「道標−5」、右:「道標−10 」
(2005年7月20日撮影)
設置:鈴木健一会員
 2005年7月8日、上記二つの道標を元来の姿に模して屋外展示としました。
 場所:桜小学校隣の桜駐在所北側(旧桜地区市民センター敷地内)

 この二つの道標は、昭和50年代に土地開発や道路整備工事の過程で、邪魔となり、本来の設置場所から撤去され、危うく近代化の波に押され消え去るところでした。

 幸いにも、「大正時代のかけがえのない歴史的遺産」を守ろうと熱い情熱に突き動かされた人々の世代間を越えた連携が実を結んで、こうして無事保存展示するに至りました。

 どうぞ皆様、ご自由にお立ち寄りいただき、大正時代の手作りの道路標識を実際に手で触れて、その温もりをお確かめください。

  • 平成20年秋、「桜地区暮らしの歴史資料館」は消滅しました。
    昭和46年に建造された二階建て「旧桜地区市民センターの建物」は、昭和60年に新規にセンターが現在地(桜町1933)に建てられた後の有効利用として、「桜学童保育所」が一階部分と前庭を、二階部分は当会が「桜地区暮らしの歴史資料館」として使用していましたが、耐震基準を満たさず平成20年秋破壊されました。
    同資料館には、主に大正時代から昭和初期にかけて、桜地区の人々が実際に使用していた農機具や生活用品など、人々の暮らし振りを伝える品々が多数収蔵・展示されていましたが、移設先が無く惜しくも破棄されました。

2.桜地区の道標・消失の事例(2例)

  1. 1997年〜1998年頃に撤去された例
    巡見街道(国道306号)とICETへの道が交差する辺り(桜町西区諸戸野)に、一抱えもある大きな石がありその前に「道標」があり、「右 桜、 左 諸戸野」と刻まれていました。 
    2002年4月の調査時に、道標があった場所のすぐ近くにお住まいのご婦人の話によると、「近年、道路が拡張整備されて以来、自動車の往来が激しくなって、夜間、その道標の後の大きな石に車が激突する事故が多発しました。 それで、とうとう4,5年前に、その石を撤去することになり、その際、道標も撤去されてしまった。」と言う事でした。
    この道標の貴重な写真が、「北伊勢の道標」を調査されたホームページ「北勢地方の道標」様の「桜地区の道標−NO.77」(外部リンク)に掲載されています。

  2. 1982年(昭和57年)に埋没?撤去?の例 (2004年6月1日、桜町山上字大谷の服部勝馬様にお話を聞きました)
     服部家の近くにあったその交差点の道路西側に、「右 山條、左 宿野」と彫られた「道標」が建っていましたが、昭和57年に、県道140号四日市菰野大安線(通称ミルクロード)の敷設工事で地中に埋没したか、あるいは撤去されたかのどちらかであると考えられています。

    "グレイスヒルズC.C."を背にして、手前はミルクロード。
    写真中央奥に伸びる道が「大谷道」。
    「右山條、左宿野」の道標は、ここから大谷道を50m入った左側、建物の手前に建てられていました。
     桜地区内ミルクロード沿いにあるゴルフ場"グレイスヒルズカントリー倶楽部"の正反対側(東側)に、山上(やまじょう)地区へ通り抜ける「大谷道」が斜め東方向へ伸びています。

     ミルクロードが敷設される昭和57年以前には、鈴鹿石薬師から桜地区を通り宿野を通って菰野に向かう「石薬師道」がありました。 
     この「石薬師道」は、桜地区内では現・ミルクロードにほぼ沿うように走っていましたが、今の服部家宅地の直ぐ西付近で、急カーブを描き「大谷道」とT字交差したあと、現・ゴルフ場の山を越えて宿野に通じていました。 それで、服部様たち字大谷にお住まいの方々は、「石薬師道」とは呼ばず、「宿野道」と呼び習わしていたそうです。


     さて、服部勝馬様のお父様(俳人:服部大渓・・・関連ページへ)が、道標の消失に気付いたのは、この付近の全ての道路工事が完了した後の事で、返す返すも惜しい事をしたと残念がっておられたそうです。
     服部勝馬様は、この道標が建っていた所に服部家の畑があったので、子どもの頃から「少し斜めに傾いた道標」を、見慣れた風景として覚えていらっしゃるそうです。  残念なことに、この道標の写真は残っていません。

3.服部泰次郎について
出生 安政元年(1854)、三重郡小杉村(現四日市市小杉町)に生まれる。
生立ち 読み書きは末永や坂部の寺子屋で学ぶ。14,5歳から父親の半農半商の手伝い、農閑期には天秤棒で小間物や雑貨を担いで行商して商売のコツを覚える。
職業 29歳の頃、米穀商を営み、近隣の村々で買い集めた米を、四日市港から横浜へ船積みして、伊勢米の販路拡張に尽くす。
日清・日露戦争時には、軍用米扱い業者となり、その後、アメリカやカナダへも日本米を輸出し、県下屈指の米穀商となる。 
道標建立の動機 行商をしていた若い頃、道を間違え苦労した経験から、村々の辻に道標を建てる事を、永年、念願としていました。
建立を始めた年 大正8年3月、道標建立を三重郡役所へ申し出る。
道標造り 当時の郡長の計らいで、千草村の石工仲間が朝明石を石材に刻み、三重郡内29ヶ村の全部の辻に建てるのを目標とする。その数は不明。
他界、念願成就 大正9年2月29日、67歳で永眠。 道標建立の夢がほぼ実現した頃でした。

参考資料:『続ふるさとの生活誌』(桜郷土史研究会編集)、Webページ『北勢地方の道標』。『こものがたり第三集“続歴史こばなし”』。『広辞苑』岩波書店。
このページの人名を含む個人情報は、全て当桜郷土史研究会のホームページに掲載する旨の御許可を得ております。 
2002年4月調査、5月13日掲載、2004年6月1日更新、2004年10月21日更新、2005年1月19日更新、2005年5月3日更新、2012年6月20日更新
協力:鈴木健一会員、故藤岡修氏(四日市市桜町桜ヶ丘)   文責:永瀧洋子


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