2006年6月18日一部修正
2005年12月20日掲載

(2005年11月調査
このページは、「山の神祭事」のページと併せてご覧下さい。

昔、私たちの町・四日市市桜町に疱瘡(ほうそう)の神さん」という素朴な信仰がありました。
疱瘡(ほうそう)の神想像図
「疱瘡の神」想像図
「疱瘡の神さん」について分かっていること
  • 形状・・・・・・・・「山の神」によく似た石体
  • 設置場所・・・・桜町西の字砂子谷(あざすなこだに)
  • 昭和の末期頃まであったが、現在は行方不明 (2005年11月調査時)
桜町西乾谷(いんだに)の加藤庄一郎氏の話
  • 我が家の北東約100mの裏山(砂子谷)に「山の神」とよく似た形状の「疱瘡の神さん」がありました。
    私が小学生の頃、「疱瘡の神さん」のすぐそばの木に、桟俵さんだわら藁を直径30cmくらいの円盤状に編んだもの)が結びつけられ、それに餅を載せてお供え物としてあるのを一度見かけたことがあります。
    また同年輩の近藤巧さん(大正13年生まれ)の話では、昔は歯痛の時にも「疱瘡の神さん」にお参りしたものだと聞いています。
桜町西斧研(よきとぎ)の近藤善治氏の話
  • 子どもが種痘(しゅとう。天然痘の予防接種)を受けると、その親は「疱瘡の神さん」にお供え物をして、良好な経過を願う風習が子どもの頃には未だ残っていたので、稀に砂子谷の「疱瘡の神さん」にお供え物があるのを見ました。


疱瘡(ほうそう)とは
  • 疱瘡とは天然痘(てんねんとう)のことです。
    疱瘡は、古くから感染力が強く死亡率が高い伝染病として非常に恐れられていました。

  • 『日本書紀』には、欽明天皇13年(552年)から用明天皇2年(582年)にかけて、疫病の記録があらわれます。この時期は、仏教伝来の歴史的転換期です。
    物部氏は、「突如発生した疫病は、蘇我氏が日本古来の神々を無視して、舶来の仏教を取り入れた神罰だ」と蘇我氏を非難攻撃します。
    この疫病の正体が「疱瘡」、「天然痘」ではなかったかと考えられています。
    (また、舒明天皇2年(630)以降、遣唐使は十数回派遣され、中国の先進文化などの恩恵に預かりましたが、同時に彼らは疫病(天然痘)を持ち帰った、と考えられています)

  • 『続日本紀』(文武天皇1年(697年)〜 延暦10年(797年)
    「天平七年閏十一月壬寅、患豌豆瘡(えんどうそう・・疱瘡の古名)夭折死者多」・・・とある。
     (天平7年(735年)11月、疱瘡(天然痘)を患い、若くして死ぬ者多し)

  • 天平9年(737年)に流行した疫病(疱瘡)で、藤原鎌足の次男・藤原不比等の息子四兄弟が疫病で死亡し、共に政治を担っていた公卿たちも次々に亡くなっています。

    【註:天然痘】
     わが国では、明治42年(1909)に種痘法(明治42年法律第35号)が公布され、種痘に関する法体系が完備した。以来その効果は徐々に表れ、昭和21年(1946)引揚者を中心に天然痘は一時的に大流行したが、昭和31年(1956)以降発症例は無く、昭和51年(1976)定期予防接種が廃止された。
    昭和55年(1980)WHO(世界保健機構)が世界天然痘根絶宣言。1796年イギリス人ジェンナー種痘法開発から約2世紀(184年)を経ていた。


「疱瘡の神」信仰
  • 往古より、適切な治療法や予防法が無かったので、人々は疱瘡を御霊の祟りと信じ、疱瘡を村の外へ送り出す「疫病神送り」をするなど呪術的信仰に頼らざるを得ませんでした。
    こうした「疱瘡神」信仰は少しずつ形態は違っても日本各地の多くの場所でかつては見られたようです。
桜地区の「疱瘡の神さん」信仰
  • 桜地区内の桜町西では、字砂子谷(あざすなこだに)にあった「疱瘡の神さん」に祈れば、疱瘡を免れ、または疱瘡に罹(かか)っても軽く済むと信じられていたので、お供え物用に新しく桟俵(さんだわら)を作ってお餅、おだんご、赤飯などを供えて祈ったそうです。
    現在では、こうした疱瘡の神さんの信仰形態を知っていると証言する人は、大正〜昭和初期生まれで、しかも桜町西区に住む人に限られています。

    面積約12ku、人口約2,500〜2,600人前後で明治期から昭和19年まで推移した桜地域内で、信仰・習俗の形態に大きな差異など無く、どの字々にも「疱瘡の神」信仰はあったと思われますが、今では桜町西以外には、そうした言い伝えの一端さえも残っていません。

    更に時代の趨勢で、桜町西区の人々も「疱瘡の神さんという信仰が自分たちの地区にあった」ということさえも知らない人のほうが多くなってきています。

なぜ、「疱瘡神」は桜地区から消滅したのか?
  • 考えられることは、上記掲載の【註:天然痘】でみたように、明治42年以降全国的に種痘が実施され、以降、科学的予防法は驚異的な効果をもたらし、当地では大正・昭和に入ると一人の罹患者も出なくなり、村人は疱瘡の脅威から急速に解放されたと考えられます。
    そうなると「疱瘡の神」の役目は終焉し、必然的に人々の記憶から薄れ消滅の道を辿ったと推定されます。
「山の神」信仰はなぜ残ったのか?
  • 五穀豊穣と柴・薪・山菜など山の恵みをもたらす「山の神」は、農民の日常生活に密着していたが故に休養と親睦と、そして同じ字(あざ)に暮らす人々の団結を兼ねて継承されたのだと考えられます。
    ・・・近代的農法が導入され、化学肥料や機械化で農作業は格段に楽になりましたが、「今なお人知の及ばない偉大なる自然を畏れる心を忘れてはいけない」と考える人々が桜地区には未だたくさんいて、そうした人々によって「山の神」が守られている・・・と聞き取り調査で感じました。
 桜地区では以上の様な理由で、「疱瘡の神」信仰が「山の神」信仰よりも先に廃れたと考えられます。


「山の神の掛軸」と「疱瘡の神」
  • 「八衢比古命・八衢比売命」の掛軸は、明治12年神宮教桜分教会所が現在の桜町南区公民館の西に創設された頃、西の平(現・桜町南)、山上(現・桜町山上)、斧研(桜町西)の3つの字に数本ずつ恵贈されました。(詳細は、「山の神祭事」のページへ)

  • 「八衢比古命・八衢比売命」が、「往古より村の辻々に座して外から侵入してくる邪神を防ぎ、かつ疫病退散の神」と信じられていることから、この二神の掛軸を掲げて山ノ神祭事をすることは、とりもなおさず、「疱瘡の神信仰」と「山の神信仰」は当地の人々にとって同次元として捉えられていることを表しています。

「山の神」と「疱瘡の神」の合祀か?
  • 桜町西では古くから「疱瘡の神」は、“疫病退散の神”すなわち「道祖神」として村人の篤い信仰を集めていました。

  • 一方、桜町山上では「道祖神」の掛軸が主体の「山の神祭事」が現在に継承されています。

    上記2点を考え合わせると、以下のことが推定されます。
    1. 桜町「山上」に於いては、神宮教本院から掛軸を恵贈されると人々は崇敬の念で受け入れ、以来「山の神」と「疱瘡の神」を合祀する形で、掛軸を伴う山の神祭事が継承されてきたと考えられます。

    2. それでは同掛軸を恵贈された桜町西の「斧研」の場合はどうであったか?
      恐らく、掛軸を受け取った当初からある時期までは、「山上」と同様に掛軸を伴う山の神祭事を催行していたであろうと推測されます。
      その後、明治32年「神宮教」が「神宮奉斎会」となり、次に明治42年「一村一社の神社合祀」となったのを機に、斧研の人々の信仰は、再び身近にある「疱瘡の神」の石体に向かったのではないかと推定します。
      • 【2005年11月の調査時に新たに判明したこと】
        「山の神の掛軸について」のページに、斧研には掛軸は残存しない・・・とありますが、その理由は「神社合祀で山の神の御霊を移す際、掛軸も椿岸神社へ納めた。」と年寄りから聞いている。」と、桜町西区斧研近藤善治氏より証言を頂きました。
        この証言は、二神の掛軸が手元に無ければ、村人の心の拠りどころとして「疱瘡の神さん」の石体に向かうべくして向かったことを傍証していると思います。

    3. やがて、大正時代から昭和初期にかけて、年を追うごとに疱瘡の脅威は薄らぎ、周辺の字々が「疱瘡の神」を捨て去る過程にあっても、「山上」の人々が「山の神と道祖神(掛軸)」に信仰をおいたように、「斧研」の人々は「疱瘡の神」と「山の神」を別々に信仰し続けたのではないかと推察します。
                    
 こうして桜地区内の同じ掛軸を所有した別々の字で、異なる信仰形態・習俗に発展した興味深い現象と捉える事ができます。

                  ー 以上 ー 

2005年11月調査、2005年12月20日掲載、2006年6月18日一部修正    文責:永瀧洋子

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