とにかく、ちょっと桜地区の歴史の概略を知りたい、そんな方におすすめのページ!

四日市市桜地区の真ん中を流れる矢合川(やごうがわ)は、
いつの時代も、私たちの先人と常に何らかの接点を持っていました。


縄文時代
        

 



 





縄文時代は、今から13000年前から2300年前まで、約一万年間続いた時代です。 
桜地区の南方の「桜運動広場」~「四日市スポーツランド」までの地域に6ヶ所と、桜町西区の「西区公民館」前の2ヶ所で発掘調査が行われ、縄文時代と弥生時代の遺跡が発見されました。
これらの遺跡は、日当たりがたいへん良く、しかも水の便がよい場所にあります。
山野でどんぐりや山芋などの山菜を採集したり、兎や狐などの動物を捕えたり、矢合川(やごうがわ)や足見川(水沢地区)で魚を捕らえたり、水を汲んで煮炊きをしたことでしょう。
住居は、地面に穴を掘って、床と低い壁を作った竪穴式住居、あるいは簡単な掘っ立て小屋のようなものだったと考えられます。
  • 縄文時代に、人々は「土器」を発明しました。
    縄文時代の前の「旧石器時代」には、人々は捕獲した動物などを、焚き火で焼くことはできました。しかし「土器」の発明によって、それまで食べることが出来なかったものを食べられるようになり、食生活が豊かになりました。
    (しかし、桜地区内では、縄文時代の土器は見つかっていないようです)  
桜地区の遺跡からは、
 チャート(石英質の硬く光沢がある石材)で作られた2~3cmのナイフ型石器(刃が鋭い)や、サヌカイト(奈良県と大阪府の県境にある二上山で取れる黒色の石)の石鏃(せきぞく。石やじり)等が出土しました。
 
リンク・・・「桜地区の遺跡地図」をご参照下さい。

 こうした縄文人の遺跡は保存されませんでしたが、採集された石鏃(せきぞく)、石錐(せきすい)、削器(さっき)、石匙(せきひ)は、四日市市立博物館に収蔵されています。
飛鳥時代
~奈良時代


(智積廃寺の瓦模様)
 飛鳥時代、私たちの先人は、矢合川がもたらす肥沃な土地で稲作に励み、付近の山で木を伐って竪穴住居を造り、薪(まき、たきぎ)を集め、山の幸を採集して煮炊きをするなど、自給自足の比較的豊かな生活を営んでいたようです。

 そのことを裏付けるかのように、1967年(昭和42)、智積廃寺(ちしゃくはいじ)の遺跡矢合川の北岸で発見されました。
 この智積廃寺は、飛鳥時代の後半に建立され、約百年間存続して廃絶した寺で、当地方を支配した豪族の氏寺と考えられています。

  智積廃寺跡は、四日市市最古の仏教寺院遺跡ですが、非常に残念なことに、遺跡として保存されませんでした)
 
 リンク・・・詳細は「智積廃寺跡」をご覧下さい

 智積廃寺発掘調査で出土した軒丸瓦(のきまるかわら)塼仏(せんぶつ)など、たいへん貴重な遺物数点は、四日市市立博物館に収蔵されています。
戦国時代 

  
 
 時は戦国時代
 財力を貯え、多くの兵を養い、機を見るに敏なる者が勝つ!

 1539年(天文8)、我が郷土の若き佐倉城主・小林重則(こばやししげのり)は、亀山の関一族の峯城主・峯盛定(みねもりさだ)の攻撃を受け、一生吹山(いっしょうぶきやま)の砦(とりで)で迎え撃ちました。

 標高109.6メートルにある砦では、城主も家臣も一丸となって臨戦態勢を整えていました。
 しかし、峯軍は多勢で押し寄せ、迎え撃つ我らが佐倉軍は無勢にて、やがて討ち散らされ、砦の陥落危うくなり、やむ無く矢合川北岸へ後退。
 追って来た峯軍と、矢合川を挟んで、矢を射合う激戦となりました!
 懸命に攻防するも、頼みの綱の千種氏からの援軍も来ないまま、無念の負け戦。
 佐倉城主小林重則は、哀れ18歳の若き身空で自刃して果てました。

 リンク・・・詳細は「一生吹山の歴史」をご覧下さい
室町時代~
安土桃山時代

 椿岸神社の拝殿に向かって右側に、たくさんの赤い鳥居が印象的な「椿岸稲荷神社」があります。実は、この神社は明治時代末期まで、現・桜町南区に在り、「幸田(こうだ)神社」と呼ばれていました。

 1530年~1540年(天文年間の初め頃)、長い戦乱で荒廃した京の都を逃れて、父親に伴われて当地へ来て、その後、生涯をこの地で過ごした一人の女性がいました。 
 その女性の名は、加賀姫(かがひめ)
 父親は松木宗藤(まつのきむねふじ)という正三位権中納言の上級貴族で、当地・智積御厨(ちしゃくみくりや)の領主でした。
  • 加賀姫が父から与えられて住んだ所
    櫻村の東境に接する智積村内に、加賀姫が住んでいたという「加賀屋敷」が在りました。
    後に「加賀屋敷」という小字名となっていましたが、その小字地も明治17年の調査時には既に消滅していました。

  • 加賀姫の化粧料地として、矢合川南岸沿いの「字姫御前平(あざひめごぜひら)与えられていました。
    化粧料地・・・中世、女性にその生存の間だけに限定して許された財産。
    ●字姫御前平・・・現・県立西高等学校のグラウンド西端の辺り。
加賀姫は長寿で、なんと90歳の時に、京都の「伏見稲荷神社」を勧請して「幸田神社」を創建し、自筆の「棟礼」を残すという天晴れな女性でした。 

 リンク・・・詳細は「加賀姫と椿岸稲荷神社」をご覧下さい
江戸時代

 
 江戸時代になると、戰爭が無くなり、全国的に人口が増加しました。
 桜地区でも人口が増えて、米の増産を試みました。
 しかし、村の中心を流れる矢合川は水量が乏しかったので、私たちの先人は農業用水の確保のためにたいへん苦労しました。

矢合川の上流・・・桜村では
 桜町西区の茨尾(いばらお)で、矢合川に「(せき)」造って、矢合川の水を「マンボ」に流し入れ、長大な「大井(おおゆ)」と呼ぶ用水路を延々と張り巡らせて、桜村一帯の広大な田んぼを潤す工夫もしました。
 このように血の滲むような労働を厭(いと)わず、もくもくと働き続けた私たちの先人は、やがて数十町歩の水田を開拓しました。

山中の窪地に「溜池(ためいけ)を築造
 その溜池の水を麓(ふもと)へ流すために用水路を造って、麓の田畑を潤(うるお)す工夫をしました。

 リンク・・・「マンボ」と「溜池」の詳細は「桜町西区のマンボについて」をご参照下さい。

矢合川下流・・・智積村では
 隣村の森村(現菰野町神森)にある蟹池の豊富な湧水を、用水路を掘って智積村に引き入れて稲作をしていました。
 この用水路を「智積用水(ちしゃくようすい)」といいます。「米つくり」ばかりでなく日常生活にも利用された大切な用水に、いつしか「智積養水(ちしゃくようすい)」の字が当てられました。
 しかし普段は豊富な水も、いざ旱魃(かんばつ)ともなると、水不足となって、森村と智積村の間で幾度となく「水争い」が起こりました。
 特に、1777年(安永5)に起こった智積用水の水論訴訟は、10年後の1786年(天明6)に和解するという難儀さでした。
 リンク・・・詳細は「三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)」をご覧下さい 
(併せて、「智積養水」のページもご参照ください)
現代

 
 三重用水
 菰野調整池
 私たちの先人は、稲作には必須の農業用水を確保するため、永年に亘って血の汗を流すような苦労をしました。

 しかし、1967年(昭和42)頃から、「水田の土地改良や排水整備事業」が実施され、更に1993年(平成5)に完成した三重用水」から、安定した農業用水を受けるようになって、最早「水」で苦労することはなくなりました。
 (外部リンク・・・「三重用水のホームページ」へ ) 

 但し、現在も「三重用水」以外の水源も依然として利用されています。
  ●智積町の「智積養水」の水源は蟹池
  ●桜町一色の「山上井(やまじょうい)の水源は金溪川(かんだにがわ)


 1970年代から、南の丘陵地に大規模住宅団地が造成され、人口の増加に伴って私たちの生活が多様化するに伴い、矢合川から見る桜地区の風景も大きく様変わりしました。

 しかし、今日も矢合川は、西の山の谷間よりさらさらと流れ出て、元気な子供達に水棲生物をプレゼントしながら、桜地区の真ん中を通り抜け、やがて三滝川に合流していきます。
矢合川は、私たちのふるさとの象徴です。