三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)
交通  近鉄湯の山線「桜駅」下車。北出口から徒歩で約3分程度。
所在地  三重県四日市市桜町一色。
 近鉄湯の山線「桜駅」の北出口から、北方200m付近の金渓川(かんだにがわ)の堤防に取水口が開いています。
重要性  菰野町神森にある蟹池の湧水を、智積側に引いてくるには、金渓川と天王川がその行程の障害になります。(「智積養水周辺地図」をご参照下さい)

 そこで、考え出されたのが、金渓川と天王川の両川を横切る形で、川底に樋(とい)を埋設して貫通させ、川の北岸(神森)から、南岸(桜一色)へ水を送る土木工法です。 つまり、二つ川はこの三十三間筒の上を交差する形で流れています。(写真3)
 そして、この埋設された樋の長さが三十三間(約59m)あるので、三十三間筒と呼んでいます。

 蟹池から流れてきた水は、写真(1)(2)から、三十三間筒に入り、写真(3)(4)の桜町一色側へ出て、ここから智積町へ流れ入ります。 
 この地点は、智積養水の要(かなめ)の地点であると言えます。
起源 三十三間筒の起源は不明ですが、
 江戸時代1711年(正徳元年)、四日市陣屋代官石原清左衛門正利が官費をもって伏替えた・・・・・・その後石樋に替えられた・・・・・と文献にあります。
 この時、智積村(現・智積町)は天領(幕府領)で、智積養水の水源池がある隣村の森村(現・菰野町神森)は菰野藩の領地でした。
 (1711年以前にも三十三間筒はあったこと、また石樋を埋設するまでは、おそらく木製の樋であったと推察されています)
大きさ  江戸期の石樋は、長さ=33間(59、14m)、高さ=2尺5寸(75cm)、幅=3尺(90cm)
名称のいわれ  埋樋の長さが33間であるところから、三十三間筒と呼ばれています。
昭和の伏替工事  昭和37年着工し、昭和40年完成しました。写真(4)の洞門の上部に竣工記念板があります。
 この時は、農林省の助成を得てコンクリート製のヒューム管を埋設し、鉄製の樋門を森地側に設けています。

金渓川北岸(菰野町神森字金田)の三十三間筒入り口

(1)三十三間筒の吸水口/菰野町神森側

(2)左の吸水口を間近で見る
金渓川南岸(四日市市桜町一色)の三十三間筒出口

(3)三十三間筒の取水口/桜一色側
取水口の上は、金渓川の堤防。
左側に三十三間筒の説明板があります。

(4)左の取水口を間近で見る。
取水口の上方、薄緑色が竣工記念板

智積養水の流れ写真をクリックして詳細解説をどうぞ。

(1)蟹池

(2)二分八分

(3)三十三間筒

(4)町並みを流れる
(智積養水の歴史

(5)排水口