2001年11月29日掲載
2002年10月24日一部更新
2004年5月24日一部更新

(1)水の苦労
 往古より、智積(ちしゃく)村では農業用水の不足に苦しみました。
  • 智積村の北側を流れる「三滝川(みたきがわ)」は「水無し川」と呼ばれ、雨が降っても直ぐに伏流水となって地中に潜ってしまい、農業用水(灌漑(かんがい)用水)として利用には向きませんでした。 
  • 同様に智積村の北の「金渓川(かんだにがわ)」と、これに沿うように細々と流れる小川(天王川(てんのうがわ))も、灌漑用水として十分ではありませんでした。
  • また智積村地内を流れる「矢合川(やごうがわ)」は、江戸時代元禄期(1688-1704年)の村明細帳に用水として利用された記録があります。これについては、智積村地内の矢合川は川底が浅く水量が少なく、用水としては小規模の利用と考えざるを得ないようです。(但し、矢合川上流の桜村地内では、矢合川に井堰(いせき)を築き、延々と長大な用水路を造って川水を回流させ広範囲の水田を灌漑していました)
  • ところで、隣村の森村には三滝川の水が地下に浸透して伏流水となり、自然に湧き出してここかしこに池を成し、辺り一帯は「湿田」となっていました。
  • 何時の頃からか定かではありませんが、智積村では森村の「蟹池(かにいけ)」 から水を貰い受けて「智積養水」と称し、村内の広大な水田を灌漑してきました。最初の記述は江戸時代1711年(正徳元)で、智積村の地誌『伊勢国三重郡智積村地誌草稿』に見られます。
  • しかし「智積用養水」があっても、一旦日照り続きで旱魃(かんばつ)ともなると、用水量は乏しくなり水田はたちまち干上がりました。逆に、梅雨や台風シーズンに豪雨に見舞われると、用水路から水が溢れ出し、更には「三滝川」や「金渓川」の上流から怒濤の如き洪水の襲来を受け、智積村の水田は無残にも土砂が積り農作物が壊滅する憂き目に何度も遭いました。
 水無くして農業は成り立たず。往古より全国各地の農村で、村人全員を巻き込んで「」の訴訟を伴う大きな水争いや、小さな水の揉め事は絶えず起りました。 智積村もその例外ではありませんでした。


「新吉沢橋」から三滝川下流東方を望む。
現在でも、三滝川の「水無し川」状態を、容易に観察できる場所があります。
場所:
菰野地区内。県道140号(通称:ミルクロード)の三滝川に架かる「新吉沢橋」から見る三滝川は、平素は、上流側も下流側も見渡す限り「水無し川」状態で、川水は地中に潜っていて、川底が白々と露呈しています。
 この「新吉沢橋」から約1km下流の「黒田橋」(四日市市黒田町)から見る三滝川は、水量がとても豊かで自然の妙に驚きを禁じえません。

撮影年月日:2004年5月24日。前日は曇り時々雨。

(2)智積養水の起源と用水路について
【起源】
 『明治17年伊勢国三重郡智積村地誌』に、「江戸時代の1711年(正徳元)に金渓川の川底の埋樋(うずめとい)三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)を伏せ替えた」と記されています。すなわち、1711年に伏せ替える以前の智積養水の存在が明白です。しかし、その起源は定かではなく、下記のように歴史的考察によると、智積養水は「中世」まで遡ると考えられています。
1. 同一領内で灌漑用水路の開削
平安時代の1160年代、三重郡の智積地域を中心に「智積御厨(ちしゃくみくりや)」(御厨は実質的には荘園と同じ)が形成され、鎌倉時代には伊勢国内でも屈指の大規模御厨となっていました。
この智積御厨内には、湧水が豊富な森村、水不足の智積村、その中間地帯の桜一色村が含まれていたので、領主が領内一円の稲作の生産性向上を図る目的で、森村で過剰に湧き出る余水を排除し、その余水を水不足の智積村で使用するために桜一色村字久保を経由するという、当時としては大規模な灌漑用水路の敷設工事を計画したと考えられます。領主側は財力と土木工事技術者を投入し、農民側は労働力を提供して、やっと智積養水路の原型が開削されたのではないかと推測されます。
2. 上記1.に関連して・・・史料に見る「井料(いりょう)」について
室町時代1458年の『長禄二年智積御厨年貢帳』には、「井料三石九斗五升」と記されています。この「井料」は農民が灌漑施設を利用するとき用水権を持つ領主に納入した使用料を指します。この「井」=「智積養水」と断定はできないものの、智積養水の初期的な灌漑施設の存在を窺わせます。
3. 江戸時代、智積養水は複数の領主の支配下にあった
江戸時代になると、森村は菰野藩、桜一色村は藤堂藩の領下にあり、智積村は幕府領(天領)と桑名藩などの相領となりました。三藩と四領主という複雑な条件下で、三藩にまたがる用水路の開削は種々の軋轢と利害が絡んで殆ど不可能と考えられます。
一般に、安土桃山時代から江戸時代は文書による支配や契約等が確立した時代で、各藩も庄屋等も大量の記録文書を作成・保管するようになりました。
もしも当地方で、江戸時代の前述のような複雑な条件下で智積養水路が開削されたのであれば、各領主以下関係村の間で取り決めた契約証文が必要部数作成され捺印され、子々孫々に亘って厳重保管される筈ですが、智積養水の初期開削に関する古文書は全く残存しておりません。
 以上の3点の理由で、智積養水路の開削は、中世、おそらく鎌倉時代後期から室町時代中期まで遡り得るであろうと推定されています。

【智積養水路について
1. 智積養水の水源地は、隣町の菰野町神森字北森212番地にある「蟹池(かにいけ)です。そこから智積用水路の排水口まで全長1,784メートルで、幅は1〜2メートルあります。
「蟹池」から用水路を通って流れる水は、森村地内の2ヵ所の分水地点で水を分流していました。
2. 最初の分水地は、蟹池から516m下流の「二分八分(にぶはちぶ)と呼ばれる地点で、その名の如く二分八分の割で分流し、「二分」の水は森村字欠之下の灌漑水となり、「八分」は智積養水へ流されます。
3. 次に、「二分八分」から123m下流の第二の分水地点では、「三分七分(さんぶしちぶ)の割合で分流されていました。
ここで「三分」の水は、秋の彼岸から春の彼岸までの期間、森村の砂先や金田の田地と、金渓川北側にあった智積村の田地・字中須を灌漑し、さらに現・英水苑の辺りで伏樋(ふせとい)を用いて天王・金渓の両川底を通水して、智積の外川原と車井という田地をも灌漑していました。 一方「七分」の水は、智積養水路へ流していました。 
しかし現在では、この分水地点に「水門」が設置され、平時はこの水門は閉ざされたままで全水量が智積養水路へ流されています。但し、森村地内の智積養水の「川さらえ(川の清掃)」の際には、この水門が開かれ、養水路側を閉じて水路を清掃しています。また大雨や台風時にも、この水門を開けて水量の調節をしています。
4. 第二分流地点の「三分七分」から214.5m下流で用水は「三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)に到ります。 ここで森村側から天王川と金渓川の川底に埋められた樋管(といかん。導水管)を通過した用水は、現・桜地区桜町一色側(南岸)字久保の取水口に潜り抜けます。 その樋管の長さが33間あったので三十三間筒と呼んでいます。
5. 三十三間筒の取水口で取り出した用水は、南進して智積地内へ入り、現・近鉄桜駅東付近で二つの用水路に分流されます。 
一方の用水路は、そのまま南進して智積村内で多くの支流を出して、一部は田畑を灌漑し、一部は住宅地を巡って智積の人々の生活を支えた後、いずれの支流も最後には矢合川に排水されます。これは「武佐川(むさがわ)と呼ばれています。この武佐川の支流のうち、「桜駅」から「鯉が泳ぐ西勝寺前」を通過し矢合橋の横で矢合川に注ぐ水路は、「名水百選に選ばれた智積養水」と呼ばれています。
他方は、現・近鉄線路沿いを東南に流れて智積東方の広大な水田を灌漑し、その東限で三滝川に排水します。これは「寺井川(てらいがわ)です。

(3)文献からみた智積養水
1.
江戸時代1711年(正徳元年)、四日市陣屋代官石原清左衛門正利が官費で三十三間筒を伏替えました。
2. @ 1777年(安永6年)森村と智積村の水論訴訟起こる。
従来、智積村は森村の蟹池から用水を貰い受けて水田を灌漑していましたが、森村の「金田の井」(後の三分七分の地点)は不完全な分水の施設であったため、渇水時には智積村へ流れる水が極めて少なく、洪水時には怒濤の如き水の襲来で田畑は砂に埋まる被害を受けて大いに困っていたところ、1777年(安永6)に当地方を旱魃(かんばつ)が襲い、困り果てた智積村の農民が、「金田の井」に土俵を積み上げて自村へ多量の水を流す工夫をしました。
当然のことに、これを森村の農民が阻止したため、両村の全農民を巻き込んで激しい水論となり、決着までに延々10年間もかかりました。
その間、森村は智積養水への給水を差し止め、智積村は森村に対して、平時には「井代」(水のお礼)」として提供していた「秣場(まぐさば)」への立ち入りを禁止するなど互いに応酬しました。
A 1786年(天明6年)、安永6年に起った森村と智積村の水論訴訟は和解しました。(【資料−1と2】参照)
【資料−1】勢州三重郡森村の書状 【資料−2】勢州三重郡智積村絵図
下記の文書は、安永6年8月付で「(菰野藩)土方近江守領分 勢州三重郡森村」が、智積村の領主「長嶋藩増山河内守様、御役所様」宛に提出した(善処を求める)書状です。
  「乍恐書付以御訴訟申上候」
       
土方近江守領分 勢州三重郡 森村
 
          (菰野町郷土資料館蔵)

安永六年当時、智積村は長嶋藩と天領の相領でした。
安永六年から天明六年迄、水論の節の新用水路絵図」と裏面に注記あり。
作製年代不明。少なくとも天明六年以降の作と推定されている。
 【サイズ:縦92.8p、横129.0p】


        出典:『四日市市史第5巻』 
      (原本:四日市市智積町自治会蔵)
3. 1853年(嘉永6年)、智積村と森村は、智積養水争論和解、証文を取り交わしました。(『智積町有文書』)
智積村の用水は、森村の余水を石留めして取水し、菰野川(現・金渓川)底に樋を伏せ越して桜一色村字久保の取水口から智積村へ通水していました。天明年中(1781〜1789)にも森村と訴訟がありましたが、この度ふたたび論争となり、以前と若干規定を変えて和談しました。
この証文では、蟹池からの用水を森村地内で分流する地点規模・形態を詳細に規定し、水の分配方法としてこの文書で初めて「二分八分」「三分七分」の文言が現れています。

1853年(嘉永6年)に森村と智積村が取り決めた「井代」について
 (嘉永六年は、ペリー浦賀へ来航の年です)
 智積村が森村に納める智積養水の「井代」は次の通りです。
   *正月年頭挨拶して、酒二斗と扇子一包を納める。
   *五月節句入り後、森村地内の用水路の浚渫と藻草刈りの挨拶として、酒一斗。
   *土用入りの挨拶として、酒一斗。
   *その他、森村に対して智積村の秣場(まぐさば。智積地内矢合川の土手)の草刈の許可。
以上の「井代」について、佐々木一元菰野町郷土資料館長のお話では、智積村が森村へ「井代」を払う年頭挨拶時には、天領地と有馬領の両領の庄屋・年寄・百姓代が各々相揃って紋付き袴で威儀を正し、井代の品を担いだ者を連れて、森村庄屋宅へ挨拶参上したそうです。
4. 1854年(嘉永7年)、前年の追加証文取り交わす。(『智積町有文書』)
前年和談した智積用水路のうち、森村地内の悪水落ちの石堰は、大雨の際に排水が悪くなるので床上げをすること、また森村地内への水引き取り場所を、石堰の下流から上流へと変更することを取り決めています。
5. 1856年(安政3年)、平尾村井組の寺方村と高角村、これに対する智積村の水論は、示談となり証文を取り交わす。(『智積町有文書』)
安政3年の干ばつの際、平尾村井組の寺方村と高角村は三滝川へ横堀をして取水しました。これは森村から水を引いている智積村にとっては迷惑であるとして争論となったが、智積村が渇水時に限って取水を認めました。
6. @ 1927年(昭和2年)9月、桜村大字智積は菰野町大字神森を智積用水論提訴。(『昭和水利事件ノ顛末』)
A 1931年(昭和6年)、訴訟は和解しました。 
 1927年6月の旱魃(かんばつ)に端を発した水論が起こり、桜村大字智積は菰野町大字神森を相手取って、同年9月安濃津地方裁判所に智積用水権確認請求の訴訟を提起し、1931年3月に和解成立しました。
  この時の規約は、あらゆる点で1853年(嘉永6年)の証文に準拠しました。
7. 1966年(昭和41年)、昭和37年に着工した「智積用水路改修工事」竣工。(森地内の分水地点より金渓川を伏越して智積に到る394メートルの水路改修工事) 三重郡菰野町神森と四日市市智積町は『智積用水取替規定書』を取り交わし、智積町が用水を管理する区域や、管理方法などを詳しく決めました。
こうして智積養水をめぐって、旱魃(かんばつ)の度に水争いが起こりましたが、そこは隣村同士のことでもあり、しかも森村と智積村は中世以来共に智積御厨に属した関係で、地縁・血縁関係が濃く誼(よしみ)も浅からず、水争いの都度和解しては、水量の配分や川浚い(かわさらい)の方法等を細かく話し合い、時宜に相応した取り決めが結ばれてきました。

(4)智積養水から受けた恵みの数々
  • 農業用灌漑用水としての恩恵は、言うまでもなく多大です。
  • その他には、戦後、上水道が各家庭に普及する頃迄、人々は毎日、家の近くの智積養水で顔を洗い、米をとぎ、麺をさらし、野菜を洗い、洗濯もするなど、最も身近な生活用水として利用していました。
    また、赤ちゃんのオムツは、智積養水の下流の矢合川に近い「八ノ坪」と呼ばれる場所まで、わざわざ持って行って洗うという暗黙の了解があるなど、皆が互いに気配りしながら、気持ちよく綺麗な水の恩恵に浴していました。


    (階段をつけ、流れの中に踏み石を置いた洗い場)
    智積養水のあちこちに、このような洗い場が残っています。
    現在でも、ごぼうや大根など土つき野菜を洗う時などに大変重宝されています。

  • 昭和30年代まで、智積用水には米や麦をつく水車が7,8基回転しており、人々の労力と電力を省いて大いに助かっていました。(当時は10軒前後の農家が一つの水車を持っていて、順番で精米していました)
  • 防火用水としても大きな役目を果たしていました。
(5)近代化の波
 以上みてきたように、智積町の住民と智積養水は永年深い絆で結ばれ、戦後も昔通り年間4回の水路の清掃は自治会が実施してきました。
 しかし、戦後の経済成長に伴い、各家庭に上水道が普及して、次第に智積養水は「生活用水」としての実用性が薄れていきました。
 更には、町の人口も徐々に増加し、人々の生活様式も変化して、家庭用洗剤などが智積養水に流れ込み、また通行人によるゴミや空き缶のポイ捨ても増えるなど、いつしか町内を流れる智積養水に汚れが目立つようになりました。

(6)水質保全活動の開始
 智積養水の汚れに憂慮した智積町自治会は、もとのきれいな智積養水を取り戻そうと、水質保全活動に立ち上がりました。
昭和47年、智積町自治会が、目にあまる水質汚染源である生活家庭汚水を流さないよう、地域住民に呼びかけました。
同時に、郷土の先人が辛酸をなめた「水争い」を思い起こし、「水の大切さ」を次世代を担う子供たちへ継承していきたいと、自治会、子供会、その他有志によって、西勝寺前付近に「鯉の放流」を実施しました。(この「鯉の放流」行事は、その後も毎年20数年間続けられ、地域住民が一体となって環境問題への意識高揚を図るための効果的なメイン・イベントとなっていました)
  
(町並みを流れる智積養水 と 鯉に憩う親子)
上記2点に並行して、智積町自治会は、昔から実施してきた「藻たぐり」や「川ざらい」の水路清掃を強化するため、清掃回数を増やすなどして自治会員こぞって協力し合いました。
 「藻たぐり」について
江戸時代から、森村と智積村の両村間の取り決めにより、智積養水路の清掃作業方法は細かく定められていました。
そのうちの一つに、「決められた場所では、川(=用水路)に入らずに、長い柄のついた鎌で水藻を切って、たぐり上げて、川淵(土手)へ置く」といった作業方法があります。その作業から「藻たぐり」の語が生まれ、永年言い継がれてきました。
    
藻や水草が生い茂る智積養水路の掃除「川浚い(かわざらい)」の風景。
この「川ざらい」のことを、当地では「大井堀り」(おおゆほり)と呼んでいます。
(撮影場所:菰野町神森地区。二分八分地点のやや下流)
(なお、この二枚の貴重な御写真は、2001年に智積町の方から頂戴しました)
(7)活動の成果
 こうした智積町自治会の熱い思いとたゆまぬ努力の結果、昔のように「智積養水」に清流が戻り、やがて「名水百選」に認定され、またたく間に全国的に知られるようになりました。
  •  昭和60年7月22日、「智積養水」は、環境庁の「全国名水百選」に認定されました。
     同年、
    智積町子供会は「全国子供大会」で表彰されました。
  •  平成2年7月10日、建設省の「手づくり郷土(ふるさと)賞」“生活を支える自然の水30選”を受賞しました。
  •  平成10年2月10日、「智積養水と酒蔵のある町並み」として,四日市市から「都市景観賞」を受賞しました。

(8)現在の活動
 うるおいのある町並みづくりの更なる進展のため、地域住民力を合わせて、水質保全にたいへん気を配っています。
 以下は、平成14年度までの智積養水清掃状況です。
1. 智積町の4つの自治会が水質保全活動にあたっています。 一年交替で、当番の自治会が毎年4月と7月の清掃に当っています。 当番の年には、自治会員約100人前後が、川へ入って鎌や鍬で川ざらい(「大井堀り(おおゆほり)」)をします。(上記写真参照)
2. それに加えて、毎月1回、組単位で、川に入らず長い柄のついた鎌で川岸から「藻たぐり」だけをします。
3. 毎年1回3月に、蟹池から二分八分までの水路を「川ざらい」します。
二分八分より上流水路の清掃は永年許されていませんでしたが、昭和41年の神森と智積の取り決め以来、智積町の清掃分担区域になりました。
  合わせて、水路清掃合計・・・・・・・年13回です。

平成15年度以降の水路清掃状況
 諸般の事情により、平成15年度から年間清掃回数を減らしました。
 すなわち、1年に3回4月、7月、9月に、智積町自治会が交替で「川ざらい」(大井堀り)をして、上記2.の毎月の「藻たぐり」を廃止しました。上記3.はそのまま継続しています。
  つまり、水路清掃合計・・・・・・・年4回になりました。
  • ともあれ、水質保全活動は、今日に至っても一切の行政補助を受けず、智積町自治会の水質保全に向ける合意と固い結束に結ばれて、活気溢れる手作業が続けられています。
  • 周辺地域住民の見学はもとより、県外からも地域団体等に見学して頂き、それをきっかけに『地域づくり』の輪と交流を広げ、他団体と同じ取り組みに協調し、更なる進展を目指しています。

    2001年11月16日 岐阜県各務原市鵜沼地区自治会の皆様が見学に来られました。

(9)智積養水の将来
 智積養水は、住民の合意と固い結束力を基に、皆の共有財産として、幾世代にもわたって守り続けられてきました。
戦後経済成長期の環境汚染という試練も見事に乗り越え、今日、環境の世紀と叫ばれる21世紀に、まさにふさわしい智積養水を引き継ぐことができました。

 20数年間にも及ぶ鯉の放流行事を、目の当たりにして育った世代も成長し、住民の意識は、ゆとりやうるおいのある暮らしを求める方向が強くなり、より質の高い土地利用や施設整備の必要を感じています。

 そういった中、自然との共生、アメニティ(ゆとりや快適さ)の創出を希求して、平成11年には、地域住民の自由発想に基づき、山里に自然環境を生かした「初瀬ビオトープの谷・メダカの学校」を創造する大きな展開となりました。

 今後も、水質保全活動を続けながら、智積養水を大切に守り、ここを訪れる人々に、そして地域住民にも、ひとときのやすらぎと癒しを与え、同時に環境保全の大切さを発信し続けていきたいと願っています。

参考史料: 『四日市市史第五巻、第六巻、第八巻』、『明治17年調伊勢国三重郡智積村地誌』、『名水百選智積養水』(山田教雄著)、『菰野町史上巻』

智積養水の流れ写真をクリックして詳細解説をどうぞ。

(1)蟹池

(2)二分八分

(3)三十三間筒

(4)町並みを流れる
(智積養水の歴史)

(5)排水口