2002年10月24日:一部更新
                                            2004年5月24日一部更新
(1)水の苦労
 智積町は、4本の川に挟まれた地域でありながら、昔から、「旱損所(かんそんしょ)」といわれ、水不足に悩む土地柄でした。 その理由は、
  1. 智積町の南側を流れる「矢合川」は、川底が大変深く、水量も少ないため、智積地域では農業用水として利用することができませんでした。(但し、矢合川上流の地域では、井堰を作り灌漑用水としていました)
  2. 智積町の北側を流れる「三滝川」と「金渓川(かんだにがわ)」は、昔から「水無し川」と呼ばれ、雨が降っても直ぐに伏流水となって地中に潜ってしまいました。また、金渓川に沿うようにして流れる「天王川」はほんの小さな川で、いずれも灌漑用水として望むべくもありませんでした。
 このため智積養水が敷設される以前までは、智積の人々は慢性的な水不足で苦労が絶えず、日照りが続くと水田はたちまち干上がり、逆に、梅雨や台風シーズンに豪雨が降ると、「三滝川」や「金渓川」の上流から怒濤の如き水の襲来を受けて水田に土砂がたまり、農作物は壊滅するという憂き目にあっていました。

 水無くして農業は成り立たず、殊に旱魃(かんばつ)の年ともなると、水不足は農民の死活問題となりました。
 昔から、日本中の水不足に悩む農村では、村人全員を巻き込んで繰り返し「村vs村の水争い」が起こりましたが、智積村も決してその例外ではありませんでした。


「新吉沢橋」から三滝川下流東方を望む。
現在でも、三滝川の「水無し川」状態を、容易に観察できる場所があります。

場所:
菰野地区内。ミルクロードに架かる三滝川の「新吉沢橋」から見る三滝川は、平素は、上流側も下流側も眺望できる限り「水無し川」状態で、川水は地中に潜っていて、川底が白々と露呈しています。
 この「新吉沢橋」から約1km下流の「黒田橋」(四日市市黒田町)から見る三滝川は、水量がとても豊かで、自然の妙に驚きを禁じえません。

撮影年月日:
2004年5月24日。前日は曇り時々雨。


(2)智積養水の起源と水路
起源
 文献には、江戸時代の1711年(正徳元年)に、智積養水の「三十三間筒を伏せ替えた」と初めて現れます。
 しかしながら、その起源は定かではなく、文献からは「江戸時代初期」と考えるのが妥当のようですが、歴史的考察による「中世説」もあります。

水路
  1. 智積養水の水源地は、菰野町神森にある「蟹池」です。
     蟹池から智積町までの水路は、全長1,784m、幅1〜2mです

  2. 「蟹池」からの水路には、江戸時代には森村地内で2ヵ所の分水地点で水を分流していました。
     蟹池から516m下流の最初の分水地点では、「二分八分」の割で分流し、「二分」は悪水(用水に対する語)として森村東方面へ放流され、「八分」は智積村水路へ流されていました。

  3. 次に、「二分八分」から123m下流の第二の分水地点では、「三分七分」の割で分流されていました。「三分」の水は、秋の彼岸から春の彼岸までの期間、悪水として排水されました。が、これは単なる悪水ではなく、森村の砂先や金田という田地と、金渓川北側にあった智積村の田地・字中須を潤すばかりでなく、同所から伏樋を用いて天王、金渓の両川の底を潜って、智積村の外川原と車井という田地をも潤していました。 「七分」の水は、智積村水路へ流すことになっていました。 
     現在では、この分水地点に「水門」が設置されています。平時は、この水門は閉ざされたままで全水量が智積町へ流されていますが、智積養水の「川さらえ」の時には、この水門が開かれ、智積養水路側を閉じて、水路全体の清掃をしています。 また大雨や台風時にも、この水門を開けて水量の調節をしています。

  4. さて、第二分流地点から214.5m下流で水は三十三間筒に到達します。 ここで水は、森村と桜一色村の境界を流れる金渓川と天王川の川底に埋められた樋管(といかん。導水管)を通過します。 つまり現・菰野町神森区側(北岸)の吸込口から現・桜地区桜町一色側(南岸)の取水口へと水は潜り抜けます。 その樋管を三十三間筒と呼んでいます。

  5. そして、三十三間筒の取水口から流れ出た水は、南進して智積村地内へ入り、現・近鉄桜駅東付近で分流されます。一方の水は、そのまま南進して智積村の住宅内に多くの支流を出し智積の人々の生活を支え、あるいは水田を灌漑してその本来の務めを果たした後、矢合川に排水されます。この水路が今の「名水百選・鯉が泳ぐ智積養水」です。
     他方は、現・近鉄線路沿いを東南に流れて智積村東方の水田を潤し、その東限で三滝川に排水します。これは寺井用水と呼ばれています。


智積養水が完成して以来、智積村の人々は水の苦労から解放されました。
 しかし、一旦旱ばつがこの地を襲うと、またもや水不足となってしまいました。
 今度は、養水路の森村地内の分流地点で水量の分配をめぐって、智積村と森村の農民は「水争い」となったのでした。


(3)文献からみた智積養水
  • 江戸時代1711年(正徳元年)、四日市陣屋代官石原清左衛門正利が、官費で三十三間筒を伏替えました。
  • 1777年(安永6年)、森村と智積村の水論訴訟起こる。
    1786年(天明6年)、森村と智積村の水論和解する。
    (この訴訟は、延々10年間も続きました。 その間、森村は智積養水への水を差し止め、智積村は森村に対し、平時は「水のお礼」として提供していた「秣場(まぐさば)」への立ち入りを禁止するなど互いに応酬しました)
勢州三重郡智積村絵図
 「安永六年から天明六年迄、水論の節の新用水路絵図」と裏面に注記あり。作製年代不明。少なくとも天明六年以降と推定されている。

     出典:『四日市市史第5巻』 (原本:智積町自治会蔵)
勢州三重郡森村の古文書
安永六年、森村と智積との間で用水争論が生じ、森村から智積村の領主・長島藩増山河内守様の役所へ善処を要望した願書。
  
      (菰野町郷土資料館蔵)

  • 1853年(嘉永6年)、智積村と森村は、智積養水争論和談につき証文を取り交わす。(智積町有文書)
    この証文で、蟹池から流れ来た水を森村地内で分流する地点規模・形態が詳細に規定され、そして水の分配方法すなわち「二分八分」や「三分七分」の文言も用いられてそれぞれ細かく取り決めています。
  • 1854年(嘉永7年)、前年の追加証文取り交わす。(智積町有文書)
  • 1856年(安政3年)、平尾村井組の寺方村と高角村、これに対する智積村の水論は、示談となり証文を取り交わす。(智積町有文書)
  • 1927年(昭和2年)、智積村は、神森村を智積水論提訴する。
  • 1931年(昭和6年)、訴訟解決する。 
    この時の規約は、あらゆる点で1853年(嘉永6年)の証文に準拠しました。
  • 1966年(昭和41年)、昭和37年から行われた水路改修工事が完成。 
    菰野町神森と智積町は、智積養水の規約を取り交わす。

智積養水をめぐって、干ばつの度に水争いが起こりましたが、そこは隣村同士のこと、誼(よしみ)も浅からず、その都度和解しては、水量の配分や川さらえの方法を細かく定め、時宜に適った取り決めが結ばれてきました。


(4)智積養水から受けた恵みの数々

  • 農業用灌漑用水としての恩恵は、言うまでもなく多大です。
  • 戦後、上水道が各家庭に普及する頃迄、人々は毎日、家の近くの智積養水で顔を洗い、米をとぎ、麺をさらし、野菜を洗い、洗濯もするなど、最も身近な生活用水でした。 
     また、赤ちゃんのオムツは、智積養水の下流で矢合川に近い「八ノ坪」と呼ばれる場所まで、わざわざ行って洗うという暗黙の了解があるなど、皆が互いに気配りしながら、気持ちよく綺麗な水の恩恵に浴していました。

(階段をつけ、流れの中に踏み石を置いた洗い場)
智積養水のあちこちに、このような洗い場が残っています。
現在でも、ごぼうや大根など土つき野菜を洗う時などに大変重宝されています。

  • 昭和30年代まで、智積用水には米や麦をつく水車が7,8基回転しており、人々の労力と電力を省いて大いに助かっていました。(当時は10軒前後の農家が一つの水車を持っていて、順番で精米していました)
  • 防火用水としても大きな役目を果たしていました。

(5)近代化の波
 以上みてきたように、智積町の住民と智積養水は、永年深い絆で結ばれ、戦後も昔通り、自治会によって年間4回、水路の清掃を実施していました。

 しかし、戦後の経済成長に伴い、各家庭に上水道が普及して、次第に智積養水は「生活用水」としての実用性が薄れていきました。
 更には、町の人口も徐々に増加し、人々の生活様式も変化して、家庭用洗剤などが智積養水に流れ込み、また通行人によるゴミや空き缶のポイ捨ても増えるなど、いつしか町内を流れる智積養水に汚れが目立つようになりました。


(6)水質保全活動の開始
 智積養水の汚れに憂慮した智積町自治会は、もとのきれいな智積養水を取り戻そうと、水質保全活動に立ち上がりました。

  • 昭和47年、智積町自治会が、目にあまる水質汚染源である生活家庭汚水を流さないよう、地域住民に呼びかけました。
  • 同時に、郷土の先人が辛酸をなめた「水争い」を思い起こし、「水の大切さ」を次世代を担う子供たちへ継承していきたいと、自治会、子供会、その他有志によって、西勝寺前付近に「鯉の放流」を実施しました。(この「鯉の放流」行事は、その後も毎年20数年間続けられ、地域住民が一体となって環境問題への意識高揚を図るための効果的なメイン・イベントとなっていました)
  
(町並みを流れる智積養水***鯉に憩う親子)
  • 上記2点に並行して、智積町自治会は、昔から実施してきた「藻たぐり」や「川ざらい」の水路清掃を強化するため、清掃回数を増やすなどして自治会員こぞって協力し合いました。


「藻たぐり」について
 藻を切って川ざらいをすること。
 「藻たぐり」は、江戸時代から続けられている作業で、森村と智積村両村の間の取り決めにより、水路清掃方法が細かく定められていました。
 そのうちの一つに、「決められた場所では、川に入らずに、長い柄のついた鎌で水藻を切ってたぐり上げて川淵へ置く」といった作業方法があります。
その作業から「藻たぐり」の語が生まれ、永年使われきました。
  
藻や水草が生い茂る智積養水路の掃除風景 川ざらい(「大井堀り」おおゆほり
(撮影場所:菰野町神森地区。二分八分地点のやや下流)


(7)活動の成果
 こうした智積町自治会の熱い思いとたゆまぬ努力の結果、昔のように「智積養水」に清流が戻り、やがて「名水百選」に認定され、またたく間に全国的に知られるようになりました。
  • 昭和60年7月22日、「智積養水」は、環境庁の「全国名水百選」に認定されました。
    同年、
    智積町子供会は「全国子供大会」で表彰されました。
  • 平成2年7月10日、建設省の「手づくり郷土(ふるさと)賞」“生活を支える自然の水30選”を受賞しました。
  • 平成10年2月10日、「智積養水と酒蔵のある町並み」として,四日市市から「都市景観賞」を受賞しました。

(8)現在の活動
 うるおいのある町並みづくりの更なる進展のため、地域住民力を合わせて、水質保全にたいへん気を配っています。
 以下は、平成14年度までの智積養水清掃状況です。  
  1. 智積町の4つの自治会が水質保全活動にあたっています。 一年交替で、当番の自治会が毎年4月と7月の清掃に当っています。 当番の年には、自治会員約100人前後が、川へ入って鎌や鍬で川ざらい(地元では「大井堀り(おおゆほり)」と呼称)をします。(上記写真参照)
  2. それに加えて、毎月1回、組単位で、川に入らず長い柄のついた鎌で川岸から「藻たぐり」だけをします。
  3. 毎年1回3月に、蟹池から二分八分までの水路を「川ざらい」します。
    二分八分より上流水路の清掃は永年許されていませんでしたが、昭和41年の神森と智積の取り決め以来、智積町の清掃分担区域になりました。
  合わせて、水路清掃合計・・・・・・・年13回。

平成15年度以降の水路清掃状況
 諸般の事情により、平成15年度から年間清掃回数を減らしました。
 すなわち、1年に3回4月、7月、9月に、智積町自治会が交替で「川ざらい」(大井堀り)をして、上記2.の毎月の「藻たぐり」を廃止しました。上記3.はそのまま継続しています。
  つまり、水路清掃合計・・・・・・・年4回になりました。

  • ともあれ、水質保全活動は、今日に至っても一切の行政補助を受けず、智積町自治会の水質保全に向ける合意と固い結束に結ばれて、活気溢れる手作業が続けられています。
  • 周辺地域住民の見学はもとより、県外からも地域団体等に見学して頂き、それをきっかけに『地域づくり』の輪と交流を広げ、他団体と同じ取り組みに協調し、更なる進展を目指しています。

    2001年11月16日 岐阜県各務原市鵜沼地区自治会の皆様が見学に来られました。


(9)智積養水の将来
 智積養水は、住民の合意と固い結束力を基に、皆の共有財産として、幾世代にもわたって守り続けられてきました。
戦後経済成長期の環境汚染という試練も見事に乗り越え、今日、環境の世紀と叫ばれる21世紀に、まさにふさわしい智積養水を引き継ぐことができました。

 20数年間にも及ぶ鯉の放流行事を、目の当たりにして育った世代も成長し、住民の意識は、ゆとりやうるおいのある暮らしを求める方向が強くなり、より質の高い土地利用や施設整備の必要を感じています。

 そういった中、自然との共生、アメニティ(ゆとりや快適さ)の創出を希求して、平成11年には、地域住民の自由発想に基づき、山里に自然環境を生かした「初瀬ビオトープの谷・メダカの学校」を創造する大きな展開となりました。

 今後も、水質保全活動を続けながら、智積養水を大切に守り、ここを訪れる人々に、そして地域住民にも、ひとときのやすらぎと癒しを与え、同時に環境保全の大切さを発信し続けていきたいと願っています。

参考資料: 『四日市市史第五巻、第八巻』、『明治17年調伊勢国三重郡智積村地誌』、『名水百選智積養水』(山田教雄著)、菰野町史 

智積養水の流れ写真をクリックして詳細解説をどうぞ。

(1)蟹池

(2)二分八分

(3)三十三間筒

(4)町並みを流れる
(智積養水の歴史)

(5)排水口