(三重県三重郡桜村と智積村に其々存在したと伝承される「元標」についての一考察)
2006年9月13日更新
2006年6月18日掲載
桜村の元標(げんぴょう)の記念碑
 右の写真は、明治時代から昭和20年代まで存在したという「櫻村の元標」を模して、昭和63年(1988)桜町一色の故大矢実氏が建立されました。

[所在地]
 ●旧湯の山街道沿い、桜町一色の地蔵堂の階段下
 (四日市市桜町519付近)
[刻字]
 ●碑表:元標 元在武佐学校
 ●右側:四日市元標 二里二十町五間二尺九寸
 ●碑裏:再建 昭和六十三年四月 大矢 実
 ●左側:距津駅元標 十一里十二町十間五尺九寸
[石柱の寸法]
 ●高さ:157cm ●幅:18cm ●奥行き:14cm

「桜村の元標の記念碑(2005年4月撮影)


目    次
 はじめに
 1、櫻村と智積村の元標(里程標)の設置場所
 2.櫻村・智積村の地図作成に伴う「測点」
 3.近代道路整備・・・「里程元標」と「里程標」
 4.三重郡内の「里程標」
 5.まとめ


はじめに

 「桜地区内に在った二基の元標は、戦後の混乱期に姿を消した」と、私たちの先輩郷土史会員の話です。
 桜町一色の故大矢実氏(元会員)は、郷土の歴史的遺物の風化を惜しんで、明治時代の小学校「武佐(むさ)学校」の前に在った「桜村の元標」の再建を決意しました。 御自身は元標の記憶が曖昧だったので、近所の古老の話を聞いたり、当会の先輩会員に相談したり、『櫻村地誌』を調べたりと一生懸命でした。
 出来上がった「石柱」の設置場所については、元標が建っていた元の場所には設置できなかったので、地元の人々と相談した上で、邪魔にならなくて人目に付くこの場所へ、昭和63年(1988)10月に建立してやっと念願を果たしたそうです。(この時、元標の形状等に違った意見を持ち、再建に反対する人々もいたそうです)

 それから16年後、後輩である私たち郷土史会員は、改めて“元標”について様々な文献を調べて討議を重ね、その結果下記のように結論を出しました。
  • 刻字内容や形状から、この元標の記念碑は道路の里程距離を示す「里程標(りていひょう)である。
  • 刻字内容が「里程標」であるのに、「元標」と刻字されている理由は、当地では里程標を元標と呼んでいたからであろうと推定しました。

 本稿では、当地の『明治十七年調伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』などの史料と、明治時代の「地誌編輯に関する法令」や「道路元標や里程標に関する法令」等を慎重に調査研究して、当地の元標は実際にはどの様なものであったかを考察します。


1.櫻村と智積村の元標(基点)の設置場所

(1)当地域の変遷
  1. 江戸時代から明治8(1875)年7月まで、現在の桜地区は佐倉村櫻一色村智積村の「3村」に分かれていた。
  2. 明治8年8月、佐倉村と櫻一色村が合併して櫻村となり、智積村と合わせて「2村」となる。
  3. 明治22(1889)年、櫻村と智積村が合併して、「櫻村」となり、各々櫻村大字桜、櫻村大字智積となる。
  4. 昭和29(1954)年7月、四日市市に合併。三重郡櫻村から、四日市市桜町と同智積町の「2町」となる。

(2)地誌編纂の経緯と結果
  1. 明治新政府は、明治元年(1869)以降、矢継ぎ早に、「御国絵図新規御改正」や、「皇国地誌編纂」布告して、国内の「新田、枝郷村名、川欠亡所等地形の模様」や、地域の米穀・雑穀収穫量、特産物など詳しく報告するよう通達した。
  2. 当地には、布告された法令に沿って編纂された明治17(1884)年作の「写」が6個残っています。
    (『明治十七年調 伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』、『明治十七年調 伊勢国三重郡智積村地誌』、『伊勢国三重郡智積村・桜村地誌附属之圖(明治18年7月製作)』、『伊勢国三重郡智積村地誌附属之圖 日本里法六千分之一』、『三重郡櫻村地誌附属六千分壹之圖』、『聰圖 明治八年八月、第一第区六之小区伊勢国三重郡櫻村』)
  3. 両村の地誌と地図には、各村の「元標」の所在地が明確に記載されています。
    1. 櫻村地誌と智積村地誌の「里程」の項目に、三重県庁や、安濃津裁判所、四日市治安裁判所、三重郡朝明郡役所等々主要箇所への里程距離が記載され、最後に「但し、本村の元標は○○にあり」と記しています。
    2. また同項目に、櫻村地誌では「本郡智積村元標に方位辰の方 四日市往還を経て 五町二十一間二尺二寸」と記し、一方、智積村地誌にも「本郡櫻村元票へ戌の方・・・」と記しています。
    3. 三種類の地誌附属地図の凡例に「● 元標」と記し、地図上に「●」で元標の位置が明示されています。

  4. 更に、櫻村には80の字地(あざち)、智積村には66の字地があります。両地誌は、例えば「元標より丑の方・・・」のように、全ての字地の所在地を「元標」からの「方位」で位置を解説していいます。

(3)櫻村の元標 
  • 設置場所・・・「武佐学校(註2の前にあり」と地誌に記載されています。
    武佐(むさ)学校の位置 元標の西傍、字中縄手(あざなかなわて)にあり。
    (現・坂井歯科医院 桜町547)
    元標の位置 武佐学校の前で、四日市街道が山上井(やまじょうい用水路)に架かる元標橋の真北元標がありました。
    元標橋の位置・材質・寸法 位置・ 字地・武佐(むさ)の山上井に架して、四日市街道に有り。
    材質・石製。
    長さ・四尺八寸(約145cm)、 幅:一間一尺二寸(約218cm)
    元標の材質及び建立年 不詳(地誌に記載なし)

  • 櫻村元標の位置図(下記の「元標の位置図」も合わせてご参考にしてください)
    「櫻村元標の位置圖」
        元地図の凡例に「●」は元標と記されています。
    『三重郡櫻村地誌附属六千分壹之圖』の一部に加工作成。当地図の作成年は無記載。
    『同郡智積村地誌附属之圖』は明治十八年十月とあり同時期と考えられる。

  • 明治時代の櫻地区と智積地図から、各々の元標の位置を確認
    元標の位置図三重県四日市市桜地区(旧伊勢国三重郡櫻村・智積村)の元標位置図
     (櫻村と智積村の境界線を「黄色」に、元標は目立つよう「」に加工)
    『伊勢国三重郡櫻村・智積村地誌附属之6千分壱之図 明治十八年七月製作』の一部を加工作成。責任・永瀧)

(2)智積村の元標
  • 設置場所・・・「元標は椿岸(つばきぎし)神社境内西南の角にあり」と地誌に記載されています。
    椿岸神社の位置 (あざ)御所垣内(ごしょかいと) (四日市市智積町684)
    元標の位置 東海道の四日市で分岐した菰野街道(当地での呼称・四日市往還or四日市街道)が、智積村の生水橋(しょうずばし)を渡って進み、椿岸神社の角で、櫻村方面への曲がり角です。
    元標橋の位置・材質・長さ 位置・字宮後(あざみやじり) にありて、「武佐井(むさい)」に架す。
    材質・石製。
    長さ:一間一尺二寸(約218cm)、幅:一間一尺二寸(約218cm)
    元標の材質及び設置年 不詳(地誌に記載なし)

  • 智積村元標の位置図
    「智積村元標の位置圖」
    当地図に、「●」と「元標」の記載あり。
    『伊勢国三重郡智積村地誌附属之圖』(明治十八年十月作成)
    当地図には、四日市往還、菰野往還と記載されている。

  • 菰野街道と武佐(むさ)学校について
    【註1】菰野街道 
    菰野街道はかつて東海道四日市宿と菰野城下を結ぶ主要道でした。
    江戸時代、一万二千石の土方(ひじかた)菰野藩主の参勤交代には、桜村と智積村を通って生水橋(しょうずばし。現・矢合橋(やごうばし)を渡り、四日市へ出て東海道を江戸へ向かいました。
    当地では、桜村の元標より北を「菰野街道」、南を「四日市街道、または四日市往還」と呼称していました。
    明治以降、菰野街道は「府県道」に列せられています。
    しかし、明治41年三重県一志郡久居村に歩兵51連隊が置かれ、43年千草村(現・菰野町千草)に陸軍演習場が設置されると、以後、軍隊の徒歩行軍には東海道の亀山から分岐する巡見街道(現・306号)が使用されたので、明治末期以降の軍事体制下では菰野街道の利用価値が下がりました。
    現在、菰野街道は「三重県の歴史街道」の一つ「菰野道」として列挙されています。(当会会員の鈴木健一氏の『旧菰野道を歩く』もご参照下さい)

    【註2】武佐
    (むさ)学校
    1884年(明治14)10月、櫻村・智積村・神森村の連合で字中縄手(現・坂井歯科医院、桜町547)に新築設置された。東西22間、南北11間、面積300坪校舎東西9間・南北6間の二階建校舎。
    教員・1名、助手・8名、生徒・男140人、女72人。
    明治20年、桜尋常小学校と改称。
    明治34年、現・桜小学校の地(桜町1257)へ新築移転。
    ●武佐学校と呼称された期間は6年間
    開校から20年で小学校としての役割を終える。



2.櫻村・智積村の地図作成に伴う「測点」
 
 明治新政府は、明治元年(1868年)12月、地図と地誌の作成を府県に命じ、測量方法を細かく指示し、「測点」の設置を指導しました。

明治元年12月24日(1868) 第千百四十号「御国絵図改正ニ付府県ヲシテ地図を進致セシム」
 行政官より諸候へ  (「府県管轄図作製」の通達)
明治3年6月
 (1870)
民部省第四百三十号「御国絵図新規御改正」布告
 (新田、枝郷村名、川欠亡所等地形の模様を詳細に取り調べること)
民部省第四百三十一号「御国絵図一般御改正」布告
 (飛地も含め早々に取調べにかかること)
明治5年9月24日
 (1872)
太政官第二百八十八号「今般正院ニ於テ皇国地誌編輯(こうこくちしへんしゅう)相成候ニ付」布告
 (廃藩置県後の最高官庁・太政官が皇国地誌編纂を統率する)
明治7年4月
 (1874)
内務省達乙三十二号「各地方ヘ測量標柱建設方」布告
 (測点に不朽の石製標柱を建設するよう指図し、別紙で絵図面を掲載)
【図-1】
     
明治7年4月25日
 (1874)
太政官第五十六号「皇国地誌編輯費用使府県年額を定ム」布告
 (府県管内年額七百円と定めた)
明治8年6月5日
 (1875)
太政官達第九十七号「皇国地誌編輯例則並ニ着手法別冊」布告
 (地誌着手方法として編集専任の地方官を任命し、記載方法の詳細な例則を示して、村誌・郡誌の提出を府県に命じた)
明治8年11月
 (1875)
太政官達第百九十六号「地誌編輯例則追補」布告
 (先の太政官達第九十七号の追補)
明治17年
 (1884)
櫻村と智積村で地誌編集完成
『明治十七年調 伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』
『明治十七年調 伊勢国三重郡智積村地誌』
明治18年10月
 (1885)

地図完成
桜村と智積村で測量地図完成 (下記地図3点の編輯者:三重郡宿野村・小林兎酉次郎氏)
『伊勢国三重郡櫻村地誌付属六千分壱之圖』
『伊勢国三重郡智積村地誌附属之圖 日本里法六千分之一』

『伊勢国三重郡智積村・桜村地誌附属之圖(明治18年7月製作)』
各地図の「測点」に番号が付けられ、櫻村地図には0−15、智積村地図には0−17 の数字が記載されています。 但し、各々の測点に上記【図-1】の「石製標柱等一式」が設置されたか否かは不明です。
明治25年
 (1892)
三重県全図の完成
 陸地測量部による二万分の一地形図は、明治19年に始まり25年完成。同26年『三重県全図』発行。
 詳細な里程表を記載。(当時の地図の役割は“距離重視”であった)
 三重郡桜村の里程(距離)の記載有り。
明治29年
 (1896)
陸地測量部の二十万分の一地勢図のうちの三重県域完成。
(明治26年と同様に里程表重視の傾向あり)
 三重県の元標の位置・・・・「津市岩田橋北詰」(現存しない)
 「県支弁道路里程」の項に「菰野街道」の記載有り。


3.近代道路整備・・・「里程元標」と「里程標」

 明治維新政府は、前項でみたように、各県庁経由で郡内各村の地誌と、正確な測量に基づいた地図を作成させました。
 また、ほぼ同時期に、道路整備、官営鉄道敷設、通信・郵便制、税制改革(地租改正)等の事業政策を実施する一方で、軍事体制を強化していきます。各々の政府事業は、互いに幾重にもリンクし合っており、その根底には日本地図と里程距離が必要不可欠であったことが窺われます。

(1)国の動脈たる道路整備
 明治〜大正〜昭和時代にかけて、日本の近代化に伴い道路も見直し整備され、実情に合わなくなった道路の距離を示す里程標から、道路の基点を示す標石に代わり、やがて近代的な道路システムへと変遷します。

 ここでは、明治時代の「元標および里程標」→大正時代の「道路元標」→昭和時代の「新道路法」の流れから、当地の「元標(?)と 里程標」について考えます。
明治2年
(1869)
行政官29号「箱根始諸道關門廢止」諸道の関所廃止
(自由往来・自由商業を活発化)
明治6年12月
(1873)

「太政官第四百十三号」布告
諸街道里程を改め、「元標及び里程標柱書式」を定めた。
 [要約]
  1. 里程取調べ方法
    一里=36町、一町=60間、一間=曲尺6尺と定め、測器は分間用麻縄又は鎖を使用すべきこと、その他路幅の中央を測定すること等々。
  2. 標柱の材質と寸法
    (ひのき)か、椴(とどまつ)を用いること。
    各県本庁所在地及び管轄境界には、一尺(約30cm)角、高さ一丈二尺(約363cm)、
    各村には八寸(約24cm)角、高さ一丈(約303cm)の寸法の角材を用いる。
  3. 元標及び里程標の位置
    元標: 日本国諸街道の起点として東京日本橋と京都三条橋に設置
    里程元標: 大阪府及び各県庁所在地に管内諸道の起点として設置
    里程標: 「里程元標」を起点として、各町村の「里程標」までの距離を測量して設置。
    里程標設置場所は駅、郵便、役所、陸運会社、高札掲示場等の肝要にして便宜の地とする。
  4. 記載方法
    ★東京と京都の元標を日本の道路起点と定め、大阪府及び県庁所在地の里程元標までの距離を計測して里程元標に記載する。
    ★里程元標から各町村の里程標までの距離を計測して里程標に記載する。
明治8年11月
(1875)

太政官第百九十九号「府県管内元標及び里程標柱書式改訂」布告
明治6年の太政官第四百十三号の追補。
道路の新設や付け替えに伴う里程の不具合発生に対処するため、「東西両京距離の里程記註を削る」処置を採用し、改めて標柱の書式を規定した。

【図-2】
「太政官第百九十九号 府県管内元標及里程標柱書式を改定」
       


大阪府及び県庁所在地に設置
「何縣里程元標」の記載指示有り


各村に設置
「里程標」の記載指示無し 

※この様式が、今日各地に残る里程元標/里程標の原型となる。

里程元標の参考事例へ
明治9年6月
(1876)
太政官達第六十号「道路等ノ等級ヲ廃シ国道県道里道を定ム」布告
 (各地方自治体(支庁)の判断で県道・里道が整備された)
明治9年10月
(1876)
内務省達乙第百二十号布告
旧来街道筋に設置されていた一里塚の一部を除き全て廃棄処分とする。
(旧来の一里塚から、明治6年法令の里程元標/里程標による近代的測量法に基づく道路システムへと移行)
大正8年4月
(1919)
法律第五十八号「道路法」公布
第八条で、「道路ヲ分チテ左ノ五種トス・・・国道・府県道・郡道・市道。町村道」
附則第六十五條で、「明治六年太政官達第四百十三号」と 明治九年太政官達第六十號達は廃止。
大正8年11月4日
(1919)
道路法施行令「勅令第四百六十号」公布
第九条で、道路元標ハ各市町村ニ一箇ヲ置クと定められた。
※近代的な道路網の発達に伴い基点となる標石として道路元標。
※道路元標には距離が刻まれていない。

 大正時代の櫻村の道路元標の設置場所
   当時の櫻村役場前(桜村大字桜字中縄手560番−4)
     (現・安田屋(桜町153-1)の西の道路を挟んだ空き地)
   建設地点道路種類・・・府県道 (菰野街道を指す)
       (出典:三重県公報号外(大正9年4月1日発行)三重県告示第151号)

旧鈴鹿郡亀山町、「里程標」と「道路元標」のレアショット
明治時代の木製の「里程標」(但し大正6年再建)と、大正時代の石製の「道路元標」
            (2006-02-15  調査・撮影 桜郷土史研究会:鈴木健一氏)

場所:亀山市東町1丁目8番1号
  (亀山警察署江ケ室交番裏 旧国道警察前)

「里程標」(木製:大正6年に再建)
刻字内容
*碑表 :距・・・以下不明
*碑陰 :距鈴鹿郡庄野村 貳里貳町四・・不明
*碑左面:・・・不明
*碑右面:大正六年三月 三重縣

木柱の寸法(基部は相当腐っている)
  幅240x奥行235x高さ1,850mm
(頭部には、木柱の腐敗防止のため、鉄製の冠が被さっている。)

「道路元標」石製
  大正時代の道路元標 

大正11年8月
(1922)
内務省令第20号「道路元標二関スル件」公布
道路元標の様式が規定された。
(高さ60cm、縦横25cmの石柱で、上部5cm角を取る)
昭和27年12月
(1947)
道路法施工令「政令第四百七十九号」公布
「附則2-二」によって「勅令第四百六十号」が定めた「道路元標」廃止。

ひとこと
  • 明治・大正・昭和にかけて、政府は時代に則した道路法、明治初期には村ごとに木製の「里程標」、大正8年には石製の「道路元標」、そして戦後の昭和27年には「道路元標」を廃止して「新道路法」を施行しました。末端の地方自治体はその都度対応しました。
  • 当地では、1.櫻村の元標(基点)の設置場所の(1)で記述したように、明治22年に櫻村と智積村が合併後「櫻村」一村となっていたので、大正期の「道路元標」は、国の政策通り、櫻村役場前だけに建てられました。(残念ながら、2006年調査当時、役場前のしかも一等地界隈に建っていた「道路元標」を、覚えている年配者にお会いしませんでした

    【時の流れ】 1876年(明治9年)12月19日、三重県飯野郡(現・三重県松坂市)で地租改正に反対する農民一揆「伊勢暴動」が勃発し、暴動は愛知県、岐阜県にまで及びました。
     当地では同月21日午後5時前、小学校として利用していた「多宝山智積寺」が焼き討ちに合い、多大な痛手を被りました
     しかし、やがて時の経過と共に、当地では「郵便システム」の恩恵を受け、「鉄道」も身近になり、徐々に村内に活気が満ちました。その歴史的過程を下記に少々併記しました。 
    「里定標」とは直接の関係はありませんので、お急ぎの方は4.三重郡内の「里程標」へお進みください。

(2)正確な情報を早急に伝達する通信制度(電信・郵便・電話)
明治2年11月
 (1869)
民部省第千九十七号発令
(諸街道区々の伝馬制から駅逓(えきてい、郵便の旧称)への移行を目指し、旧来の一里=50丁等を改めて1里=36丁とし、正確な運送距離の測量を命じた)
【通信制度】
明治2年(1869) 東京〜横浜間電信が開通
明治7年(1874) 電信条例制定。青森、東京、長崎間の電信が開通して幹線確立。
明治9年(1876) 四日市電信局開設
【郵便制度】
明治4年(1871) 郵便規則制定。東京・京都・大阪間に郵便制度開始
明治5年6月
 (1872)
太政官第百八十一号「国内一般郵便ヲ開設ス」布告  (伝馬制廃止)
 (地域によって毎日、隔日、毎月5、6度宛往復郵便を取り扱う)
明治7年12月    (1874) 智積村に郵便取扱書設置
明治15年7月
 (1882)
智積村と桜村に郵便函設置
智積村・・・元標より西方の戸長役場(椿岸神社から西へ100m付近)
櫻  村・・・字南垣内神宮教会所内(現・南区公民館付近)
明治43年 6月、桜村郵便局開局。
【電話】
明治23年(1890) 官営電話事業開始
明治33年(1900) 桑名四日市間電話交換開始

(3)徴税システムの改正(地籍地図の必要性)
明治6年
 (1873))
太政官第272号「地租改正」布告
土地所有権を認め、それまでの現物年貢を改め金納とし、豊凶に関係なく地租を地価の3%として、土地所有者に課税することとした。
明治8年(1875)
租税制度の改革、新地租実施
8月、『聰圖 明治八年八月、第一第区六之小区伊勢国三重郡櫻村』(櫻村の地籍地図)
明治9年12月
(1876)
12月21日、飯野郡魚見村(現・三重県松阪市魚見町)で勃発した伊勢暴動(農民一揆)で、櫻村の人民共立仮小学校となっていた多宝山智積寺が焼失した(該当ページへリンク)
明治10年1月     (1877)  地租改正反対の農民一揆が頻発し、政府は地租率を地価の3%から2.5%へと軽減した。
明治16年12月
 (1883)
三重県は町村ごとに地籍地図を作成して提出するよう指示した。
 (この頃、地租改正完了後の地籍編纂作業が全国的に実施された)
明治17年3月
 (1884)
地租条例公布(太政官布告第7号)
地租改正条例及地租改正に関スル条規等を廃止。昭和6年地租法により廃止。
明治18年2月
 (1885)
地押調査の件(大蔵大臣訓令主秘第10号)各府県知事県令へ訓示
地租改正事業の際の地押調査で欠落地や不備があった所の再丈量を命じた。
明治20年6月
 (1887)
大蔵大臣内訓第三千八百九十号「地図更正の件」
 地租改正の際に調製した町村地図は各地方の便宜に任せ技術的に未熟である上に、地租改正後10年経過して地目の移動があり実情に合わないので、別冊の準則に沿って地図を更正するよう命じた。
明治21年6月
 (1888)
三重県令第三十三号「地図更正の件」及び附属
上記・大蔵大臣内訓を受けて三重県の訓令。

(4)物資を迅速に大量輸送する官営鉄道網敷設(正確な里程距離の必要性)
明治5年(1872) 新橋〜横浜間開通
明治23年(1890) 草津〜四日市間に関西鉄道が私設鉄道として開業
大正2年(1913) 櫻村に軽便鉄道の駅舎ができる。(四日市鉄道、四日市ー湯の山間、蒸気機関車)

(5)軍隊の近代化(藩兵を解散し、兵権の中央集権化)
明治5年11月28日 太政官第三百九十七号「全国徴兵に関する詔」布告
明治6年1月10日
 (1873)
太政官無号「徴兵令」布告
士族・平民の身分の別なく満20歳に達した男子を兵役に服させる。(国民皆兵)

ひとこと
  • 「元標」と「里程距離」は、あらゆる政府事業の根底を支える原点であったことに気がつきます。道路網、鉄道網、郵便・通信網の各整備事業などの殖産興業は、日本が経済力をつけると同時に、軍事力をつけるためでもあったので、軍事物資・兵器・兵士等の大量輸送と情報の迅速な伝達・収集を可能とするため、軍事戦略上、正確な里程距離が求められました。
  • また国家財政収入の基礎確立のための地租改正事業でも、土地面積の測量(地押丈量)が行われ地図が作成され、その地租は軍事体制を支えました。


4.三重郡内の「里程標」

三重郡内の現存する「里程標」を調査
  1. 大正元年に三重県が建てた菰野村の石柱の里程標と、大正4年に千草村が建てた石柱の里程標には、「里程標」の刻字はありません。
    里程標設置場所
     ●菰野村の里程標・・・菰野村役場の東、高札場前、巡見街道沿い(下記写真参照)
     ●千草村の里程標・・・千草村役場前、巡見街道沿い

  2. 大正6年と7年に朝上村の田光と杉谷の各青年団が建てた石柱の里程標には「里程標」と刻字されている。
    里程標設置場所
     ●朝上村田光の里程標・・・朝上村役場前、巡見街道沿い
     ●朝上村杉谷の里程標・・・杉谷川の杉谷橋北詰、巡見街道沿い

  3. 上記2項から、少なくとも三重郡内では里程表示のある石柱を「里程標」であると認識していたと判断され得る。

  4. 明治6年と8年布告の太政官令に沿って、各町村に建てられたのは「元標」ではなく「里程標」である。したがって、菰野地区内の朝上村田光と杉谷の二つ石柱の「里程標」表示は正しい。

  5. 菰野、千草、田光、杉谷の里程標四基のいずれも、巡見街道沿いに建てられています。
    これについては、明治43年、千草村に第三師団管下の陸軍演習場が設置されたことに伴い、駐留部隊の行軍の便をはかるために建立されたそうです。(『菰野古碑 その風土』の著者佐々木一氏の説による)

三重郡菰野の里程標  巡見街道(国道306号)が北へ折れる辻にある。
                         (参考:『菰野古碑とその風土』佐々木一著)


2005年11月撮影)
【所在地】 菰野町菰野東町西
【規模】 高さ205cm、幅24cm、厚み24cm
【碑表】 距津市元標拾弐里拾六町参拾間菰野村大字菰野
【碑陰】
(北勢) 員辨郡阿下喜村大字阿下喜エ六里拾弐町
(南) 大正元年拾壱月 三重県
(西) 四日市大字四日市エ参里弐拾四町参拾間
 鈴鹿郡亀山町大字東町エ七里四町


5.まとめ

1.明治政府の道路整備に伴う「里程標柱の設置」

  1. 桜地区の重要史料である両村の地誌と附属地図が記す「元標」は、明治6年太政官布告の「元標及び里程標柱書式」、及び明治8年太政官布告の「府県管内元標及び里程標柱書式改訂」に沿って建立された「里程標」のことである。

  2. 既に「*元標及び里程標の位置」の項で調べたように、「元標」大阪府及び各県庁所在地に設置され、「里程標」各村に設置する規定である。
    従って、櫻村と智積村の人々が「元標」と言い習わしてきた標柱は、正確には「里程標」である。

  3. 前項「4.三重郡内の里程標」で確認したように、三重郡内の他村では「里程標」を正しく認識していたと考えられる。


2.当地で「里程標」を「元標」と呼称した理由

  1. 当地の両地誌とその付属地図に、「里程標」を「元標」と表記されている。
    ●明治5年〜8年にかけての太政官「皇国地誌編輯」関連法令に従って、当地では江戸時代に村落行政に携わっていた両村の旧庄屋(明治5年庄屋・名主の廃止)が、其々村の地誌編纂の総責任者でした。
    ●地図作製には、三重郡が正規採用した有資格の測量技師が担当しました。
    ●この地誌と地図は、両村の名誉と威信にかけて編輯した書籍である。
    ●この両村の地誌と附属地図に、本来は「里程標」である標柱を「元標」と明記されている。
     よって、両村内の人々も「元標」と言い習わした。

  2. 「図−2」の「太政官第百九十九号 府県管内元標及里程標柱書式を改訂」が示すように、そもそも太政官の里程標柱書式に「里程標」と明示すべきとする規定が無かった・・・全てはこの点に端を発していると考えます。
    (前項の菰野村や千種々の里程標は、大正初期に石製に再建されましたが、「里程標」と刻字されていないのは、規定に無かったからと考えられます)


3.当地の里程標(元標)は「石製」だったか?

戦後の数年間、桜村と智積村に存在したと伝えられる「元標=実際は里程標」は石製だったか?
1.櫻村の状況
  • 時代の推移
    明治34年(1901)に武佐小学校は、現・桜小学校の地(桜町1257)へ新築移転した。
    従って、石製への建替えブームが起こり始めたと考えられる大正初期には、元武佐小学校付近には、「山上井」以外に「里程標」の設置要件(郵便局や役場などの近く)を満たす何物も無かった。

  • 尚且つ、菰野街道の役割の低下
    明治政府が軍事体制を強化しつつあった明治後期以降、菰野街道は巡見街道のような軍用道路としての役割は無く、単なる生活道路であった。(前項「5.三重郡内の里程標の(5)」参照)
    従って、石製への再建は無かったと考えます

2.智積村の状況
  • 明治22年、櫻村と智積村が合併して「櫻村」となり、智積村は「三重郡櫻村大字智積」となり、行政村としての機能を喪失。
    従って、新たに石製の「里程標」を再建する根拠が無く、
    石製への再建は無かったと考えます

4.木製の里程標の耐用年数

木製(檜・椴)の里程標は、戦後数年までの耐久性があるか?
 亀山市の里程標は、大正6年(1917)に建て替えられましたが、89年後の2006年に現存します。

櫻村里程標の設置年を、武佐小学校創設年の明治14年(1881)頃と仮定すると、64年後の終戦の1945年頃から数年後まで存在した可能性は充分あります。(木柱の頭頂部を鉄板等で覆えば尚更十分です)

5.結論

当地の人々が言い伝えた「元標」は、実は「里程標」でした。
櫻村と智積村両村の有識者によって編纂された地誌と地図に「元標」と明記されたことから、至極自然に村内の誰もが「元標」と呼称し、継承し続けてきたと推測されます。

翻って考えてみれば、自村の「里程標」を基点として、各方面への里程距離を表記した「標柱」は、自村を中心に据えているのであるから、その標柱を「元標」と表現しても、あながち間違いではないと考えられます。
しかし当然ながら、明治期の道路法からみると(中央政府からみると)、あくまでも「里程標」です。

故大矢実氏が、歴史の風化を憂いて復元を試みた志は立派だと思います。
しかしながら、「石柱」「元標」と刻字されたのは、なるべくしてなったのであり、歴史的モニュメント建立の難しさを痛感せざるを得ませんでした。

                  ー 完 ー

                                       (文責・永瀧 洋子)



参考史料:『明治十七年調べ伊勢国三重郡桜村地誌草稿』、『明治十七年調べ伊勢国三重郡智積村地誌』、『伊勢国三重郡桜村地誌附属之図』明治18年7月製作)『法令全集』、『三重県史』『四日市市史』、『菰野古碑 その風土』(佐々木一著)    
2002年5月13日掲載後一時中断、2006年6月18日新規掲載、2006年9月13日更新  2018年8月更新 
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