山の神
 (三重県四日市市桜地区の山の神)
 山の神は原始民間信仰の一つで、農民・狩猟民・鉱業者などの間で古くから信仰されていますが、山の神の性格や祭日やまつり方などは、地方やまつる人々によって大きな差異があります。
 農民にとっての山の神は、秋の収穫後は山の神として近くの山中にあり、春になると里に降りて田の神になるという“神去来の信仰”が伝えられ、一方、山仕事に従事する杣(そま)・炭焼・木地師・猟師などにとっての山の神は、田の神にならず山中常在の神と信じられています。
 山の神の祭神は、記紀神話にみられる神、すなわち『古事記』によると「大山津見神(おおやまつのかみ)」、『日本書紀』によると「大山祇命(おおやまずみのみこと)」であるとされ、日本国内総ての山をつかさどり、水源や田の実りも支配する神として信仰されています。


桜地区の「山の神」

  • 当地の先人が、いつ頃からどのような形態で山の神を信仰していたかは定かではありません。
    しかし、当地に残る二冊の地誌『明治17年調 伊勢国三重郡桜村地誌草稿』と『明治17年調 伊勢国三重郡智積村地誌』に、「山の神」の石体は智積村と桜村の主だった字(あざ10箇所に10基あったこと、各々の設置場所、境域の面積と樹木の有無、そして祭神名が記されています。「山の神」にまつわる風俗習慣などの記載はありません。
       【参照:「地誌について」はここから
  • 明治17年(1884)の調査
    @山の神の石体は、智積村に二基、桜村に八基、合計十基ありました。
    A祭神
    大山祇命(おおやまずみのみこと)
      この神は総ての山をつかさどると考えられています。
      祭神地・・・7ヶ所 
       智積2体(字富水、字城丸)、
       桜一色1体(字山上垣内)、
       桜西区4体(字乾谷(いんだに)、字茨尾(いばらお)、南山字大井欠(おおいかけ)、字猪狭(いのそわ)、字赤阪)
             (但し、「字猪狭(いのそわ)」と「字赤坂」の2体は、その後消失)

    八衢比古命(やちまたひこのみこと)」と「八衢比売命(やちまたひめのみこと)
      この二神は道祖神で、「往古より村の辻々に座して外から侵入してくる邪神を防ぎ、かつ疫病退散の神」として一般的には信じられています。
      祭神地・・・3ヶ所
            「桜町南区字西の平(にしのひら):(山神−2)」・・・桜観音境内にあり、 
            「西区山上(やまじょう):(山神−4))」・・・八幡神社境内にあり
            「西区斧研(よきとぎ):(山神−5)」

  • 明治42年(1909)、政府指導による一村一社の神社合祀
    桜地区の主だった字(あざ)で祀られていた「神社」と「山の神」は、全て椿岸神社に合祀されました。
    このとき、「山の神」の御神霊が合祀されたという事で、石体は智積の二基を除く他はそのまま現地に残されました。

  • 昭和20年(1945)、第二次世界大戦後
    国家と神道の分離が行われ、昭和22年(1947)日本国憲法施行、第20条によって信教の自由が保障されて以来、再び地元民の素朴な信仰として「山の神」は祭祀されてきました。
明治17年(1884)から約120年後の「山の神」
  2002年と2005年の調査結果
   (各地の自治会長様や有識者様に協力いただきました。誠に有難うございました)
  1. 山の神の石体は智積町(椿岸神社境内)に二基、桜町に七基、合計九基が祀られていることを確認しました。
    それぞれの山の神については、下表にまとめました。
    この9基のうち桜町西区字乾谷(いんだに)の山の神は、地元民の伝承があるにもかかわらず、明治17年調査時の桜村地誌に記載されていない点で特異です。
    詳細は乾谷(いんだに)の(山神−6)へ
    関連ページ「弁天様と山の神」はここから

  2. 明治17年以降、現在(2005年)までに、下記の二基が消失しました
    西区南谷の(あざ)猪峡(いのそわ)に在った山の神
    祭神: 大山祇命
    境内: 東西3間3尺南北5間面積17坪。小松あり大木なし。
    牛の形をした立派な自然石が山の神として祀られていましたが、平成2年頃、国道306号線のバイパス道路建設の際に廃棄されました。
    (因みに、この山の神の直ぐ近くに祀られていた稚瑳良(わかざくら)神社は、政府による神社合祀令で明治42年椿岸神社に合祀され、その時、手洗石が椿岸神社境内忠魂堂前に移設されています)

    西区南山の字赤坂に在った山の神
    祭神: 大山祇命
    境内: 東西20間南北13間面積158坪。樹木あり大木なし。
    昭和60年、郷土史研究会先輩の調査時には既に行方不明となっていました。

  3. 「山神」の祭祀形態など
    @ 当地では、農村地帯特有の「季節に応じて山の神から田の神になるという“神去来の信仰”」の伝承や、そのほか日本各地で「山の神行事として挙げられる特異な風習」などは何も伝えられておりません。
    近年はもっぱら里山の恵みを受けつつ暮らす農民の“農の歳時記”の一行事として、山の神は守り続けられてきたことが判りました。
    A 当地の「山の神」も日本各地の「山の神」と同様に、生活様式の変化と土地開発の波に押されて、最早人々の心を支え続ける存在ではなくなってから久しく、まさに“風前の灯”状態です。
    B それにも関わらず、「先人から受け継いだ自分たちの素朴な五穀豊穣を願う民俗・風習を、山の神にことよせ遺産として継承していきたい。」という真剣な声を、熟・老年層の自治会長様や他の皆様から聞くことができたのは心強いことでした。

  4. 年間行事としての山の神
    昭和15年頃までは、秋の収穫が終わる頃、すなわち旧暦の10月に当る12月6日に、「山の神」を祝う行事が桜地区内のあちこちでありました。 
    当日は村中一斉に仕事を休んで、組中の老若男女一家総出で、各々の集会所につどい、食事をして夜遅くまで語らいました。 
    料理はみな手作りだったので、女性が前日の午後から集まって準備にかかったそうです。

  5. 農民の休養と親睦としての山の神
    当地の山の神は、農民が山の神に対して、秋の収穫を感謝する素朴な気持ちから発して、時の経過とともに、徐々に農民自身の休養と親睦を兼ねるものへと発展してきたと考えられます。 
    桜の人々と共に歴史を歩んだ山の神は、人々のライフスタイルの変化に伴い、何度も遷座されたり、中には廃棄された例もあります。 
    しかし時代の趨勢にもかかわらず、現存する山の神の石体は九基にも及ぶという事実は、桜の人々が如何に「山の神」を大切に思い、身近な信仰対象としてその存在を受け止めてきたかの証であり、それはまた、村の最小単位である「組」の人々相互の心をつなぐ「重心力」として、「山の神」が重要な役割を果たしてきた証でもあると言えるのではないでしょうか。


桜地区の「山の神」一覧
             「山の神」の位置は、「Map道標と山の神」でご確認ください。
(山神-1)  椿岸神社境内の「山の神」
智積(字当水と字城丸);山の神
所在地 桜町智積 椿岸神社本殿の左側。
南向きに鎮座。
(明治42年、椿岸神社に合祀のため移設され,、現在もそのまま本殿前に鎮座します)
元の場所と境内 『明治17年調べ伊勢国三重郡智積村地誌』では、
一体は字当水(とんずい)に鎮座、
 境内は、東西2間南北2間面積4坪。樹木なし。
一体は字城丸(しろまる)に鎮座
境内
・・・
字道路の傍らで境内なし。
(元の場所にどちらの石体が鎮座していたかは不明です)
祭神 2体ともに、大山祇命(おおやまずみのみこと)
刻字 山神
(2002年4月撮影)
桜の史跡「椿岸神社」のページへ
上記写真の「山神」二体に挟まれた
小さい石造物も「山の神」です
刻字
 石体表 : 「山神」
 石体裏 : 「芳山要造」 

信仰心の篤い方が個人的に奉納されたようです。
「山の神」信仰の一面がうかがえます。
但し、現存する「山神」の石体数9基の中には入りません。

山の神にまつわる談話(聞き取り調査:2002年4月)
 智積第3自治会の橋川佐市氏談
  • 太平洋戦争以前、12月6日の「山の神」行事としては、前日から準備にかかり、当日朝5時ごろ組頭(くみがしら。組長のこと)の家に集まり、餅をつき、鏡餅を椿岸神社へ奉納。 そのあとで朝食に餅、昼も餅、夕食は“かしわめし(味ご飯)”を食べました。
  • 現在は、12月第2日曜日に、智積の全自治会の自治会長と組長が集まり、「山神祭」を椿岸神社拝殿にて催行。 川島敏孝宮司が祝詞をあげ、各自治会長が玉串奉典をします。

(山神-2) 桜観音堂境内の「山の神」
桜町南(字西の平);山の神
所在地 桜町南
桜観音堂境内、六角堂の南側。
東向きに鎮座。
元の場所と境内 『明治17年調べ伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』では、字(あざ)西の平(にしのひら)に鎮座。
境内・・・東西6間南北4間3尺面積22坪。雑木あり大木なし。
明治27年、字東別所(現・桜台一丁目の墓地付近)に遷座。
更に昭和45年、桜台団地造成のため現在地に遷座。
祭神 八衢比古命(やちまたひこのみこと)
八衢比売命(やちまたひめのみこと) の二神
刻字 山神
(2002年4月撮影)

桜の史跡「桜観音堂」へ

(山神-3) 地蔵堂裏山の「山の神」
桜一色;山の神
(2002年4月撮影)



   (2005年11月9日撮影)
所在地 桜町一色 地蔵堂の裏山。
東向きに鎮座。
元の場所と境内 『明治17年調べ伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』では、字山上垣内の地(現桜一色地内、通称・十兵衛藪、現在地の西方約200m)に鎮座した。
境内・・・東西10間南北5間3尺面積30坪。小竹あり樹木なし。
遷座年不明ながらその後、安正寺の北西、現・一色公会所の西にあった“溜池(通称弁天池)”の真ん中の小島に祀られていた"弁天様"の横に遷座。
更に昭和45年頃、耕地整理に伴い溜池が埋められたため、現在地へ遷座。
祭神 大山祇命
刻字  
特徴
山神
刻字体が非常にユニーク

桜の史跡「地蔵堂」へ


下図は『三重郡櫻村地誌付属之図(明治18年(1885年)作)』に適宜文言等を挿入した地図です。(責任・eitaki)
 *”赤色の文字と記号”は、「一色の山の神」関連事項です。
(1)明治18年(1885年)当時、櫻村一色の「山の神」は「十兵衛薮」に鎮座。
(2)その後、一色地内の溜池(通称弁天池)の小島へ遷座。(遷座年及び溜池の位置不明)
(3)昭和45年(1945年)頃、現在地の地蔵堂裏山へ遷座。

【桜地区のむかしばなし】「十兵衛藪(じゅうべいやぶ)」と いたずらきつね」へリンク

(山神-4) 山上八幡神社境内の「山の神」
山上;山の神
(2002年4月撮影)
所在地 桜町山上 山上公会所の西側
八幡神社境内、東向きに鎮座
2021年3月14日、旧「山上八幡神社境内」から「山上公会所」敷地の「教尊法師の碑」の左横へ東向きに遷座された。(「山上八幡神社」の椿岸神社へ再合祀に伴う遷座)
元の場所と境内 明治17年調べ『伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』では、現在地の西方約200mの字山上垣内に鎮座。
境内・・・東西45間南北3間面積30坪。樹木なし。
祭神 八衢比古命(やちまたひこのみこと)
八衢比売命(やちまたひめのみこと) の二神
刻字 山神

関連ページ「(桜の史跡NO.7)八幡神社と山の神跡」

山の神にまつわる談話(聞き取り調査:2002年4月)
 山上(やまじょう)第一自治会1番組の奥山勝氏談
  1. 12月6日、各組の「山の神の宿」に、「八衢比古命・八衢比売命」と二神並んで書かれた掛け軸を掛け、お神酒とお鏡餅をお供えして「神迎え」をしました。
  2. そして、「神の祝(いわい)として、朝5時前後、「宿」に若い男性が集まって餅を搗(つ)き、やがて組中の老若男女も集まり来て、「あんころ餅」「おろし餅」「菜餅(なもち。"おしたし"に餅を入れたもの)」をつくり朝食としました。 そのまま昼食も餅を食べ、夕食には、「かしわめし(味ご飯)」を全員で食べて夜更けまで歓談しました。
  3. こうした形式は、戦前の昭和15年頃までの事で、その後の第二次世界大戦開始と同時に、食糧事情も悪化し、社会情勢の変化に伴い、姿を消していきました。
  4. 現在では、山上第一自治会1番組と2番組だけが山の神祭事を継承しています。1番組は12月の第一日曜日に、2番組は第二日曜日に料理屋(魚春)で、昔からの習慣に沿って床の間代わりのステージに祭壇を設け、掛軸を掛けお神酒とお鏡餅をお供えして礼拝しています。それから皆で懐石膳を食べて語らい親睦を深めています。
    (関連ページ・・・「山の神の掛軸について」「山の神祭事」のリンクページをご参照下さい)

(山神-5) 斧研(よきとぎ)の「山の神」
桜町西(斧研);山の神
(2002年4月撮影)
所在地 桜町西区。斧研(よきとぎ)公会所を背にして左前方に見える丘の敷地25uほどの境内に南向きに鎮座。
元の場所と境内 明治17年調べ『伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』では、字斧研の公会所から約150m南西に鎮座。
境内・・・東西6間南北4間面積19坪。樹木なし。
遷座年不明ながら、その後現在地より約300m奥の山中の字丸須子に遷座。
1997年12月頃、ゴルフ場造成のため、里近くの現在地に再び遷座。
祭神 八衢比古命、八衢比売命の二神
刻字 山神
 
 斧研公会所から北を望み見て、運動場の青いフェンスを目標として細い坂道を登り、運動場を右手に見て更に少し登ります。斧研全体が見渡せる日当たりの良いところに鎮座しています。

山の神にまつわる談話(聞き取り調査:2005年11月)
 桜町西区斧研(よきとぎ)の近藤善治氏談
  1. 昭和16年の太平洋戦争が勃発する頃までは、12月6日には組頭さんの家で朝から餅つきをして、「山の神」の神前にお鏡餅とお神酒をお供えしました。組の人全員で朝食と昼食はお餅、夕食には“かしわめし”のご馳走を食べました。
  2. 昔は山の神の「田」があったので、そこから得た収益と、“講”から得た金利とで、山の神祭事の餅米代等を賄っていました。
  3. 山の神の掛軸(八衢比古命、八衢比売命の二神の御名が書かれた掛軸)は、子どもの頃から一度も見たことがありません。
  4. 12月6日の「山の神」の翌日(7日)から、皆が山へ入って柴を刈り雑木を伐って集めました。
  5. 毎年2月14日には、御鍬祭(みくわまつり)という春祭りをしました。長い冬が終わり明日からは田に鍬を入れるという農耕開始の祭りで、豊作を予祝する行事として鍬を持って農作業の仕草(しぐさ)をしました。おはぎを作って食べ、また母の在所(近郷の水沢、菰野など)へも届けました。これは山の神行事ではありませんが、12月6日の山の神と、2月14日の御鍬祭は、農民にとって節目の意義ある日でした。
  6. 戦中戦後の食糧不足は農村地帯でも深刻でしたし、また農地解放や新円切換で日本中が騒然としていて、我々も「山の神」どころではありませんでした。やがて昭和29年に桜村が四日市市に合併する話が持ち上がった頃、ようやく当村の人々の暮らし向きも少しは良くなり、一連の行事を復活させました。しかし、昭和40年代の高度経済成長期に、人々のライフスタイルの変化に伴って、これを続行する事が困難となり何時とはなしに途絶えていきました。
  7. 現在では簡略化され、12月第一日曜日に開催される桜連合文化祭は、私たちの「山の神」を兼ねています。当日の朝、各組長が集まり揃ってお神酒と菓子屋に注文して誂えたお鏡餅を「山の神」にお供えして礼拝します。それから文化祭に出掛け、夕食には組の者全員で会食します。

(山神-6) 乾谷(いんだに)の「山の神」
桜町西(乾谷):山の神
(2002年4月撮影)

桜の史跡「弁天様と山の神」へ
所在地 桜町西区 乾谷(いんだに)公会所敷地内。
南向きに鎮座。
元の場所 乾谷の西北の山地、(あざ)大谷。
嘉永3年(1850年)、字大谷に大谷池(通称弁天池)が造られ、池の北東に古くから鎮座していた「山の神」の傍に、大谷社が創建され弁天様が祭祀された。
終戦後、池から少し離れた南東に両神体が遷座された。
昭和61年、乾谷公会所の新築に伴い現在地に再び遷座された。
祭神 大山祇命
刻字 無し
祭祀形態 神籬磐境(ひもろぎいわさか)の古事にならって祀られている。
                 神籬(ひもろぎ)・・・清浄の地を選び常盤木などで玉垣を設けた神座。
                 磐境(いわさか)・・・岩石を敷き並べた祭場。神の鎮座する区域。  
山の神にまつわる談話(聞き取り調査:2002年4月)
 桜町西区乾谷(いんだに)の加藤庄一郎氏談
「山の神」の行事について
 太平洋戦争が始まる頃までは、決められた量のもち米を家族の人数分だけ“組の宿”へ持ち寄り、朝早くから餅をつき、組の家族総出であんころ餅やきな粉餅などをつくって食べました。夕食には「かしわめし」を食べながら話に花を咲かせました。 現在、乾谷では山の神行事は何もしていません。

乾谷の山の神が桜村地誌に記載のないことについて  (2005年12月調査)
 乾谷では、古くから大谷池の北側にあった弁天様の横に「山の神」があったと言い伝えています。しかし地誌に記載されていないことを不審に思い、真実を解き明かすべく乾谷内の年配者に聞いたところ下記のことが分かりましたが、明治17年に大谷池の北に「山の神」があった確証にはならず残念です。
  • 大正4年生まれの石川進様の話では、乾谷公会所の北西の大谷池(通称・弁天池)の北に、山の神は昔から弁天様と共にあったが、戦後池の南側に双方共に移された。
  • 弁天池の南にある山の持ち主・辻秋雄様の話では、戦後、大人たちが土地を整地して、弁天池の北から大きな網に山の神の石体を載せて担いで来たのを目撃している。

(山神-7) 南山の「山の神」
桜町西(南山):山の神
所在地 桜町西 南山公会所敷地内 
東向きに鎮座
元の場所と境内面積 明治17年調べ『伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』では、現在地より約50m北の字大井欠に鎮座
境内・・・東西5間南北12間。樹木あり大木なし。
祭神 大山祇命
刻字 山神
(2002年4月撮影)

 南山自治会の「山の神」行事は、下記「山神−8」の茨尾の人々も一緒に参加して行われています。


(山神-8) 茨尾の「山の神」
桜町西(茨尾):山の神
所在地 桜町西 茨尾の西方の山中に鎮座
元の場所と境内面積 明治17年調べ『伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』では、現在地より北方約150mに鎮座
面積・・・東西8間南北7間3尺面積33坪。雑木あり大木なし。
祭神 大山祇命
刻字 無し

 茨尾には、数年前までは民家が7軒あったそうですが、今では4軒に減りました。 正月になると、昔の習慣を守る人が、「山の神」にお神酒とお餅をお供えして参拝するそうです。 最近もお参りした方がいるらしく、青い瓶の榊は活き活きとしていました。(2002年4月聞き取り調査時)
茨尾の山の神からの眺望
「山の神」から茨尾の家並を眺望
民家に接した西の山に祀られているこの「山の神」のロケーションは、自然にあって里人を守る「山の神」本来の姿を彷彿とさせます。 

 祠はいかにも人の手を感じさせ、「自然神・山の神」と「人工」のアンバランスに、一瞬戸惑いますが、やがて、「山の神」を大切に守る里人の心の温もりが、じわ〜っと伝わって、ここまで辿り着いたあなたをきっと感動させるでしょう。

(2002年4月撮影)
文責:永瀧 洋子

参考資料:『明治17年調伊勢国三重郡智積村地誌』、『明治17年調伊勢国三重郡櫻村草稿』、『山の神と村の年中行事』(桜郷土史研究会発行)、『日本民間信仰論』櫻井徳太郎著、『山の神信仰の研究』堀田吉雄著、『学芸百科事典』(旺文社)、『広辞苑』(岩波書店)。
2002年 4月掲載、 2005年12月更新:「山の神祭事」「疱瘡の神」掲載  
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