ビデオ「観音山(かんのんやま)の天狗松(てんぐまつ)
語り・杉原 功様(三重県三重郡菰野町・真菰の会)
ビデオ制作・川合 一明様(桜ヶ丘)
(2012年10月21日、”桜ヶ丘たのし会”主催「民話のつどい」にて)


     

   
 第1話 サッパリショーガヤ
 第2話 地蔵さんの井戸
 第3話 観音山の天狗松 (2013.07.17 ビデオ掲載)
 第4話 小ぼじ
 第5話 池の溜(いけのため)情話
 第6話 十兵衛藪(じゅうべえやぶ)と いたずら狐
 第7話 善光寺参り
 第8話 しわ
 第9話 猿をほどく
最初の話は、『サッパリショーガヤ』やけどな、
桜地区の方言、分かるかなぁ〜???

さぁ、それでは始まり、はじまりぃ〜!


(第1話)
        「サッパリショーガヤ」 

 桜郷土史研究会会員
  故・山吹 生一(ペンネーム)
  2001年11月19日掲載

 智積に名人といわれるほど草刈の上手な人がいました。
 新平さんの草刈と言えば有名で、その出来ばえは完璧で、あたかも芝生を敷き詰めたようだったという。
 この新平さん、平素、在所の人もあまり立ち入らない狐谷の草を刈った。
 狐谷とは、山畑の南西にある谷で、名の通り狐の巣穴のある谷である。

 谷は、笹とすすき、裏白(ウラジロ)が人の背丈ほどに生い茂っている。
 谷の入り口から刈り進み、1日がかりで刈り上げた。
 一番奥の絶壁の下の方に、狐の穴があった。
 刈り終わり、谷の入口に来て振り返り、その出来ばえに満足した。
 そして奥に「ポッカリ」狐の穴が見えた。
 元来几帳面な新平さん、狐に一言挨拶して帰ろうと、再び奥まで戻り、
 狐の穴に向かって、『サッパリショーガヤ』と、言って帰った。
 その時、狐は穴の中にいて、それを聞いたのです。

 真夜中のこと、『バサッ、バサッ』という音で、目が覚めた。
 見上げると、星空が見える。
 不審に思って、雨戸を開けると、庭一面藁
(わら)の山。
 屋根の藁
(わら)は、きれいに抜き取られていた。
 そして、そこには狐がいて、
『サッパリショーガヤ!』と、言い残して山へ帰ったという。

 子供の頃、探検気分で、この谷を検分した事がある。
 笹を押し分け、恐る恐る進んだ。
 奥の突き当たりに、確かに狐の穴はあったが、狐は留守のようだった。
 この狐谷は今は住宅地となって、昔の面影は全く無い。
 真に、「サッパリ」したものである。
                                ---おわり---



(第2話)
         地蔵(じぞう)さんの井戸(いど)

 桜郷土史研究会会員 
 故・山吹 生一(ペンネーム)
 2001年12月2日掲載

 一色の地蔵さんに、深いふか〜い井戸がありました。
 当時は、地蔵さんの境内は、今よりはるかに広く、
 岡は、東の方に続いて、子供たちの絶好の遊び場となっていました。
 遊びに来た時、この井戸の中に、小石を落とすと、
 帰る頃になってはじめて、井戸の底から「チャッポン」という音が聞こえて来たそうです。
 井戸の深さが分かるでしょう。

 ある時、この井戸の傍らに佇んで、ジッと耳をすませている人がありました。
 来る日も、来る日も、暇さえあれば、同じ事をしていたそうです。
 村人は皆、不思議に思って問いただすと、井戸の中から話し声が聞こえると言うのです。
 それだけではありません。
 話しているのは、北畠満雅公
(きたばたけみつまさこう)だというではありませんか。
 室町時代の始めの頃の人ですから、今から500年以上昔の人です。
 満雅公の祖先は、親房卿
(ちかふさきょう)で、後醍醐(ごだいご)天皇にお仕えした南朝の忠臣です。
 その子孫である満雅公も、南朝方で、伊勢の国司という重要な役についていました。
 公は、桜の地が、殊の外お気に入りで、たびたびこの地を訪れて、桜を賞でておられました。
 桜岡と呼ばれた地蔵さんの地は、特に立派な桜の木が多かったのです。
 大層よい政事をなさいましたので、村人に慕われましたが、足利幕府との争いで敗れ、南勢の地で討ち死にしてしまいました。
 村の人々は、その遺徳をしのんで、公のために地蔵さんをお祀りしたのです。

 井戸の中から聞こえる満雅公の話し声、どんな話だったでしょう。
 私に、この話をしてくれた老人も聞いていないそうです。
 今、地蔵さんに行って見ても、井戸が見当たりません。
 多分、満雅公の話し声と共に埋まっているのでしょう。
                                  ---おわり---


「参考」・・・「一色の地蔵さん」は桜町一色の「地蔵堂」のことです。
                (関連ページ:「地蔵堂」へどうぞ)



(第3話)
         観音山(かんのんやま)の天狗松(てんぐまつ)

 2001年12月12日掲載

 昔むかし、今の桜台の「さんまい(墓地)」が、まぁんだ観音山と呼ばれていた時分の話じゃよ。
こう言ってお婆さんは話はじめました。

 その話によると、いまから620年も前に佐倉城の殿様が若くして討死したので、その子が城を再建した時、供養のためにあの場所に観音堂を立てたので、観音山と呼ぶようになったと言うことです。
 けれど、その後開発などのため、観音堂は7回も引越して、やっと今の場所に落ちつき「桜観音」と呼ばれています。
註:”桜観音”は桜町南、矢合川に架かる高橋の南にあります
 「あぁ、そうそぅ、天狗松のこと、ころっと忘れよって。」 こう言ってお婆さんは話を続けました。
 「昔なぁ、殿様について江戸に行った人がょ、かえりに浜松でひと休みしている間に、ひっこいで持ちかえり、あの観音山に植えたそぅな。」

 この松は大変枝振りがよくて、鉢植えの盆栽のように枝が横にひろがって立派に成長したそうです。
 ところが、この頃、この松の枝に天狗が腰かけて笛を吹いていたという噂が、里の人たちの間にひろがりました。

 「桂谷
(かつらだに)の若い者がな、桜で夜あそびしてょ、おそく観音山の下を通るとなぁ、上の方から笛の音がするのでよく見たが暗くて分からなかったそうや。」と言う話も伝えられてきました。(註:桂谷は現・桜新町付近)
 それで、この頃からこの松を天狗松と呼ぶようになった、ということです。

 ところで、お婆さんの話によると、天狗は真っ赤な顔をして鼻がうんと高く、白くて長いひげと髪の毛で、 一本歯の高下駄をはいているそうです。
 そして、手に羽団扇(はうちわ)を持っていて、何処へでも、スーイ、スーイ、と飛んで行くことができるのだそうです。

 そして、ある年の春から夏になる頃のことでした。
 智積
(ちしゃく)の若いお百姓さん夫婦が、奥別所(おくべっしょ)の谷合の田圃で田を均(なら)していました。
 男の赤ん坊は藁篭(わらかご)に入れて蚊や蝿の少ない台地の木の枝に吊るしておきました。
 やがて、お陽さまも真上に輝いて昼どきになったので、二人は坊やのいる台地にきました。
 観音山はすぐ北の方に見えています。

 そして、お母さんは、お乳をやろうとして篭の中を見て、あっ、と驚きました。
 赤ん坊がいないのです。

 まだひとりで這い出ることは出来ないし、鷲
(わし)にさらわれたとも思えず、もしかしたら天狗の仕業かも知れない、とも思いながら、深い悲しみの中に何時しか20年近くも過ぎ去っていました。
 そうしたある日のことです。
 智積の夫婦の家の前に、この辺では見かけない立派な身支度をした、若い商人風の男が訪ねてきました。
 そして若者の話を聞きますと、
 『私は赤ん坊のころ、天狗さんに連れられて江戸に行き、子供のいない大きな商店の店先に置かれていたのを、そこのご夫婦にひろわれて大事に育てられました。』
 そう言って差し出した御守を見ると、あの時赤ん坊の着物の紐に結びつけておいた御守に間違いありませんでした。
 (親子は手を取り合ってどんなにか喜び合ったことでしょう)

 でも、お婆さんの話はこれで終わりましたが、あとで次のように言いました。
 『あのぅ、めおと(夫婦)は若い時分からなぁ、貧乏でもょ文句一つ言わねぇで、しっかり働いてたからさ、きっと天狗さんも、よう知ってなさってたんやあろまいか。』 と。

 ところで、天狗松は松食虫のために枯れてしまったので、切り倒してその年輪を調べてみると、百年まではどうにか分かったが、それ以上ははっきりしなかった、ということです。
                                    ---おわり---

                   (関連ページ:「一生吹山の歴史」へどうぞ


     

     ”天狗松”と親しまれた観音山の松    
                  撮影:1961年(昭和36)9月
この写真の裏面には、次のように記されていました。
 樹齢:数百年、樹囲:9尺8寸(約2.9m)
 昭和34年9月伊勢湾台風の為樹勢衰え、
 昭和36年9月枯死状に至る。同月之を撮影後世に残す。
   (註:伊勢湾台風は1959年(昭和34)9月26日潮岬上陸)





(第4話)
         (こ)ぼじ

 2001年12月12日掲載

 昔、小ぼじ、という若者がおってな、りこうもんで、話も上手ぢゃったげな。
 小ぼじは、また、いろいろないたずらなども思いついて、わるさしとったげな。

 その小ぼじがな、ある時仲間をつくってな、仲間たちに篭をかつがせてよ、自分は偉い坊んさんの真似してよ、近江の国へ出かけたそうな。

 そして、あっちこっちの村で、「なんでも京都からきた徳の高い坊んさんだそうな。」と仲間たちに言わせて回り、人があつまると道なかでも説教して歩いたそうな。

 だから、人から人へと噂が伝わってな、信仰心のあついお爺さんやお婆さんは珠数をもってのぅ、道の端に小ぼじ和尚を出迎えたという。
 それで、米さ持ってくるもん、魚さ持ってくるもんもいるし、夜は名主さんや庄屋さんによばれて泊めてもろぅたそうな。

 そして小ぼじは、ほんまの坊んさんのよぅな顔して、得意の話しぶりで地獄参りや地獄極楽のことなど、ほんまに見てきたよぅに話しては、有り難い、勿体ない、南無阿弥陀仏、と言ってる姿はほんまの偉い坊んさんのよぅだったという。
 この小ぼじはな、また、忍術の真似ごとも上手でよ、笠一本もてば自分のからだを隠すことができたという話もあるがのぅ、今は、坊んさんの真似にあじをしめてよ、すっかりええ気持ちでいたんだな。


 ところがよ、悪いことはそんなに長く続くもんでねぇ、そのうちにほんまのことが知れちまってよ、里の人たちに追われて命からがら逃げかえったという。

 でもな、こんな小ぼじだがよ、頓知が良いので村の人たちからは重宝がられていたというし、一休さんのような頓知で村の人のために、良いことをしたこともたびたびあったという。
                                  ---おわり---



(第5話)
         池の溜(いけのため)情話(じょうわ)

  2001年12月12日掲載

 池の溜は「池の谷」という地名の所にある溜池なので「池の溜」、と呼んでいます。

 溜池は江戸時代、田圃を多く開墾するために、川の水が引けない台地にも用水を引くため、山の谷川を堰き止めて造った貯水池のことです。
 桜地区には、弁天池、雨池、池の溜があります。
 そして、「池の溜」が造られたのは、文政元年(1818年)ですから、今から173年前のことです。
(註:この昔話を採録した年(1991年)から数えて173年前)

池の溜(四日市中消防署西分署の裏)
 昔、池の溜の守り番に文太郎という青年がいました。
 文太郎の仕事は、5月から9月まで田圃で水が必要の間、百姓衆の言うことを聞いて、池の堰板を高くしたり低くしたりして、水の量を調節するのが役目でした。
 ですから、梅雨時に雨降りが幾日も続くと、田圃が水で溢れないように川の方へ流します。
 また、夏の日照りが続いて水の少ない時は、池の水がどの田にも公平に行くように走り廻って水の面倒を見ました。
 このようにして、文太郎青年は一生懸命によく働くので里の人々は皆感心していました。

 その頃、文太郎には、おみねという美しい恋人ができました。
 おみねは、佐倉村の地主の娘ですが、この池の溜の付近に、わらび採りにきて毒蛇に噛まれて気を失いそうになっていた時、丁度通りかかった文太郎に助けられたのです。
 それ以来二人は深い恋仲になりました。
 日が経つにつれ、二人の恋は激しく燃え、夫婦約束もして逢瀬を楽しみにしていました。
 その中におみねは身ごもり、人目を憚る身体になってきましたが、まだ親に打ち明けていません。


 二人は、いろいろと相談したのですが、良い思案も浮かびません。


 困り果てた文太郎は意を決し、日頃自分の家か親のように親しんできた、この、池の溜のほとりを死場所と定めて、平素深く信仰していた御仏のお経を一心に唱え、二人の身体をしっかりと結んで入水してしまいました。
 その時、溜池の近くの下の畑で働いていたお婆さんの話では、秋の夕暮れの静かな中で輪鐘(りん)の音と 2人の読経の声が入り交じって微かに聞こえてきて、さながら夢の世界をさまよぅているような思いで、じーと聞き入っていたということです。
 亡くなった時、文太郎は16才、おみねは18才とのことでした。

 この溜池も大正10年の日照り続きの時は、空っぽになり、昭和49年と53年の日照りの時は、矢合川や大井用水からポンプで水を汲み上げて、どうにか、天王平
(てんのうひら)などの台地でも田植えができたそうです。
                                   ---おわり---



(第6話)
     十兵衛藪(じゅうべえやぶ)と いたずら狐(きつね)

 2001年12月13日掲載

 昔、山上(やまじょう)には桜の木が多いので桜岡とも呼ばれ、桜岡社という神社もありました。
 けれど、山上の周りの崖は竹薮ばかりで、崖下の道の上にもかぶさっている所が多くありました。
 山上の十兵衛藪もそんな所ですが、桜一色から坊主尾へ行く道の途中にあり、雪の降る日は竹が曲がって道一杯に屋根のようになるので、トンネルの中を歩いているようでした。

 この十兵衛藪の近くに経塚山がありますが、里の人たちは此の辺を山上畑・狐谷・小谷・竹田などと呼んでいました。
 そして、ここに狐の一家が住んでいたのです。
 狐の家族は、ほら穴に住んでいて山の中や畑で食べ物を集めたり、時には里の家の方へも出てきて餌をあさったりすることもありました。

 ところが、いたずらものの狐がいて、昼間でもうす暗い、近くの十兵衛藪に、時々出てきて人を化かすのです。
 今朝も隣の甚兵エさんが話していました。
 「ゆんべなあ、ぼーぞ(坊主尾)で一杯よばれてな、けえりにょ十兵衛藪で土産のすし、取られちまったんや。」 

 そのほか、いたずら狐は、夜など酒に酔った人が十兵衛藪を通ると、道一杯に横になって大男になって寝ていたり、竹薮の天井から砂をさらさらと降らせたりしました。

 また、ある時は、縄を上から垂らして大蛇に化けて、人をおどろかしたこともあります。

 それから、助さんの家では、婆ぁやんが、せんち(便所)に入っていると、ポトーン、ポトーン、と小石を投げこまれたが、多分いたずら狐のしたことだろうということでした。
 そこで、猪や野兎をうつ鉄砲を持っている源さんが、或る日、狐が住んでいるだろうと思えるほら穴の入り口で、草を燃やして煙をほら穴の中に追いこみましたが、狐はとうとう出てきませんでした。
 そして、穴の入り口の反対側から煙が出ていました。
 そこは狐の抜け穴で、狐たちはそこから逃げてしまったのです。

 ところで、伏見の稲荷さんや豊川稲荷さんには、狐は神様のお使いとして祀られています。
また、良いことをした狐の話もいろいろありますから、きっと経塚山の狐のようないたずらものばかりではないのでしょう。
                                   ---おわり---



(第7話)
         善光寺参り(ぜんこうじまいり)

 桜郷土史研究会会員 
 故・山吹 生一(ペンネーム)
 2002年1月10日掲載

 一生に一度はお参りしたい所といえば、お伊勢さんに善光寺さんやわなあ。
 中でも、善光寺はえらい人気があってなぁ、『善光寺にお参りを済ませば、極楽浄土が約束せられ、以後安心して暮らすことが出来る。』と、智積
(ちしゃく)では言われとったもんや。

 ある時、在所の初老の婦人が3人、善光寺参りの話がまとまり、準備にかかった。
 交通機関とてない時代の事、歩行の旅である。 
 旅には路銀が要るが、さりとてそんなもの持ち合わせとらん。
 無ければ節約するより外にない。
 宿は素泊まりとして、食事代の節約が最も重要である。
 弁当を用意しても、2日が限度。 そこで、ご飯を干して干飯を作る。
 その他に、はったい粉、そば粉、きな粉も持って行く。
 これらの粉は水に浸して、あるいは茶店で湯でももらえば、用は足せる。
 そこで登場するのが石臼
(いしうす)である。 来る日も来る日も石臼を廻した。
 石臼で挽いた粉は、丈夫な紙袋に別けて詰める。
 その準備に、3ヶ月、4ヶ月、時には半年もかけることになる。

 やっと旅の用意が出来て、家族や知人と水盃
(みずさかずき)を交わして出発した。
 はじめは元気がよかったが、中の一人おすえさんがだんだん元気がなくなってきた。
 心配事があるらしい。
 善光寺に近づくにつれ、足が重くなる。
 それと言うのも、『信心がない者が、善光寺の門をくぐると、犬になる。』と、言われとったからや。
 自分は犬になるかも知れない、と考えた。
 犬になったらどうしよう〜〜〜
 自分が犬になるのは、信心がないからで仕方がないとして、それが家族や知人に知れたらどうしよう〜
 あと2日、あと1日と心配は募る。 寝られない夜が続く。
 ついに意を決して、同行の二人に話した。
 『わしなあ、善光寺さんの門で犬になっても、あんたら在所へ帰って人に喋らんといてな。』 と、頼んで少し安心した。

 いよいよ当日、恐る恐る山門をくぐった。
 お尻を見ても尾が生えていない。触ってみても尻尾は無い。 
 これほど善光寺さんを有り難いと思った事はなかったそうや。
 奈落の錠前にも触れて、これで極楽往生ができると大満足!

 参拝を終えて帰途に着く。
 犬にもならなかったし、往路と違い、心も晴れやかである。
 そして3人無事在所へ帰って来た。
 土産物も配り終え、全ていい事ずくめである。

 だが、しばらくして妙な噂が広まっていることに気が付いた。
 『おすえさんなあ、山門で犬になっても在所の人に喋らんといてな、って頼んで廻ったんやに。』とな。

 み〜んなおすえさんを笑ろたそうや。
 ほんでもわしはな、なんやこう、おすえさんの気ぃが分かるっちゅうかなあ・・・。
 あんたなあ、同行の3人のうち、善光寺さんを一番信心しとったんは誰やと思う?
                                  ---おわり---



(第8話)
         し わ

 桜郷土史研究会会員 
 故・山吹 生一(ペンネーム)
 2002年2月4日掲載

 時は明治の末の頃、郷土桜に、しわ、しわ、と陰口を叩かれる御仁がおった。
 名前は言えない。 万が一知っている人がおると都合悪い。

 本人は承知していたかどうか。 とにかく、しわいことは徹底していた。
 下駄は買ったことがない。
 将棋の駒も買わないで自分で作る。
 当人いたって器用なのである。
 では、貧乏かというと、さにあらず。 相当な資産があり、一文銭・二文銭等は、蔵の中の叺(かます)に入れて積み上げられており、二階への昇降はこれを足場としていたという。

 面白い話が伝えられているが、今日はその中から一つ話そう。
 普通、来客があるとお茶を出す。 茶菓子も出す。
 これは世間並みであるが、「茶菓子」が問題なのである。
 菓子鉢の中には、氷砂糖が入っている。
 その氷砂糖の大きなこと! 拳骨程もある。 そして、それは唯一個である。
 来る人、来る人、誰も手が出せない。
 腐らないし、いつまでも無くならない。 そして、いつも、いつも、それが出てくる。

 ある冬の日、遂にそれに手を付けた人があった。
 諸国を歩いてきた老人である。
 氷砂糖を手にした老人、そばの火鉢の火の上にそれをかざす。
 氷砂糖は、ピッ、ピッ、ピッと音を立ててひび割れが入る。 
 それを菓子鉢の中に、いとも簡単に砕いてしまったという。
 これで一巻の終わりである。

 次に考え出された長持ちする茶菓子は何だったのでしょう?
                                  ---おわり---



(第9話)
         (さる)をほどく

 桜郷土史研究会
 故・山吹 生一(ペンネーム)原作
 2002年3月11日掲載

 猿をほどく・・・・・何のことかお分かりかな? 
 アハッハッハッ、猿を縛った縄を解いて自由にしてやる?
 アハッハッハッ、そうではありませんぞ。

 まあ、ちょっと話がかたくなりますが、聞いてくれますかな?
 まず、この絵を見てくだされ。
 この老人は杉田玄白ですな。
 江戸時代中期の医者であり蘭学者じゃった。
 うん?ご存知じゃったと? 
 そうじゃろうて、あなた様のことじゃ、ふむ、ふむ。

 それでは、『解体新書』のことも、先刻ご承知ですな。
 そうじゃ、時は、明和8年のことじゃ。 
 西暦で言うと、1771年ですわな。
 杉田玄白は、江戸の千住小塚原で刑死体の解剖に立ち会い、その時、かねて入手していたオランダ語訳の解剖書『ターヘル・アナトミア』の人体構造の正確さに、えらい感激しましてなあ。
 それで前野良沢などと一緒に、その解剖書を翻訳したのが『解体新書』ですわな。
 当時は、人体を「解剖する」と言わず、「腑分(ふわけ)する」と言いましたな。
 しかしですな、当時の地方では、「人体を腑分する」など、とても、とても及びもつかず、もっぱら「猿」が利用されましたのじゃ。

 アハッハッハッ、もうお分かりですかのう、さすが聡いお方じゃ。
 ご明察ですな。 
 「猿をほどく」とは、「猿を解剖する」ことですな。
 今では全く耳にしない言葉となってしもうた。
 昔ばなしですなあ・・・・・・・・・・。

 そこで、今回は、「猿をほどく」にまつわる郷土の話をしましょうぞ。
 智積村に、嘉永生まれの医師がおりましてな。
 そうそう、嘉永と言えば、智積村では「智積養水争論」が、嘉永6年と7年に起こりましたなあ。
 嘉永年間は、西暦で1848年〜53年のことで、江戸時代も末期ですのう。

 彼は、郷土を離れて、13年間もの永きにわたって医学を修めましたのじゃ。
 華岡流を名乗っていたから、外科を主とした医者だったようじゃな。

 当時は、医者としての国家試験なんぞはなかったのはご存知の通りじゃ。
 「薬箱を持って医者の後について歩いただけで、村に帰って医者として通用しました。」と、彼はいたって謙虚でしたがのう。
 そういった時代のことじゃから、”13年間の修行でもって、立派な正規の医学を修めた”と、言えますわな。

 さて、その謙遜な彼が、修行を始めてほどない頃のことです。
 いよいよ、猿をほどいて勉強することになりましてな。
 鈴鹿の山中の猟師に、猿を頼んでおいたところ、連絡が入り、受け取りに行くことになったのじゃ。
 このような役は、今も昔も、新参の見習いが仰せつかるのが世の常。

 そこで、わが郷土の医者の卵が、行ってみると、まあ、大きな猿じゃったあ!
 猟師が、その猿を杖の先に縛り付けてくれたそうじゃ。
 担いで帰ろうとすると、猟師が、「裸のままではどうかいのう。」と気を利かして、猿の頭に手ぬぐいで頬かむりをしてくれましたそうな。

 なるほど、一理だと思うて、礼を言い、肩に担いで山を降りはじめましたのじゃ。
 そのうち、日もとっぷりと暮れてしもうた。
 たった一人で、月明かりを頼りに山道を歩いていますとなあ、なにぶん、荷物が気にかかりますわなあ。
 それで、肩越しに、そうっと見ると、なんと、すぐそこに頬かむりした猿の顔があり、こっちを睨みつけている。
 そりゃあ、もう、恐くて、恐くてたまらんだそうじゃ、が、猿を捨ててくるわけにもいかず、そのまま担いで無我夢中で帰ってきたそうじゃ。

 「猿の顔も、そのままだったらなんともなかろうが、頬かむりがいけません。猟師の親切を、これほど恨めしく思った事はありませんでしたなあ。」と、話してくれましてな、ほんに、気の毒な事じゃったあ〜。

 なんですか? 猿をほどいた体験談もお聞きになりたいと?
 アハハハ、聡いあなた様のこと、言わずもがな・・・ですな。
                                   ---おわり---