とにかく、ちょっと桜地区の歴史を覗いてみたい、そんな方におすすめのページ!




四日市市桜地区の真ん中を流れる矢合川は、
いつの時代も、私達の先人と常に何らかの接点を持っていました。

縄文時代

        
 縄文時代の遺跡は、桜町の南方の「桜運動広場」附近から「四日市スポーツランド」までの地域に六箇所と、桜町西区の「西区公民館」前の二箇所で発掘調査が行われました。
いずれの遺跡も日当たりが良く、しかも水の便がよい場所にあり、そこからチャートやサヌカイトの剥片(はくへん。石を割ってできた細長いかけら。槍先)及び石鏃(せきぞく。石やじり)等が出土しました。
このように桜地区に足跡を残した縄文人は、山でどんぐりや栗などを拾ったり、兎や狐などの小動物を捕えたり、矢合川(やごうがわ)や足見川(水沢地区)で魚を捕らえたり水を汲んだりしていたことでしょう。

 こうした縄文人の遺跡は保存されませんでしたが、採集された石鏃(せきぞく)、石錐(せきすい)、削器(さっき)、石匙(せきひ)は、四日市市立博物館で常設展示されていますから、いつでもご覧になれます。 (四日市市立博物館のページへ)
飛鳥時代   
 
 飛鳥時代、私たちの先人は、矢合川がもたらす肥沃な土地で稲作に励み、付近の山で材木を伐って竪穴住居を造り、薪や柴を刈り山の幸を採集して煮炊きをするなど、自給自足の比較的豊かな生活を営んでいたようです。
そのことを裏付けるかのように、1967年(昭和42)、智積廃寺(ちしゃくはいじ)の遺跡矢合川の北岸で発見されました。この智積廃寺は、飛鳥時代の後半に建立され約百年間存続して廃絶した寺で、当地方を支配した豪族の氏寺と考えられています。
また智積廃寺発掘の際、寺域周辺に条里制の遺構が発見され、今に残る智積町の字名(あざめい)の「八の坪(はちのつぼ)」は「条理名」で、律令時代の条里制が智積廃寺周辺にまで及んでいたことが判明しました。
  智積廃寺跡は、四日市市最古の仏教寺院遺跡なのですが、非常に残念なことに遺跡として保存されませんでした。  (「智積廃寺跡」のページへ)

 智積廃寺発掘調査で出土した軒丸瓦(のきまるかわら)や塼仏(せんぶつ)など大変貴重な遺物数点は、四日市市立博物館に常設展示されています。
戦国時代 
  
 
 1539年(天文8)、若き佐倉城主小林重則は、亀山の関一族の峰城主峰盛定の攻撃を受け、一生吹山(いっしょうぶきやま)の砦で迎え撃ちましたが、やがて後退して生水川(しょうずがわ、矢合川の旧名)を挟んで矢を射合う激戦となりました。 懸命に攻防するものの多勢に無勢、あえなく負け戦さとなり、佐倉城主はわずか18歳の若き身空で自刃して果てました。 (「一生吹山の歴史」の項参照)
江戸時代
 
 桜地区の中心を流れる矢合川は水量が乏しかったので、私たちの先人は農業用水の確保にたいへん苦労しました。
 なかでも智積村では、矢合川の水に頼らず、隣村の森村(現菰野町神森)から用水「智積養水(ちしゃくようすい)」を引いて稲作をしていたため、森村とは繰り返し「水争い」が起こり裁判沙汰となりました。
特に、1777年(安永5)に起こった智積養水の水論訴訟は、10年後の1786年(天明6)に和解するという難儀さでした。
(「三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)」のページへ) 
(「智積養水」のページへ)

 智積用水系以外の地域では、山地に「溜池(ためいけ)」を築造したり、矢合川上流に「堰(せき)」を設け延々と長大な「大井(おおゆ)」と呼ぶ用水路を造ったり、マンボを掘削したりして、何とかして水田へ水を引く工夫を重ね、血の滲むような労働を厭わずもくもくと働き続けた先人は、やがて数十町歩の水田を開拓しました。 (「桜町西区のマンボについて」のページへ)
現在
 
 三重用水
 菰野調整池
 農業用水確保のため、私たちの先人は永年に亘って血の汗を流すような苦労をしましたが、1967年(昭和42)頃から水田の土地改良や排水整備事業が実施され、1993年(平成5)に完成した三重用水」から安定した農業用水を受けるようになって、最早「水」で苦労することはなくなりました。 (「三重用水のホームページ」へ 外部リンク)  
(桜地区内の大部分の水田は「三重用水」から水の供給を受けていますが、智積町の水田では従来通り「智積養水」を利用するなど例外はあります)

 1970年代から南の丘陵地に大規模住宅団地が造成され、人口の増加に伴って私たちの生活が多様化するに伴い、矢合川から見る桜地区内の風景も大きく様変わりしました。
しかし、今日も矢合川は、西の山からさらさらと流れ出て、元気な子供達に水棲生物をプレゼントしながら、桜地区の真ん中を通り抜け、やがて三滝川に合流していきます。
矢合川は、私たちのふるさとの象徴です。 

「HOME」へ