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@ 「桜の史跡NO.1」写真と解説のページへ
釣 谷 林 道(つりたにりんどう)
 
    昭和十年から十二年頃の話である。
  当地紀元二千六百年事業(神武天皇即位の年を
  西暦紀元六六〇年と定め、これを皇紀元年とし
  たもの)が全国各地でおこなわれていた。
     桜村の青年団では、当時の団長石川匡(医師
)を中心に、ここから始まる村有林に通じる林
道の拡張工事を実施した。  
     昔は、機械もなくツルハシ、スコップ、鋸な
  どによる手作業であり、ほんの少し農業の手が
  すく冬の間、三年間にわたってそれは難儀な作
  業がおこなわれた。
     作業の間の楽しみは、焚き火をしながら団長
  からの差し入れのせんべいを食べることであっ
  たと当時の青年団員は語っている。
 この事は、昭和十五年伊勢神宮での全国記念
  事業報告大会で報告され、記念にこの石標が建
  てられたものである。

              桜地区地域社会づくり推進委員会
       桜 郷 土 史 研 究 会




A 「桜の史跡NO.2」写真と解説のページへ
弁天様と山の神
 大谷池・大谷社について、桜村地誌(明治十七
年編)は「嘉永二年(一八四九)春この池を掘らんこ
とを領主に出願し、同年八月着手し二年余で落  
  成す。その際出役官吏は津藩司農、高橋省五郎 
  この池水の永遠に潦へし守と厳島の神を斎(いつ)くべ 
  しと命ぜらる。神籬磐境(ひもろぎいわさか)の古事に倣(なら)ひ一社を祀 
  ると云、是大谷社なり」と記す。さらに、大谷 
社については「嘉永三年創立、祭神市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を
祀る。祭日毎年七月十四日」とある。
    大谷池は、この乾谷(いんだに)公会所の西北、大谷に在
  る溜池であるが、祭神の通称弁天様に因(ちな)み、弁
  天池と呼ばれている。当初祀られた場所は池の
  北東で、すでに山の神が祀られていたので神籬
  磐境(神苑の垣根)をして祀られた。
    しかし、終戦後池の南に移されていたが、こ
  の公会所が新築されると当所に移され、二度目
  の遷座(せんざ)である。また、山の神の祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)
  であるが、今も両神は古事に倣い神籬磐境をも
ってお祀りされている。

              桜地区地域社会づくり推進委員会
              桜 郷 土 史 研 究 




B 「桜の史跡NO.3」写真と解説のページへ
 金 刀 比 羅 宮
   斧研の山中吉五郎さんは日頃から四国の金刀
  比羅宮を深く信仰していたので、金刀比羅さん
  を近くにお祀りしたいと念願していました。今
  の社の付近は、樹木が少なく見晴らしのよい四
  国の本山のたたずまいによく似ており、此の地
  を借りて金刀比羅さんをお祀りすることにしま
  した。
    庭師でもある山中吉五郎さんは、数人の弟子
  と共に昭和六年八月十三日工事にかかり、四年
  余りの歳月と延べ人数六〇〇名以上の青年団や
  村の方々の奉仕に支えられ日頃からの夢を実現
  させました。
    完成祝いは昭和十年十月十日盛大に催され、
  一の鳥居は後日清水力、浜子さんご夫妻より、
  石灯籠は山麓に鎮座されていた稲荷神社(椿岸神
  社に合祀)に坊主尾の氏子一同より奉納されたも
  のを奉納し、現在に至っております。
    四国の金刀比羅宮は海の守り神として有名で
  全国の漁業、海運業に携わる人々から広く信仰
  を集めており、その昔には伊勢参りについで参
  詣者が多かったと言われています
              桜地区地域社会づくり推進委員会
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C 「桜の史跡NO.4」写真と解説のページへ
 宝木院七福寺(ほうぼくいんしちふくじ)

 材木商を営んでいた中村正一さん(平成二年
  四月没)は、晩年神仏への信仰を深め、事業を
  息子さんにゆずり各地の寺院をお参りしている
  時に、ぜひ近くにもお祀りしたいと思いました。
  そして、南山の高台で神田ヶ平の地に場所を
  決め、家族とともに埋め立てを行い、岡崎の石
  材問屋へ幾度となく足を運び、昭和五十一年か
  ら五年の歳月をかけ、天照大神、猿田彦大神、
  阿弥陀如来を始め、七福神など五十数体の神仏
  を建立しました。
  なお、宝木院の由来は自然豊かなこの地と土、
  水、大気が慈しんだ自然の命である樹木をもっ
  とも大切にした中村正一さんにちなんだもので
  す。
  今も、春(四月一日)は安正寺住職、秋(十
  月十五日)には椿岸神社宮司のご奉仕とともに
  祭りをおこなっています。

              桜地区地域社会づくり推進委員会
        桜 郷 土 史 研 究 会




D 「桜の史跡NO.5」写真と解説のページへ
 経塚と経塚山

 経塚山は海抜約八十六メートルの小高い山で
  頂上の塚付近が安正寺の所有である。
  経塚とは、書写したお経を金銅や陶製の経筒
  に入れて土中に埋めた所で、仏像や仏具も共に
  埋められることが多く、平安時代中期から江戸
  時代にかけて全国各地で盛んに作られたもので
  ある。
 平安時代には、仏教の教えが衰退してしまう
  という危機意識(末法思想)が広まり、後世に
  大切な経典を残そうとしたもので現代で言うタ
  イムカプセルである。
 そしてまた、経塚を造営することによって極
  楽浄土へ往生を願うという意味もあったようで
  ある。
  この経塚が各地と同様のものかは不明である
  が、一説には遠く滋賀県から伊勢の地へ布教に
  赴き安正寺や西勝寺を建立し、山上(やまじょ)にも碑があ
  る山田教尊の墓所と言われている。

              桜地区地域社会づくり推進委員会
        桜 郷 土 史 研 究 会




E 「桜の史跡NO.6」写真と解説のページへ
 教尊法師(きょうそんほっし) の 碑
山上(やまじょ)は教尊ゆかりの地である、近江国神崎郡
    山上(やまがみ)郷(滋賀県永源寺町)の山上(やまがみ)城主 (山上(やまがみ)城の
    出城が山田城)であった教尊は、俗名を小椋頼(おぐらより)
    利(とし)といい、後に本願寺第八代蓮如(れんにょ)上人に深く帰
    依して出家し、この地に坊舎を構え法蔵坊と称
    した。
      伝承によると当地には、山田・奥山・服部・
    山原・清水・萩野・川野・小林・萩原・大西・
    辻・松田・山中・小森・山路・横山の教尊ゆか
    りの家臣十六人がいたともいわれ、「十六屋敷」
    の地名が残されていた。
      教尊を開基とする寺は四ヶ寺あり、西勝寺(
   智積町)、 安正寺(桜一色)、 福泉寺(平尾)、  
    存仁寺(芸濃町椋本(むくもと))である。西勝寺は山上の
    法蔵坊が移転した寺で、安正寺は教尊の隠居所
    といわれている。
      永正七年(一五一〇)教尊没、八四歳。
      この碑は、浄土真宗をこの地に伝えた教尊を
    敬い、山上の人々が建てたものである。

                桜地区地域社会づくり推進委員会
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F 「桜の史跡NO.7」写真と解説のページへ
八幡神社と山の神
      昔、山上一帯には桜の木が多く桜岡と称し、
    この八幡神社の東隣に四五二坪の境内を有する
    桜岡神社があった。祭神は誉田別(ほむたわけ)天皇(応神天
    皇)で境内には稲荷社もあった。
      今、拝殿の額にある桜岡神社は、明治十二年
    に社名変更の願書を出したが入れられず後に許
    可になったものである。額の右の橿原(かしわら)朝紀元二
    五五〇年は明治二十三年に当たる。拝殿内には
    明治九年の八幡神祠の額もある。
      明治四十二年政府の一村一社の方針に依り、
    他の神社と共に椿岸神社に合祀されたが、内社
    殿等は残して、祭日には幟(のぼり)を立て屋形提灯を飾
    って、昔を偲(しの)んでいた。   
      終戦直後の昭和二十二年、有志の希望で山上
    八幡神社として再建し、昔通り一月一日と八月
    十五日を祭日として祭礼がおこなわれている。
    老朽化した社殿は昭和五十八年に建替えられた。
      山神も旧桜岡社の西端に祀られていたが此処
    へ遷座、祭神は八衢彦命(やちまたひこのみこと)・八衢姫命(やちまたひめのみこと)で、毎年十
    二月六日の祭りは今も略式化されて存続する。
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G 「桜の史跡NO.8」写真と解説のページへ
地  蔵  堂
     桜村地誌(明治十七年編)は、桜一色から山上(やまじょう)に
   かけての地を「此地桜樹頗(すこぶ)ル多ク、山頂岡阜(きゅうふ)ノ花、
   白雲ヲナス」と形容して、「名勝・桜岡山(おうこうざん)」と称して
   いる。また、「往古北畠満雅郷此地の桜を賞賛し
   給ひて一の荘園となる」と記している。
     北畠満雅は、伊勢国司三代目で「白米城」の伝説
   名高い松阪市の阿坂(おさか)城主であったが、 正長元
   年(一四二八)南朝の小倉宮に同調して挙兵するも津
   の岩田川で討死し、首は京都に晒(さら)された。 伊勢
   国司記略には、その節義に殉じた満雅を「断頭将
   軍」と称賛している。
     満雅の死の翌年永享元年(一四二九)これを慕う
   里の人は、 地蔵菩薩を本尊とし桜岡山長福寺を
   建てて冥福を祈った。  しかし永禄年間、織田信
   長の伊勢進攻の際 長福寺も焼失したので、 新た
   に荘岡山(そうこうざん)全福寺を再建した。
     全福寺は明治七年廃寺。  その後、出産した家
   で奉納する提灯(ちょうちん)祭(七月二四日)があり、雷除け地蔵
   の御札も広く売られていた。

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H 「桜の史跡NO.9」写真と解説のページへ
桜神社跡の碑
     昔、この石碑から東へ一八〇坪の境内を有する
   桜神社があり、桜一色村の産土神(うぶすながみ)であった。正
   殿に須佐之男命(素戔嗚尊(すさのおのみこと))を、別殿に木花之(このはなの)
   開耶姫(さくやひめ)(木花佐久夜毘売命)が祀られていた。
   永録年間、兵火によって焼失したが、その後再
   建して桜宮または天王社と称した。
     此処の字名(あざめい)を武佐(ぶさ)というのは祭神の須佐が転
   じたものであり、農業・開拓の守護神、素戔嗚
   尊の名は桜一色村の開墾地、天王平(桜中学北)
   にもある。また桜中学南方をかんたんひら神田平と呼ぶのは
   貢献の供物を栽培した地である。
     碑文を書いた山田直行は桑名藩士に生まれ、
   津に移住して私塾を開き多くの子弟を教えた。
     閉舎後は諸体の詩を一万余首作り、明治二十
   九年(一八九六)八十八才で没した。
     碑文は明治二年桜神社に参詣の時のもので、
   土地の人々が昔から神社を崇(あが)め、樹木を大切に
   してきたこと、西に続く桜岡(地蔵堂付近)の
   美しさと歴史等を賛美している。桜神社も明治
   末期に椿岸神社に合祀された。

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I 「桜の史跡NO.10」写真と解説のページへ
 瑞 光 の 石 碑

      今は亡き古老は次のように話していた。
   「昔から伝えられている話だが、この辺は度
    々の洪水で百姓は難儀していた。或るとき、
    苦行している尼僧が「私が人柱になって洪水
    を防ぎましょう」と言って生埋めになり、何
    日かリーン・リーンと鈴の音がきこえていた。
    宗派が違うので安正寺へは葬れず、此処に
    石碑を建てた。此処は三十三間筒右岸堤の続
    きで昔は河川敷だった」とも話した。
   碑名は風化で読み難いが「瑞光菴主大兄位」
    とあり、禅宗に関係のある男子ではなかった
    かとも考えられ、また全福寺は曹洞宗(禅宗)
    で佐倉城主小林家は六組堂(むくみどう)を墓地にしており、
    関係の深い千草家系図には、次の名がある「
    千草治庸従五位下、式部小輔号瑞光院殿。大
    永二年八月朔日卒」(一五二二)。
    しかしまだこの石碑との関係については定
    かではない。

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J 「桜の史跡NO.11」写真と解説のページへ
 三 十 三 間 筒 
三十三間筒(どう)について、智積村地誌(明治十七年
   編)は次のように記述している。
  〈埋樋(うめとい)〉神森村、桜の界、金谷(かんだに)川底にして蟹川
   にあり。長三十間、竪(たて)二尺五寸、巾三尺。(附記)
   正徳元年(一七一一)松平越中守代官石原清右ェ門官
   費を以って伏替、長三十三間、内のり法三尺、其後石
   樋に換し前の数と改む。
  江戸時代、智積東部は桑名藩松平家に属して
   いたが、三滝川も金渓川(かんだにがわ)(金谷川)も常水がなく灌
   漑用水にこまり、森(神森)の蟹池(伏流水)を水源と
   する蟹川に頼っていた。しかし、旱魃(かんばつ)の年には水 
   不足のため両村の間には水論が起こり、安永六
   年(一七七七)の訴訟問題は十年後の天明六年(一七八六)
   に解した。この結果、森村の用水の余分の水は
   残らず埋樋(三十三間筒)を通して智積村へ流す約
   束ができた。
     明治時代の測量図では、金渓川の右岸堤防は
   今の桜一色の堤防沿いの道になっており、昔の
   川巾が三十数間もあったことがわかる。

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K 「桜の史跡NO.12」写真と解説のページへ


L 「桜の史跡NO.13番外」写真と解説のページへ
 椿岸神社(延喜式内社)
      祭 神      天 之 宇 受 女 命
                 猿 田 彦 大 神
                 天 照 大 御 神

当社は、もと 椿尾と称する奥地に在り、古くから
里俗の尊信を集めていたが、享禄二年(一五二九年
)兵火に罹って灰塵に帰した。時、恰も戦国乱離の
様相日増しに濃く周辺の寺社や貴紳の別業にして戦
火に遭うもの幾多、以て当地近隣にまで動乱の余波
が及んでいたことを知る、これにより三十余年を経
る永禄三年(一五六〇年)奥七郷の氏子、新しく天
照大神、八幡大神を勧請して、智積町御所垣内の地に
これが再建を完了し、それにより里人の崇敬いよいよ
深し。言ふところの七郷とは智積を首邑とする佐倉
、桜一色、森、赤水、海老原、平尾を指し一御厨
を成していた、爾来 世移り人改すること幾星霜
明治四十三年一村一社の方針に基づき、旧桜村内の
神社を総てここに合祀した。

     昭 和 五 十 六 年 一 月 建 立
                宮   司         山  本  行  隆
                昭和五十五年度 氏 子 総 代一同
                氏       原        参       午
                昭和五十六年度四十二才厄年一同
 【註】上掲は、神社側が石碑に刻んだ碑文である。(他と異なる)


L 「桜の史跡NO.13」写真と解説のページへ



M 「桜の史跡NO.14」写真と解説のページへ
延  福  寺 跡
  此処にはもと、薬師堂が在って昭和十四年ま
   で尼僧が住んでいたが、昭和四十四年に今の公
   会所に改築された。
   薬師堂は昔、延福寺と称し本尊は薬師如来、
   冠宝山三岳寺(湯の山)の四八坊の一つで天台宗
   に属しており、此処より北方一八〇メートルの石
   薬師の地に在ったが享禄二年(一五二九)戦火で焼
   失した。
   爾来五二年間中絶していたが天正八年、佐倉
   城(小林家)縁(ゆか)りの者で三河国吉良の庄、泉念
   寺塔頭(たっちゅう)で瑞暦(ずいりゃく)寺の住持となった牛庵が、霊夢に
   より帰郷して延福寺跡から薬師如来の仏頭を堀
   りだしたので寺の再興を発願した。
   尾張熱田の仏師が仏体を造り、山号を小林山(しょうりんさん)
   と改めて堂宇を再建して庵寺となった。四年後
   大地震で倒壊、庵主涼心尼(あんじゅりょうしんに)が復興した。
   延福寺は明治七年政令により廃寺となり薬師
   堂として在ったが、本尊の薬師如来像は仏頭と
   御手は木彫で、御躯は磚(せん)の木心乾漆の手法で造
   られている。この薬師如来像は現在西勝寺に安
   置されている。
              桜地区地域社会づくり推進委員会
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N 「桜の史跡NO.15」写真と解説のページへ
智積御厨(ちしゃくみくりや)と多宝山智積寺
平安中期(凡そ西暦九五〇年以降)北伊勢にも神宮
領が広がるが、折から天災や疫病や争いが続き、世
の乱れに乗じて、禰宜(ねぎ)たちや京の大貴族が神宮領を
私有化。税のみを神宮に納めて御厨(みくりや)と称した。
現桜地区周辺(菰野、神森、上下海老原)にも、
一一六五年頃 西園(さいおん)寺家(じけ)の御厨(みくりや)が成立。 (内宮領)
       面積・一八〇町歩。   (県下有数)
一二〇〇年    御厨(みくりや)の中心となる寺として、当地に
「多宝山智積(ちしゃく)寺」創建。本尊薬師如来。
七堂伽藍完備。(桜南公民館西隣り)
これにより、西園寺家御厨は「智積(ちしゃく)の御(み)厨(くりや)」と呼ば
れるようになる。(智積とは法華経に出てくる大通(だいつう)
智(ち)勝仏(しょうぶつ)の十六王子の長男の名前。末子の名が釈迦(しゃか))
一三二八年 智積(ちしゃく)御厨(みくりや)の持主は、中御門(なかみかど)家(松木(まつのき)家)
      に代り、後年、戦乱を避け当地に住む。
一五八三年 領主織田信(のぶ)雄(かつ)の施政にて智積御厨消滅。
一五八七年 松木(まつのき)家は、寺と老境の姫を残して帰京。
江戸時代に入り、多宝山智積寺は、免田(めんでん)一反で辛う
じて存続するが、明治九年(一八七六)伊勢暴動にて焼失。
本尊の薬師如来坐像は村人に救出されて現存する。
半丈六で江戸初期の作であるが、平安の様式を継ぐ。
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O 「桜の史跡NO.16」写真と解説のページへ
 桜 観 音 堂
     古い昔より、里人の守仏(まもりぼとけ)(聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ))と
   して西の平(現在の西高校)にあり、何人が建
   立したものかは、当地の寛保年間の資料でも知
   れずとある。
     安永六年に再建され、以後のことを詳しく伝
   える「由来書」は、今も御堂(みどう)に大切に掛けられて
   いる。昔は、一色・山上・坊主尾・佐倉の若衆
   たちの手で盛大な縁日(七月十八日)が行われ、
   村人たちの信仰と親睦の場となっていたようで
   あり、幕末の頃には馬駆けが行われたという伝
   承もある。
     そして、明治二十七年墓地の移転に伴い、薬
   師山(通称観音山・現在桜台にある墓地)に遷座(せんざ)、
   桜台団地造成に伴い昭和四十九年、里を見下ろ
   す矢合川の辺りに住民の志を結集して、御堂を
   六角堂に改築し再び遷座(せんざ)したものである。
     参道には五輪塔のいわれの碑、御堂の側には
   観音山にあった美しい老松に住んでいた「天狗さ
   ん」がいるともいわれる山の神(石塔)があり、
   今も四月十八日(縁日)は、大勢の参詣人で賑
   わっている。

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P 「桜の史跡NO.17」写真と解説のページへ


Q 「桜の史跡NO.18」写真と解説のページへ
雨池用水と大師堂
江戸時代末、米不足対策の幕府方針により、智積で
も一八一八年に一生吹山麓(さんろく)の田地化が行われた。
山頂の北西高地にあった窪地(くぼち)に雨水を溜め(雨池)
まず西側斜面を灌漑。
又山地の東側へは、雨池より水路を掘り下(くだ)り、こ
の背後の高みを左方(東向き)に 約70m のマンボ
を掘ってこちら側に通し、標高差を利用して導水、
山の輪郭沿いに曲折しながら山を巡り、現メダカの
学校(字(あざ)初瀬)を経て、南東(字(あざ)大谷方面)に進み、
道中東方の田圃(高角境)を灌漑した。
 残る北側、この前方一帯の字(あざ)円上(えんじょう)田(でん)へは、西斜面
の下からこの右手を流れ下る茶々川を利用すると共
に、ここに掘抜(ほりぬき)井戸を掘って給水した。
 灌漑水は地中に浸(し)み、地形上最も地下水の集まる
この場所からは、豊富な清水がこんこんと湧き出し、
人々の憩いの場ともなった。
 この水が永遠に絶えん事を祈って、昭和の初め頃、
篤志の人が、水に縁の深い弘法大師をここに祀(まつ)り、
今も受け継がれている。
 治水の完備した現在、池は不要となり、水路は埋(う)
もれ井戸も涸(か)れ、祠(ほこら)だけが昔を語る。
          桜 郷 土 史 研 究 会


R 「桜の史跡NO.19」写真と解説のページへ
 鵯岡白滝不動
     昭和六年この近くの谷間で大変古い不動明王
   の石像を発見したので、故小林寛一さんの父が
   発起人となり近隣の人と相談し、小林さんの所
   有地である此処に祠(ほこら)を建てお祀りした。
     近くの下雨池から谷に注ぐ流れに因(ちな)み「白滝
   不動」と名付けたのは後からである。
     開発前の鵯岡(ひよどりがおか)は標高七十メートル位の丘陵地
   で松や雑木の林であったが、この境内の地盤や
   松の木は当時のままである。
  「昔、子供の頃この方面に村の青年団などが御(お)
供物(そなえもの)等を担(かつ)ぎ上げてお祈りするのを見たが多分
   不動様に雨乞いをしたのだろう」と、小林寛一さ
   んは回想し、「不動様の石像も下雨池の出来た二
   百年位むかしにお祀りされたものとおもえる」と
   話していた。
     小林さんは、この近辺に千本の梅林を念願し
   ていた。紅白の梅の花が散りのこり一生吹山に
   桜花が見える頃、不動明王の例祭があり多くの
   参詣人が集まるが、不動様の恩恵を受けた人達
   の御芳志のおでんの味は、忘れられない。
            
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              桜  郷  土  史  研  究  会


S 「桜の史跡NO.20」写真と解説のページへ
一生吹山の歴史
      佐倉城主小林重則は、天文八年(一五三九)この
   一生吹山に砦(とりで)を築き、来攻した鈴鹿郡峯城主峯
   盛定と対戦したが、利あらず矢合川北岸で自刃(じじん)
   した。時に重則十八歳、自刃して果てた地を後
   に殿原(とのはら)と呼び、旧名生水(しょうず)川(今井川)を矢合川と改
   めて激戦の様子を偲(しの)ぶよすがとした。
     一生吹山は出城(でじろ)山とも呼ばれ、毎年七月一日
   に「デジロ祭」があり、若き城主の痛恨を慰霊する
   行事は近世まで催されていた。また、ここには
   木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祭神とする浅間神社が祀られ、安
   産の神として信仰されていたが、明治四四年椿
   岸神社に合祀(ごうし)された。
     その後、村の有志の人々により信貴山の毘沙(びしゃ)
   門天(もんてん)を勧請(かんじょう)し、お祀りして現在に至る。毎年四
   月三日の例祭には植木市などで賑(にぎ)わうが、明治
・大正の頃は松茸狩りが盛んで、「十月中旬頃は
  全山松茸狩りに満ち歓呼の声絃歌(げんか)の響きで賑わ
  う」と、当時の四日市鉄道(近鉄湯の山線)の沿線
  案内は宣伝している。

              桜地区地域社会づくり推進委員会
             桜  郷  土  史  研  究  会

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